人類カテゴライズ問題
Twitterで読売新聞の「美術館女子」が話題になっていた。
個人的には「発案者はインターネット知らないのかな」という感じ。
昨今、「〇〇女子」みたいなカテゴライズを安易にやると大火傷するのはちょっと考えたらわかりそうなものだ。
ただ、これをめちゃくちゃ批判する人もいかがなものかなと思う。
それは「〇〇女子」という言葉がカテゴライズである、ということ自体が間違いかもしれないから。
これは、恋愛における好みの話で考えるとわかりやすいと思う。
人間にはそれぞれ、好きなタイプがある。その要素には以下のようなものが挙げられる。
・優しい
・賢い
・生物学上男性
・性自認男性
・高身長
・料理ができる
これらはカテゴリーであると同時に、単なる事実であると捉えることもできる。
例えば「料理ができる・趣味にしている男性」を指す「料理男子」という言葉は「料理とは女子のやることである」という前提があったうえで、珍しい存在としてカテゴライズされていると捉えられる。
でもそれは、「料理とは女子のやることである」という世間の先入観と、その先入観を認識している人間の存在によって生まれる意味であり、「料理男子」という言葉そのものにカテゴライズの意味はない。
同様に、「〇〇女子」という言葉を批判すればするほど、わたしたちはそこにカテゴライズとしての意味を与えてしまっていると思う。
わたしは「美術館女子」だ。
ただそれはわたしの中の要素の一つに過ぎない。もちろん共通項を持つ人たちと「美術館女子」のコミュニティを築くことはできるけれど、「美術館女子」として一纏めに誰かに語られるのは好ましくない。それだけの話。
読売新聞はどうだろう。これはカテゴライズか?「美術館へ行く女性」とは如何なるものかを語っているのか?
わたしは単に事実を指しているだけではないかと思う。女性アイドルが美術館を巡るから「美術館女子」。
ただし、メディアというものは「世間がどう取るか」が重要であり、言葉の意味は書き手が決められることではない。そういう意味で、「美術館女子」は適切な表現ではなかったと言えるだろう。
また、「映える写真」をテーマの一つにしているらしく、そこに噛みつく美術館ファンは多いと思う。「映え」以外の、作品や美術館のバックグラウンド等を伝えられるかによって、世間が感じ取る「美術館女子」の方向性は大きく左右されるだろう。
インスタ映え狙う人たちとしてカテゴライズされたときには絶対に許さないと思う。
おかしいと思ったことについて、声を上げるのは必要だから、今回批判している人を批判したいわけじゃない。けれど、言葉そのものについて多角的に捉えずに言っているなら考え直す必要があると思う。
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