わたしの世界

最近、毎日のように電車に乗る。目的はさまざまだけど、電車はいつもそれなりに混んでいて、ラッシュ時の地下鉄なんて最悪だ。

電車に乗ると、当然のことながらわたし以外の誰かが同じ空間に存在してくる。
人混みなら、ふいにぶつかってしまうこともあるだろう。満員電車のような密着状態も頻繁に起こる。

わたしはこのような、「赤の他人と接触する機会」が苦手だ。
触れ合うこと自体に嫌悪感があるとか、おじさんとの接触が生理的に無理とか、そういう話ではない。
簡潔に言うと、体温を感じることでその人が生きているということを認識させられるのが嫌だ。嫌というか、びっくりする。

「あっ、この人生きてるんだ…」

物理的な接触だけではない。全然知らない人から急に話しかけられた時もまた然り、である。

何人かの友人の反応はこうだった。

「人間なのだから、生きているのは当たり前だ」

もちろんわたしだって、人間が生きものだということくらいは理解している。
でも、理解していたとて、普段の生活において「赤の他人の生」を意識することがどれほどあるだろうか。

例えば、本当に極端な話だけれど、自分と同じ電車に乗っているのが「全く関わりのない人々」でも「ダンボールの山」でも、直接的な影響は無いだろう。
もっと語弊を恐れずに言えば、自分と関係無い人間は、生きていても死んでいても同じだ。
つまりわたしにとって道行く人々は物同然で、ただの風景の一部である。
そしてそれは完全なる外部の存在であり、わたしの世界のものではない。

そんな外部の存在がふいに自分と接触し、生きていることが伝わってくると、びっくりする。そこには嫌悪や恐怖、発見の喜びと少しの好奇心が含まれている。ちなみに、後者の2つに傾いたときは「出逢い」になる。

(元から関わりのある人なら、ふいに触れてもなにも感じない。その人が紛れもなく生きているということを既に認識しているため。)

たぶんわたしの世界は固く閉じられていて、基本的には他人の介入を好まない。

それに気がついてからは、心を許せる人、人生を見届けたいと思う人を大切にしたい気持ちが強くなった。また、時には世界を押し広げて、新しい他者を迎え入れたい。でないと、わたしはわたしの世界で、ひとりぼっちになってしまう。そうなったら、生きるのはお終いだ。
だって、わたしも世の中の大半の人々にとっては外部の存在で、生きていても死んでいても同じなのだから。

わたしは、わたしに関わってくれている、わたしの世界の人たちによって生かされている。

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