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【短編小説】 待望の退

 私が職を離れると決めた時、同僚や部下たちは口を揃えて「勇退だ」と言ってくれた。
 街に一つだけある大きなデパートの七階南側。私はそこで、輸入子供服と体に優しいおもちゃの売り子をしていた。迷えるご婦人に寄り添ったり、商品を勧めたりするあの職業だ。
 そして私はそのお店のサポートの一環であるおもちゃ病院の初代院長でもあった。小さなネジ一つの歪みから、バネや車輪の修理、電池の交換、着せ替え人形の髪を整えることもしばしば。廃盤になってしまった部品を追いかけて約一週間、足を棒にして探し回ったこともあった。そのおかげで、今では街にある金物屋さんからリサイクルショップ、スーパーの一角にある日用品コーナーの品揃えまで、細かくリストアップ出来ている。
 どれもこれも大変じゃなかったと言えば嘘になる。しかし、何物にも替え難い喜びがそこにはあった。
 誰も気づいてはいなかったけれど、私の目は細かいものがだんだんと見えなくなっていた。それはごく自然な時の流れのせいだった。
 人間も、お人形やぬいぐるみのように、古くなったパーツを交換することが容易ならば、私ももう少しやりようがあったかもしれない。自ら申し出た退職は、体の衰退によって選ばざるを得なくなった引退だった。
 おもちゃの造りや部品の名前を一から教えていった部下はもう充分一人でやっていけるだろう。彼女はその大きな目の縁に、アクリルストーンのようにきらきらきらとした涙を溜めながら微笑んでくれている。
「長い間、お世話になりました。これから私は一進一退、時に進寸退尺、絵本作家として地道に活動を進めていくことにしました。皆様、どうか健康にはお気をつけて、お元気でお過ごしください」
 思いつきで絵本作家を目指すわけではない。
 突如として私の頭の中に建てられ始めたドールハウスが、数年間放っておくうちに、小さな街のようになってしまったのだ。その街の中では、様々な表情をした主人公たちが、自分の出番を今か今かと待っている。この主人公たちを描くことが出来るのは、私しかいない。私は替えのきかない自分の頭と心のパーツに素直に生きたいと思ったのだった。
 この退職が勇退であればいいと願いながら、大きな拍手と豪華な花束を授けられ、今日、私は退いた。
 デパートの外へ一歩出れば、寒さが身に染みる。でもこの体は、老体と呼ぶにはまだまだ若い。
 この選択は、人生の後退ではない。具不退転、心のままに生きるための記念すべき第一歩だ。体も心も人生も、傷んだところで交換はきかないけれど、古くなるごとに味わいが出る。長く大切に扱えば、それだけ愛着も沸くものだ。
 これからの私を待っている喜びや悲しみ全てに期待し踊りだす胸を落ち着かせるように、私は花束をぎゅっと抱きしめて帰った。

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