【短編小説】 いい天気
「今日の天気は、晴れのち曇り。ところにより、夕方から強い雨の降るところもあるでしょう。折り畳み傘を忘れずにお出かけください」
淡い色のシフォンブラウス。花柄の上品なレースのあしらわれたタイトスカート。えくぼの似合う小さな顔をしたお天気お姉さんは笑顔でそう言った。くるくると巻かれた艶のある髪がさらさら揺れる度に、画面越しでもいい匂いがしてきそうだと思った。
ふと視線を落とすと、ボタンの無い楽ちんスキニージーンズに年末セールで買った色気のないギンガムチェックのシャツが映る。髪の毛は毛先しか視界に入らないほど短い。それは紛れもなく私のもので、私はちょっとだけ憂鬱になった。
私は雨合羽をそっと鞄に忍ばせて振り向いた。
「さぁ行こうか」
息子に上着を着せながら、寝癖を撫で回してなんとか誤魔化した。
「ママ、今日はいい天気?」
「うん。晴れだって。でも夕方は雨かも」
「へえ」
自分から質問をした癖にあまり興味のなさそうな息子を自転車の後ろに乗せて、全速力で走り出す。雨が降る前に帰れればいいなと、半ば祈る様な気持ちで息子の背中を送り出した。
「雨だね」
お迎えに顔を出した私に「おかえり」と言う間もなく息子は言った。彼は、残念とも、悲しいとも嬉しいとも違う、神妙な面持ちでそう言っていた。
私は一日の終わりの疲労感から、彼が何を言いたいのか聞く気持ちにもなれなくて、ため息混じりに「そうだよ」と答えた。リュックを背負った小さな体ごと雨合羽で包み、自転車の後ろに乗せる。
この子が産まれてすぐ購入した電動自転車の後ろには、子供一人がすっぽり入る卵型の立派な屋根がついている。それでも雨合羽を着せるのは、乗り降りまでに上から下までしっかり濡れてしまうからだった。
雨の日は荷物も手間も多い。後片付けの面倒くささを思いながら、家路に着いた。
自転車から降ろすと、息子はちらちらと私の顔色を見ながら口を開いた。
「……ママ、お散歩したい」
私は躊躇った。ただでさえ今日も時間に追われている。お散歩がどれだけの時間をとるのか予測も出来ないが、全てのスケジュールが押してしまうのは確実だ。
平日の夕方という戦場に赴く心を決めた私にとっては、この提案は、戦場のど真ん中で鎧を脱いでお茶会をしましょうと言われているようなものだった。
どうしよう。どうすべきだろう。
私の都合だけで言えば、もちろん避けたい。けれど、目の前の息子はただをこねるわけでも、ぐずついてその場を動こうとしないわけでもない。私の顔色を伺って、私の許可を得ようとしている。
そんな息子の姿を見ていたら、私は動けなくなってしまった。まっすぐに私を見る息子の瞳には、怒られるかもしれないという不安と、許されないことだと理解している諦めが揺らいでいる。
なんてことだろう。私たちは一体、いつからこんな風になってしまったんだろう。
「……お散歩、しようか」
本降りだった雨は小雨に変わっていた。家の中に荷物を放り込んで、息子と二人、手を繋いで歩いた。
手入れの行き届かない私の手は、がさついてささくれだっている。息子の柔らかい肌に傷をつけてしまうような気がして、私はなるべく優しく手を握った。けれど、息子はそんなこともお構いなしに、その手を力強く握り返してくる。
息子の小さな手は冷たくなっていた。その冷たい手が懸命に、戸惑う私の手を引いて、強く強く、握りしめている。
「いい天気だね」
息子は上機嫌だった。
「……うん?」
「僕雨が好きだよ。だって楽しいから」
ぴちゃり、足元の小さな水溜まりを踏んだ息子。
私は申し訳なさと情けなさで視界が歪むのを自覚しながら、濡れて色の変わる彼のズボンを見ていた。
いつもなら怒鳴っていた。どうして何度もやめてと言っているのにやめられないのかと問い詰めて、酷い時は「そんなにママが嫌がることがしたいのか」と、辛く当たったこともある。なんて酷い母親だろう。
洗えば綺麗になる洋服一つのために、私は、息子の心にどれだけの汚れをつけてきたのだろう。
「そっか。楽しいよね。水溜まり」
私がそう言うと、息子は私の顔を見上げてまた顔色を伺ってきた。
「入ってもいい?」
もう入っているのに。やっと今になって、これがいつもなら怒られることだったと思い出したのだろう。
「今日はすぐにお風呂にしようね」
そう言って空を見上げた時、うっすらと虹が掛かっていることに気づいた。
「見て! 虹!」
私は息子を抱き上げた。息子はしばらくきょろきょろと辺りを見回して、ようやく頭の上の虹を見つけた。
雨上がりの雲間から覗く夕陽は、ピンクとオレンジの混ざった暖かい光を地面に落とす。夕陽に温められて、湿気を含んだ生ぬるい空気が私たちを包んでいた。
土の匂いは、柔らかい。幼い私の手を引いてくれた母の優しい笑顔を思い出した。
「やっぱり今日はいい天気だよ」
息子はそう笑った。私もそう思った。晴れでも、雨でも、曇りでも。そこに息子が居て、息子が笑っている。
それだけで、充分じゃないか。
「そうだね。いい天気だね」
ぽろりと目尻から落ちた涙を指先で拭って、虹を見た。陽が落ちるまでずっとずっと、そうして見ていた。
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