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【短編小説】 合わない枕

「今日は遅いの?」と母。
「早くはないと思う」と父。
 母は小さく眉をひそめて黙る。私の隣で朝食をつつく父は、そんな母に気がつくこともなく鮭に夢中だ。
 私は私のすぐ隣にある左利きの父の肘を小突いて、「帰りにスーパーに寄れるような時間?」と聞いた。
 父はそこで初めて母の真意に気づいたようだった。
「ああ、遅くても19時には駅に着くと思うよ」
「それなら、今日は豚カツにしたいから豚肉をお願い出来る?あと、ソースももうすぐ無くなりそう」
「わかった」
 会話を終えると、母はほっとした顔をした後慌ただしく洗面台に向かった。父はのんびりとした調子で食べ終わった食器を台所へ持って行った。ダイニングテーブルに残された私は一人、腑に落ちない気持ちでいた。
 買い物、本当に父一人で遂行出来るだろうか。明確な理由は述べられないけれど、今までの経験上、今日の食卓が殺伐とした空気になることは避けられないような予感がしていた。

 父と母は、お世辞にも相性がいいとは言えない夫婦だと思う。直接確かめる勇気などないけれど、一番近くで十七年間見てきた娘の私がそう感じるのだから、きっとそうなのだ。妹が産まれてからは特にそうだ。
 今でも鮮明に思い出す。まだ私が小学校に上がったばかりの頃、連日の夜泣きでげっそりした母が、夕方、父に電話をかけたことを。「オムツがもうない」と、それだけ言って切られた電話で、私はあの仏頂面の父がオムツを下げて帰ってくるのだと思っていた。
 しかし、父はいつもと変わらぬ姿で帰宅して、「で?オムツがないからどうするの?買いに行くの?」と聞いたのだ。私は驚きのあまり言葉を失った。
 こういう場合、どちらが悪いのだろう。可哀想な母は希望を添えた文章を最後まで作らなかった。可哀想な父は言葉の意味と結末を想像出来なかった。その日から、私の父と母への評価は変わっていない。

「お姉ちゃん、今日朝練じゃなかった?」
 その声にハッとした。埃一つなくピシッと制服を整えた妹が、メガネ越しに私を睨んでいたのだ。促されるまま時計を見ると、もう家を出る時間になっていた。
「うわ、やば!」
「……だっさ」
 件の「オムツ事件」の重要人物である妹は、早いものでもう中学生だ。容姿に似合わない台詞を吐く所も中学生だ。姉バカを承知で言えば、それが中学生らしい中学生で可愛い妹だ。
「いってきまーす!」
 どうか平和に今日が終わりますようにと、まだ低い位置で寝ぼけている太陽に願った。


「……なるほど」
 食卓につきながら、私は小さく呟いた。
 座った拍子に、乾かしそびれた前髪がぺたりと額に不快感を与えた。髪を耳にかけるとシャンプーの香りが鼻をつき、その後、強烈な夕食の匂いに負けて消え去った。私は自分の大皿の上に並ぶそれを見つめた。
 一番先に帰宅したであろう妹。次に買い物を終えて帰宅したであろう父。最後に仕事を終えて急いで帰宅した後夕食を作ってくれたであろう母。部活で遅くなる私を除いて夕食を食べ進めることに何ら問題はないのだけれど、三人が黙々と食べているのは、私の想像していた豚カツには似ても似つかない形をしているものだった。
「これは豚カツ?」
 私は思わずそう聞いた。
「豚カツだよ。と・ん・カ・ツ」
 妹は嫌味っぽく強調して言う。
「豚こま肉の豚カツよ」
 母は顔色一つ変えずにそう言い、それを一口齧った。サクッといい音を立てて半分になった豚カツは、一枚二枚と数えるより一個二個と数えた方が相応しい、小さなボール状のカツだった。
 父は、何も言わない。
「いただきます」
 私はとりあえず食べてみることにした。
 お味噌汁を一口。いつもの甘めのお味噌と優しい出汁の味。うん、美味しい。サラダを一口。お取り寄せマニアの叔母さんがくれる数量限定の美味しいドレッシングの味。糠漬けを一口。ああ、美味しい。これは母さんが大切に育てている糠漬け。少し酸味が強いのは、暖かくなってきたからだろうか。……さて。いざ、豚カツ。
「……ん……」
 少し冷めてもサクサクしている衣の中は、豚肉の他にシソと梅の風味がした。梅干しの酸味で頬の奥がきゅっとすぼんだ。お肉が薄く何層も重なっているおかげか、いつもの豚カツよりも柔らかく感じる。これはミルフィーユカツというものだろうか。
 母も妹も、それから父さえも、私の顔をじーっと見つめたまま、感想を求めて沈黙していた。
「お、美味しい……ね?」
 私の言葉で、ふわっと空気が緩む。
「そうでしょうとも」と母。
「今のは梅シソ? こっちは甘辛味噌で、こっちは塩麹。もち明太チーズもあるよ」と妹。
「それは醤油の方が合うんだ」と父。
「あ、うん」

 私はすすめられるがままにたくさん食べた。
 そしてお腹が満たされていくにつれ、想像していた殺伐とした食卓にならなくて良かったと思いながらも、気になった疑問を口にせずにはいられなくなった。

「どうしてまた、今日は豚こまにしたの?」
 私が聞くと、一瞬時が止まったかのように三人とも黙った。少しして母が噴き出して、笑いながら答えた。
「お父さんが、豚カツ用じゃなくて豚こま肉を買ってきたの。それだけの理由」
 それを聞いた父は少しむすっとした。
「豚カツ用とは言ってなかっただろう」
「確かにそうなのよ。ふふふ」
 母は何がおかしいのか笑いが堪えられない様子だ。
「で、ソースは?もうこれだけ?」
 テーブルの上のソースはもう指先一本分しかない。私が使えば、もうそれで完売だろう。
「それだけよ」
 母は何でもないことのように言う。妹はただ豚カツを口に放り込み、苦笑いしている。私は察した。やはり父一人では買い物は厳しいと。
 母は確かに言った。──それなら、今日は豚カツにしたいから豚肉をお願い出来る?あと、ソースももうすぐ無くなりそう──私からすれば、父のやっていることはちんぷんかんぷんだった。
「『無くなりそう』は『買ってきて』だよ」
 私は出来るだけ冷静な声で言った。
「『無くなりそう』は、『まだ少し有る』だろう」
 父は納得いかないという調子でそう言った。

 これでは一生平行線だ。静かに視線を交わす私と父の様子を見ていた母は両手で顔を覆って笑い始めた。
 正直、笑いごとではない。こんなに話の噛み合わない人と一緒に居続けられる母も、もしかすると笑えないくらい変な人なんじゃないだろうか。

「もういいよ。これはこれで美味しいし。でも、お父さんがこんなんじゃ、お母さんも大変だね」
 私は皮肉をたっぷり吐いてカツを口に放り込んだ。
「そうかしら? ふふふ」
 母は笑って、のんびりとした口調で私を諭した。
「合わない枕が辛いなら、抱いて眠ればいいだけよ。お姉ちゃんだって、高さが合わないって散々怒ってた枕、抱き枕にしてからはすっかりお気に入りじゃない」
「……それとこれとは話が違うじゃん」
「あら、同じよ。考え方次第で無限大なんだから」
「何それ」
「とにかく、お父さんがこうだから、今日はこんなに美味しい豚カツにありつけたんだから。感謝しなきゃ」
 こうだから、と言われた本人は気にするそぶりもなくもりもりとご飯を食べている。
 言う人が言えば嫌味になるようなことも、母が言うと嫌味にならないから言葉に詰まる。
 確かに、味も風味も食感も、平凡な一枚の豚カツより幅広く楽しめるけれど。そもそもお願いしたものと別のものを買われただけでも、私なら怒っちゃうな。
 母は大人しく優しい人だ。だけど寛容というより、きっと勇猛なのだ。だから父のこんな振る舞いも笑い飛ばせるし、むしろ楽しんでいる節すらある。
 望まずに起きたこと、それどころか降り掛かる困難とも思える状況を楽しむ度胸は、私にはまだない。

「明日朝は早いの?」と母。
「遅くはない」と父。
「ねぇ、『何時?』って聞けば?」と妹。
「……私も、ずっとそう思ってた」と私。

 母と父は、合わない枕みたいだ。だけど力ずくで枕の形を変えようとも思っていないし、無理に自分を合わせて首を痛めたりもしない。枕の形そのままに、合わせ方を変えて過ごしているのだ。
『合わない枕が辛いなら、抱いて眠ればいいだけよ』
 なるほど、それもそうか。変わり者夫婦の長続きの秘訣は、案外そういうところにあるのかもしれない。

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