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【小説】 汝、人参を愛せよ (1)

 バイバイ。また明日。友達との挨拶もそこそこに、小走りで学校を出る。私の相棒は、駐輪場の中でも一際目を引く赤い自転車だ。スクールバッグを投げ込んで、私は相棒に飛び乗った。
 橙色に傾いた太陽はまだしばらく沈みそうにない。ぽつぽつとまだらに舗装されたアスファルトの隆起に沿って、私たちの影は長く歪に伸びた。肌を撫でる風の中に纏わりつくような湿気を感じて、私はまた一歩夏に近づいたことを知った。
 長い間潮風に晒されているせいか、相棒は漕ぐ度にギィギィと文句を言った。山の中腹に建つ高校から海まで続く長い長い下り坂を降りていくと、緩くなったブレーキまでもが悲鳴を上げる。そろそろ小川のおじさんに点検してもらわなきゃいけないな。ぼんやりそんなことを考えながら、私は下り坂の途中で脇道に入った。
 学校と家の中間、防風林を編むように張り巡らされた細い道の一番奥を目指す。今日は早く着けるかもしれない。そう思うと、自然と自転車を漕ぐ足に力が漲る。
 防風林と空き家を抜けると見えてくる濃いオレンジ色の屋根。私はその家の脇に自転車を留め、ドアを開けた。
 真鍮製のドアベルがコロン、カランと鳴る。するりと私の横を抜けた空気から、ほんのり焦げたバターの匂いがした。マスクにエプロン、三角巾姿の彼女は手を止め、私を見て目元を緩ませた。
「いらっしゃい」
「……こんにちは、マリさん」
 マリ。その名前は、何度口にしても慣れなかった。けれど私はいつも名前を呼んだ。彼女が纏う優しい空気にぴったりの、その名前を口にするのが好きだった。
 町外れの小さな雑貨屋さん。ここには海やハワイのモチーフを中心とした輸入雑貨と一緒に、マリさん手作りのブレスレットや指輪、気まぐれに焼き菓子なんかが並んでいる。どれもこれも学生の私が見ても可愛いと感じるものばかりだけれど、変な場所に建っているせいかお客さんが居るところは見たことがない。今日も私とマリさん、二人きりだ。
 壁や天井、足元ギリギリまで部屋を埋め尽くさんばかりに並べられた雑貨にぶつからないように、私はスクールバッグをぎゅっとお腹に抱えて中へ入った。
 ギィ、と、踏み込んだ拍子に床板が低く唸る。その年季の入った床鳴りの音には、何故だか恰幅の良い紳士の咳払いを想像させられて、私はいつも背筋が伸びる。
 マリさんはここに一人で暮らしている。四方を囲む防風林に埋もれるようにして建つきらきらとした彼女の自宅兼お店は、小さい頃に憧れた森の中の秘密基地そのものだった。
 彼女はクッキー缶に最後の一つを詰め、すぅっと一つ呼吸をした。ちらりと手元を覗くと、缶の中では大小様々な形のクッキーがお行儀よく顔を並べている。私は蓋が閉まるまで、それをじっと見つめ続けていた。
 どうして、形も大きさも違うクッキーが一つの缶にぴったり納まるんだろう。もうサンタやオバケを信じる歳ではないけれど、マリさんを見ていると、魔法くらいは本当に存在しているような気がしてくる。
「珈琲淹れようか」
 マリさんは私の返事を待たずに立ち上がった。そして自宅へ続く暖簾をくぐり、家の奥の方から「入っておいでー」とのんびりした声をあげた。
「お邪魔します」
 マリさんの声に従って暖簾をくぐる。足元のマットには「welcome」と描かれている。部屋の至る所に花や植物が飾ってあるので、こちらもお店同様、私には少し緊張する場所だった。マリさんのお店が海ならば、マリさんの家は森という感じだ。私はまたぎゅっとスクールバッグを抱えて、中へ入った。
「もう、そんなにかしこまらなくてもいいのに」
 マリさんは茶化すように笑い、二人分の珈琲をテーブルに置いた。テーブルの上には筒状の器具が置かれていて、部屋の中には珈琲の香りに負けないくらいの焼けたバターと小麦の香りが漂っていた。
 筒に入った何か。恐らくこれが、今日の“課題”だ。
 彼女が細いナイフを片手にテーブルについた。早く座るよう目線で促され、私は靴を揃えて脱いだ後、彼女の正面に座った。
「今日はシフォンケーキです」
 マリさんは筒から生地を抜き出しながら自慢げに言った。
「……なるほど」
 割れた表面とふわふわした焼き目はいつかどこかで食べたシフォンケーキと似た形をしていたけれど、焼かれたままの姿を見るのは初めてで、なんだか不思議な気持ちになった。
 マリさんはそれを小さく切り分けて、モロッカン柄の可愛いお皿に乗せた。生クリームの添えられたシフォンケーキは、うっとりした雰囲気で「私を食べて」と言わんばかりにこちらを見ている。
「あの……やっぱり、入ってます?」
 私の問いに、マリさんは頷いた。
「もちろん入ってるよ。人参」
 私はため息を吐きかけて、慌ててそれを誤魔化した。手作りのものにため息を吐くのは失礼だ。深呼吸と欠伸の狭間のような変な顔をする私を見て、マリさんはくすくすと笑った。
 私は人参が苦手だ。どちらかと言えば、嫌いに近い苦手だ。でも私にはどうしても、これを食べなければならない理由がある。
「よろしくお願いします」
 マリさんがしおしおとわざとらしく頭を下げる。
「……わかってます。お礼、ですから」
 そう、これはお礼なのだ。
「おばあさまは元気?」
「はい。おかげさまで」
 この春、おばあちゃんが畑仕事の最中に倒れた。そこへたまたま通りかかって助けてくれたのが、他の誰でもなくこのマリさんだったのだ。
「あんな山奥に人がいること自体びっくりなのに、倒れてるんだもん。本当にびっくりしたよ」
 マリさんは他人事みたいにあっけらかんと言うけれど、マリさんが居なければおばあちゃんは今頃どうなっていたかわからないのだ。ヨモギ採りついでに人の命まで救った人は、日本中どこを探してもマリさんくらいしかいないんじゃないかと私は思っている。
「倒れてる人を見て驚かない人はいませんよ」
 私の言葉に、それもそうだね、とマリさんは笑った。
 普段は滅多に人の通らない畑で、奇跡的に助けられたおばあちゃん。おばあちゃんは感謝してもしきれない様子で、マリさんを天使さんと呼んでいる。
 実際、マリさんは本当に天使みたいな人で、お礼を言う私たちの言葉に恐縮しっぱなしだった。お礼のお金も品物も受け取ってくれなかった。けれど、私の家族も負けなかった。あまりにしつこい私の家族に根負けして、ついにマリさんが最後に一つだけ望んだのが、この「苦手克服レシピ」の試食の手伝いだったのだ。
 祖母は回復しつつあるけれどそこまで体の自由はきかないし、両親は働きに出ている。妹は一人で外出させるには心配が多い。そこで、私の出番というわけだ。
「いただきます」
「召し上がれ」
 薄くオレンジがかったシフォンケーキにフォークを乗せる。私はフォークの先をふわりと飲み込んだ生地と生クリームを一緒にすくい、一口、食べた。
「……どう?」
 マリさんは頬杖をついて私の顔を覗き込んでいた。
 美味しい。美味しい、けれど……。
 噛んでいくうちに、シフォンケーキから苦手な味が浮き上がってくる。マリさんの期待を裏切りたくない私の思いを上回り、人参の主張が増していく。どうにも、私の舌はとことん敏感らしい。
「うん……いや……」
 言い淀む私の顔を見て察したマリさんは、テーブルに崩れ落ちた。
「ダメかぁ」
 彼女は眉を下げて伸びをする。くしゃっと顔を歪ませて悔しそうな顔をした後、ゆっくりとキッチンの窓へ視線を投げた。
「……クッキー、ポタージュ、シフォンケーキ。今日で三品目。まだまだ先は長そうだねぇ」
 窓枠のわずかな段差。そこに小さな瓶が三つ。瓶の中には切り落とされた人参の切り株だけが入っていて、そこからぴょこんと、細い葉が伸びている。マリさんは、私へ作ったレシピの数だけ人参の葉を飾っていくつもりなのだろうか。
 私はシフォンケーキの甘さごと珈琲を流し込んで、小さく息をついた。“課題”の後の余韻に浸る時、私は少しだけ憂鬱な気持ちになる。人参を食べる日々があと何日続くのか、いつ終わるのか、こんなことが誰かの役に立つ日が来るのか、と。
 それでも、早く終われと願わなくなった自分がいることにも、薄々気がついていた。この憂鬱は、いつか来る終わりへの寂しさがほんの少し、隠し味になっている。
「もう、やめようか?無理しなくてもいいんだよ」
 優しいマリさんは、毎回そう言ってくれる。
「……いや、また来ます」
 私がそう答えると、マリさんは一瞬眉を顰めた後、黙って頷いた。こういう時のマリさんは、安心したような、呆れたような、複雑な表情で私を見る。
 その表情の意味はわからない。でも、あまり良くないことような気がしている。それでもまたここに来ても良いという事実の方が私には重要で、私はそれにいつも気がつかないふりをしている。
「ごちそうさまでした」
「ん。またね、葵ちゃん」
 自転車に跨った私を見送るマリさんが、玄関の前で手を振る。私は大きく手を振り返して、ぐっとペダルに体重を乗せた。細い道を下り、街灯の少ない防風林の中を走り抜ける。
「葵ちゃん」
 マリさんの声が、頭の中で魔法みたいに繰り返す。
 私は人参が嫌いだ。だけど、私を呼ぶマリさんの声は、きっといつまでも嫌いになれないだろうと思った。

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