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私は全て母のせいにしていた。母はずっと私を愛していた。
昨日の出来事
昨日まで二泊三日で実家に滞在していた。
お昼寝から目覚めて、いつもよりも長めにぐずる娘。
抱っこして、大好きなアンパンマンを見せたり試行錯誤してあやす私。
それを見て、母が「かわいそ」と言った。
アンタ何やっているのよと呆れたような表情に、私には見えた。
娘のタイミングで自然に卒乳させてあげるのではなく、私のタイミングで断乳した結果、娘が不安定になって泣いている、と母は考えているようで、泣きじゃくる娘が「かわいそ」ということらしい。
確かに、そうなのかもしれない。
断乳してから3週間弱、良くも悪くもおっぱい無しで娘に接することに私は慣れてきているが、もしかしたら、娘はまだ我慢しているのかもしれない。
娘の様子をよく見て、娘が安心できるように、今まで以上に丁寧にスキンシップをしてみようと思うことができた。
この点については母に感謝である。
この出来事から、いくつか思ったことがあったので、頭の整理のため書き残しておきたい。
私の母は、思ったことがその場で口や感情に出るタイプ
うちの母は、いつもこうだった。
昨日の出来事で言えば、私が断乳をする決断に至った経緯や、そのためにどんな準備をしてきたか、そのときの気持ちなど、そういうことを全部すっ飛ばして、私の事情はお構いなしに、母の気持ちや考えをぶつけてくる。
車の運転で例えると、運転席に座って恐々運転する私に、助手席に座っている母がタイミングも言葉遣いも気にせず、ポンポンポンポン 口を出してくるイメージ。
母は、私の運転も向かっている目的地も全然信じていない。
私はとても運転しづらくて、自分の走っている道や目的地にイチャモンを付けられた日には、急に自信がなくなり、スピードが落ちてしまう。
自分が走ろうとしている道と母が推している道のどちらが良いのか…なんて考えているうちに、道に迷ってしまう。
(自分が運転する車の助手席に母を座らせてしまっているのは、私自身なのだが。)
私は、飛んできた言葉を必要以上に拾い上げるタイプ
昨日の出来事を夫に話すうちに、私は、相手が投げつけた言葉まで、必要以上に大事に大事に受け止めすぎている、気がしてきた。
それこそまるで母のように、相手の状況も背景も、自分のコンディションもお構いなしに。全ての言葉を。
私は、言葉そのものに重きを置きすぎているのかもしれない。
自分を車で例えると、
言葉尻まで全て拾ってしまう集音機をわざわざ設置して、車内のスピーカーで大音量で流している、ポンコツ車。
運転席の私は、自分の運転に自信がないので、流れてきた情報や自分への評価を一言一句聞き逃さないように耳をそばだてながら、運転している。
これじゃ、少し先の目的地のことなんて考える余裕が生まれるわけがない。迷って、焦って、蛇行運転になってしまう。
こんなポンコツな車、いっそ捨ててしまいたい。
けれど、残念ながら、一人ひとり割り当てられた自分という車は、乗り捨てることはできない。
じゃあ、どうするか。
「私は車を前に走らせるには、聞こえすぎている」ということを自覚して、走り続けるしかないのだろう。
集音機を取り外したり、スピーカーの音量を下げてみても、良いかもしれない。
相性の悪い私たちは、ずっと相手に甘えていた
家族という関係性のなかで、「思ったときに思ったとおりの言葉を投げつける母」と「投げつけられた言葉を絶対視してしまう私」、
そう自分の中で整理できたとき、相性が悪すぎると思った。
それって不幸すぎやしないだろうか。
大切な存在で、仲良くできた方が良いに決まっているだろう親子で、大事なコミュニケーション方法の一つ(と私は思っている、でもきっと母は思っていないのだろう…)言葉の扱い方が違うなんて。相性が悪いなんて。
神様、意地悪すぎやしませんか!??
夫に意見を求めると、『俺もそう思う、うちの兄貴と母親と同じ構造だと思って聞いてた』と言われた。
そして、『親子だからこそ遠慮がなくなるのかもね。相手は変えられないからしょうがないんだけどね。』とも言った。
私は母を変えようとなんてしてない、と少しむっとした。
しかし、冷静になって考えてみると、
私は、「親なんだから、もう少し寄り添う“べき”だ」と思いながら、ぶつかってきた言葉を拾いあげては、勝手に傷ついていた。
一方の母は、「子供には思ったことをそのまま言っても大丈夫」と思って、言葉を投げかけていたのかもしれない。
私も母も、相手の性格や考え方にはお構いなしで、相手任せの“甘えた”コミュニケーションをしていたのかもしれない。
そして、この“甘え”は、親子だからこそ取り払いにくかったのかもしれない。
発言よりも、行動を見よう
人が口から発する言葉は、私が思っているよりも、絶対的なものではないのかもしれない。
母のように思ったことをすぐに口にしてしまう人もいるし、夫のように褒めるのが苦手な人もいる。
うっかり口が滑ることもあるし、嘘やお世辞もある。
そのときのコンディションによって言葉の選び方が変わることもある。
でも、行動は嘘をつかない。
どんなに口では「愛している」と言っていても、行動が伴わないそれは、何も無いことに等しい。
言葉足らずであったとしても、愛情には行動が伴う。少なくとも長い目で見れば。
私は、夫と出会ってそのことを知った。
そして、母の行動そのものに思いを巡らしたとき、母は私を愛してくれていると、すこし信じることができた。
実家から帰るときに持たしてもらった、すぐに調理できるよう切ってくれた野菜と、ペットボトルのお茶を見て、胸がすこし暖かくなった。
その人の発言よりも、その人の行動を見よう。
言葉を絶対視しすぎるとき、私はたぶん少し疲れている。
私は、生きづらさを全て母のせいにしていた
母は、ずっと私を愛していた
言葉は絶対的なものではなく、本質は行動にあるのだとしたら、
私が今まで母との関係性で悩んだ時間は、まるで無駄だったのか?
そうだとすると、自分はなんてもったいないことをしていたのだろう。そう思って少し頭をかかえた。
私はきっと、母との関係に悩むことで、自分の生きづらさを全て母のせいにしていたのだろう。
だから私は、この悩みを手放すわけにいかなかった。自分が変わる勇気を持つことができないことに対する、言い訳が欲しかったのかもしれない。
なんとなく、そう感じる。
私が人を信じられないのは、母が寄り添ってくれなかったからだ
私が自信を持てないのは、母に悪い部分を指摘されすぎていたからだ
私が弱みを見せられないのは、母に甘えられなかったからだ
私がチャレンジできないのは、母が信じてくれなかったからだ
本当にそう思ってきた。
しかし、人を信じないのも、自信をもってチャレンジできないのも、弱みを見せられないのも、今は全部、私が決めている。
もう気が付けばとっくに、私の人生は私の責任になっていて、全ては私が勇気をもって一歩を踏み出さない結果なのだろう。
もう、私の車の助手席に、母は座っていないのだ。
近くに来たからといって、わざわざ母に、不安だから座ってくださいとお願いする必要もないのだ。
私はもう、立派に自立した大人なのだから。
そう考えると、やっぱり、私は“甘ったれ”だったのだ。
そして母は、そんな甘ったれで時に音信不通になった私に、良くも悪くも変わらない態度で接し続けてくれていた。これは事実だ。
母はずっと、私を愛していたのだ。