今日は死ぬのにもってこいの日だ‼️
「われわれは、末期の病苦を死のせいにするが、それはまちがっている。病とそこに終止符を打つ死との間には何の関わりもない。
病は生の領域にあるものであり、死の領域のものではない」
人は死について考えることなくして、生を生き切ることは出来ない
『病気=死』というのは間違った観念
コロナウイルス、ワクチン騒動が一向に収束しないのは、みんな死への恐怖から起きています。
今、どんなに健康な人もお金持ちもいつかは必ず死が訪れる、しかし心の準備が出来ていないから、そして死とはなにか?がわかっていないから平常心を失ってしまうのです。
私はそのような心の状態が不幸だと思うのです!
コロナ禍の中、自分なりの「死生観」を考えてみませんか?
あなたはどんな「死に方」「死に様」をしたいですか?
ネイティブアメリカンの死生観
病気と共に生きるという、宇宙の法則に則った古代人の死生観
古代人たちは、病気になっても 『病気=死』 とは結びつけませんでした。
何故ならば、病院等が存在しなかったからです。
その代わり、メディスンマン(呪師 まじないし)や部族の酋長や祈祷師が、その病気の乗り越え方を教えていたのです。
彼らは病気を抱えながらも、自分で出来ることは出来る限り、自分で行なっていました。
食べることも、トイレに行くことも、また、外出することも・・・・・・。
病気の程度に把われることなく、自分で出来ること、働けることは、何でも自分でしていました。
病気と共にありながら、生活を送っていたのです。
全治する、しないにかかわらず、いわゆる病気と共存していたのです。
そして多くの場合、彼らは自然死を迎えてゆきました。 自らの死を悟った時、自然に食を断ち、水を断ち、そして自然に移行していったのです。
自らの死への意志が、自分にも家族にも周りの人々にも自然に伝わってゆき、当然のごとく受容されていたのです。
彼らの直接の死因は病気そのものではなく、その人の寿命で死んでいったのです。
人によっては、外出中に事故で死ぬ人もあれば、災害で死ぬ人もありました。
しかしいずれにせよ、昔の人は病気を抱えながらも自分の家で、自分に出来ることをしながら生活していました。
よほどの重病人でない限り、今ある病院のように、一日中寝かされっ放しではなかったのです。
死ぬ瞬間まで出来る限り人に依存せず、迷惑をかけず、何もかも一人で果していたのであります。
そして、そこには家族や社会とのコミュニケーションが、死ぬ瞬間まで存在していたのです。
それが、その当時の生き方においては、当然であったのです。
それ故、誰もがそれを当たり前のように行なうことが出来たのです。
そして死の二、三日前、あるいは一週間ほど前になると、みな自分の死の到来を直観していました。
そして、自らの肉体自体が自然と食を欲しくなくなり、遂には水さえも拒否するようになってゆきました。
彼らの意識は死ぬ瞬間まではっきりしていました。
大人も子供も淡々と死を受容していました。
精神的な苦悩が伴わなければ、肉体の死、それ自体も決して苦しいものではないのです。
その上、自らの肉体や家族に執着を持たなかったから、なおのことでありました。
このように、人の生死は、宇宙の法則の中で自然と行なわれていたのです。
それこそ、ネイティブアメリカンの教訓にあるように
“今日は死ぬのにもってこいの日だ” という心境だったのです。