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人生で一番苦しかった時期

※2019/11/21の投稿(はてなブログから引っ越しました)

以下は、塾講師の仕事をしていた時に、生徒向けの小冊子に書いた文章をそのままコピペしたものです。
生徒向けに書いたので、もちろん笑いの要素は1mmもなく、ひたすらにマジメです 笑

※割と勢いで載せているので、ある日突然消すかもしれません(^^;

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自分のこれまでの人生を振り返っていつに戻りたいかと聞かれたら、それは一番楽しかった時期だけれど、消されてしまったら困るのはいつかと聞かれたら、実は「一番苦しかった時期」だったりする。

アメリカで過ごした中高時代。私にとっては「闇の10代」だった。
父の仕事の都合でアメリカ行きが決まった当時、日本の中学生活を満喫していた。毎日が楽しくて仕方なかった。休み時間になると自然と友達が自分の机の周りに集まった。
勉強は得意な方だったので、天才なんてもてはやされてのぼせ上っていた。

そんな日々がたった1日で激変した。

アメリカでの中学生活は何から何までカルチャーショックの連続だった。
小さい頃から海外含めて転校を繰り返してきたから、環境が変わることには慣れていたはずだったけれど、思春期という時期に言語も文化も違う環境に飛び込むのは想像以上に大変だった。

先生が何を言っているかほとんどわからない授業は、苦痛以外の何物でもない。記述の課題を与えられて皆が一斉に何やらノートに書きだしても「何を書けばいいかわかりません」と手を挙げて笑い者になるのが怖かった。ぼーっと座って周りから変な目で見られるのも嫌だったから、ひたすら自分の名前をノートにビッシリ書いて時間をやり過ごすことも度々あった。

アメリカの授業は日本と違ってとにかくペア/グループワークの時間が多い。
体育の時間には「こんなチビがチームにいたら邪魔」と、私をめぐった押し付け合いの喧嘩が始まる。
国語(英語)の時間になると「こんな話通じない奴と組むくらいなら一人でやった方がマシだよ」と拒否される。

精一杯のカタコトの英語で「私は一人で大丈夫。一人がいいです」と先生に訴えるも、それは許されない。最終的に組まされた不良が「ふざけんなよっっ!!!」とカバンを床にたたきつけた事もあった。
涙をこらえながら「組んでもらったからには結果を出さなきゃ…」と思えば思う程、緊張のせいで余計に空回って言葉がうまく出てこない。
そうして舌打ちや失笑、友達への目くばせをされる度に恥ずかしさと悔しさで一杯になり消えてなくなりたい毎日だった。

朗読や発表の時間になると顔を真っ赤にして肩を震わせながら小さく笑っているクラスメイトがチラホラ見える。
廊下を歩けば「Hey カラ~テ!!ニンジャー!!」と言って飛び蹴りされ、笑い者にされる。
毎日毎日惨めだった。
明日こそは言ってやろうと”Shut your mouth”と言い返す練習を毎晩家でしていた。
発音を笑われないように、自分の英語を何度も録音してラジオと聴き比べたりもした。

休み時間に一人の時間を過ごす事に慣れていなかった私にとっては休み時間も苦痛のひとつだった。教室にいてもどこにいても自分だけ別世界にいるようで、ふわふわと浮いている感じがした。
毎日楽しそうなグループの輪をまるで景色を見るようにボンヤリ眺めた。見えない人のように扱われ「居場所がないってこういう事を言うんだ。あの人達からは私はどう見えているのかな。見えていないんだろうな…」そんな事を考えながら教室の隅で涙ぐんだ事も何度もあった。

「あ、そうかRちゃんから私はこんな風に見えていたんだ…」
決まって思い出すのは日本の中学にいたフィリピン人のRちゃんの事だ。
やはり彼女も外国人という事で軽いイジメにあっていた。イジメに関わる事はしなかったけれど、守る事も出来なかった。小学校低学年の時も海外に住んでいたので、ある程度英語のできた私をRちゃんは時々頼ってくれていた。
彼女の前ではいい顔をしていたけれど、彼女に意地悪している友達に「やめなよ」という勇気もなかった。

最後にくれたサイン帳に書かれたRちゃんのメッセージを握りしめながら家でワンワン泣いた。
「やさしく いてくれてありがとう。はなして うれしかった。だいすき!」
カタコトの日本語に込められた彼女の精一杯の想いが苦しいほどに伝わって、「Rちゃんごめんなさい。会いたいです。話したいです。」という出せない手紙を何通も書いた。
手紙を出し合うような仲ではなかったし、今になって都合が良すぎると思い、結局出せずじまいだったけれど…

同じ経験をするまで人の痛みがわからない自分の愚かさを知った。
今思い出しても悔しい時間だけれど、Rちゃんを思い出して泣いた時間は私の人生にとって大きな学びの時だった。
視点を変えて物事を見る事、人の立場に立って物事を考える事の大切さについて本気で考えるキッカケとなった。こういう経験を中学時代にできたのは私の中では大きい。

当時は携帯電話どころかインターネットも普及していなかった。※「何時代の人だよ」と思われるかもしれないけど、割と最近(?)までそんな時代だったんですよ 笑 20世紀の終わり頃の話です 笑
国際電話の通話料も高かったから、日本の友達と連絡を取り合う術は手紙しかなかった。届くまでに片道1週間かかるので、出した手紙に返事が来るまで早くて2週間かかる。
毎日郵便受けに日本からの手紙が届いてないか確認する事だけが生きがいのような毎日だった。

最初の1年は365日欠かさず部屋で一人泣いた。母の前でも随分泣いた。
平日朝、出かけるときに玄関でスニーカーの紐を結ぶ瞬間が一番憂鬱な時間だった。
一歩を踏み出す瞬間の足の重さは今でもハッキリと覚えている。

最初の1年くらいは学校にいる間は何も食べられなくなってしまっていた。毎日「お母さんごめんなさい」と心の中で唱えながらお昼ご飯のサンドイッチを学校のゴミ箱に捨てる。
今日こそは食べようと決めても、食べようとしてもどうしても口が開かない。
毎朝自分のためにサンドイッチを用意してくれる母の気持ちを思うと、捨てている事は結局最後まで言えなかった。
今のようにインターネットを使って簡単に情報収集できる時代ではなかったから、それがストレスからくるものだとも自覚できていなかった。正直、そんな事を自覚する精神的な余裕すらなかった。
当時、日本でのぼせ上っていた自分にとっては、天地ひっくり返るくらいの転落人生だったのだ。


家に帰れば宿題以外やる事がなかった。
車がなければどこへも行けない。
半分しか理解できないTVもたいして面白くない。
孤独な時間がくれたものは、ひたすら本を読んで考え事をする時間だった。
夜はベッドに寝転がってずっと考えた。
友達って何だろう。
自分って何だろう。
日本人ってなんだろう。
生きるって何だろう。

この孤独な時間こそが私の今の価値観の大部分を形成したと言える。友達に囲まれて楽しいだけの時間を過ごしていたらこうはいかなかった。
人生楽しいに越した事はないけれど、本当の意味で豊かな人生にするためには「孤独と向き合う時間」もとても大切なのだと思っている。

社会科の授業で原爆について取り上げられた時「日本人が何人死のうと関係ないし」「ウケる」と一部のクラスメイトに笑われ、堪えられずにうつむいて泣いた事があった。
日本で過ごしていると自分が日本人であるということを意識する機会はあまりないけれど、毎日毎日嫌というほど日本人という自分のアイデンティーに向き合わざるを得ない日々だった。
「あなた達は馬鹿にするけれど、日本には、日本人には、あなた達が知らない魅力がたくさんある」そうやって悔しい思いをしながら、とことん自分のアイデンティティーと向き合った日々は自国の文化を愛し、誇りに思う気持ちを育ててくれた。

2年目くらいから、ようやう「友達」と呼び合える仲の子ができた。日常会話はもう困っていなかったけれど、精神的なことなど、深い話になるとやはり難しかった。
友達が泣きながら家族についての悩みを打ち明けてくれた時も、何も言葉を返せなかった。伝えたい言葉は心の中にあふれ返っているのに、何ひとつ伝えられない悔しさ。家に帰ってから涙が止まらなかった。
多感な思春期に自分の想いを言葉で表現できないことの悔しさやフラストレーションを、嫌というほど思い知った。
こんな風に日本語に触れない生活を続けていたら、いつか母国語でも自分の想いを表現できない大人になってしまうのではないか、と思うと怖くて仕方なかった。
だから独学で日本語の勉強も必死でした。日本から参考書を取り寄せ、辞書のような分厚い用語集を隅から隅まで読んで、知らない言葉はノートに書きだして繰り返し勉強した。


結局、あれもこれもすべての原動力は「悔しさ」だった、と今になって思う。
「今に見てろ」「負けてたまるか」そういう思いが駆り立ててくれた。

結局、楽しめたのはようやく夢も英語で見るくらいまでになった最後の一年くらいだった。
もっと失敗を恐れず、もっと前向きな気持ちで、もっと勇気を出していたら、うまく楽しめていたのかな、と思う。
でも、自分自身の性格を考えると、あれが精いっぱいだったんだろうな、とも思う。

中学時代、毎日部屋で泣いていた自分を抱きしめてあげたい。
「頑張ってるね。そんな風には思えないかもしれなけど、今の苦しい毎日が大切だったと思える日が必ず来るからね。ありがとう」と。

もっと壮絶な経験をしている人、どうしようもないほどつらい思いをしている人が世の中にたくさんいるのはもちろん知っている。そんな人たちと比べたら「そんなこと…」と、笑ってしまうレベルのことなのかもしれない。もしかすると、これを読んで下さっている方の中にも、もっとずっと辛い毎日を過ごしている人がいるのかもしれない。

自分はこんなに辛かったんだぞ!という辛さ自慢をしたいわけではない。
この文章を通して何を伝えたいかというと、思い出す度に泣けるほど苦しくて仕方なかったあの時期が、今となっては私の人生の中で一番大切な欠かせない時期でもある、ということなのだ。

あなたもそう思える日が来る可能性だってゼロではないのだ。
泣くほど辛い思いをしたあなたはきっと誰よりも優しくなれる。
人の痛みを知っている人の言葉には重みがある。
そしてその言葉がいつか辛い思いをしている人の心をきっと救える。
いつかあなたが誰かの心を救う日も来るかもしれない。

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これを書いた当時の私は20代だった。
今の私だったらここまでは言い切れないな。
命や健康に関する悩み、生い立ちや家族に関する悩み、壮絶なイジメ・・・私がここで書いたレベルとは全く違う、もっと根深い、自分一人の力ではどうしようもない地獄のような悩みや苦しみが世の中にはあるから。軽率に「その経験も大切に思える日が来るよ!」なんて言えやしない。

で、なんでこの文章を、ここにひっそりと載せることにしたかというと、 私が数あるバンドの中でUVERworldにこだわり続ける理由と繋がる部分が多いから。

まじめに書き出すと長くなるけれど、<勤勉さ、緻密さ、器用さ、チームとしての結束力>など、UVERworldの音楽には私が海外生活を通じて感じた日本人の強みや美学が詰まっている。

それに彼らは、洋楽に対する憧れやリスペクトを持ち、上手に取り入れながらも、日本の音楽の良さや可能性もずっと信じて手放さずにいる。オシャレでカッコイイ音楽なら他にいくらでもあるのかもだけど、ちょいダサくても、日本の音楽を聴いて育ってきた日本人にしか鳴らせない音や表現にこだわるUVERの音楽性が好き。

TAKUYA∞の生き様、語る言葉の根底にあるマインド=悔しさを原動力にした反骨精神にたまらなく惹かれるのも、自分の原体験とリンクするから。

滋賀と東京に対する思いをTAKUYA∞が語る時、私はいつも自分の日本とアメリカに対する思いと重ねてしまい、共感以上のシンパシーを感じてしまう。

彼が「孤独」について語る時もそう。


他にも語り出したらキリがないから、私にとってUVERworldがなぜ特別かという話はまた別の機会にゆっくりする事にします。たぶん長過ぎるから永遠にまとまらないけど!


ここまで読んで下さった根気強い方がもしいらっしゃるのであれば、本当に長い時間ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。(何の挨拶w)

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