今日の考察(生死観について)
昨日の朝、夫が「また近しい人が亡くなった」、と驚きながら報告してくれ、落ち込んでいた。
彼女は少し歳上で、ニューヨーク時代によく知っていたそうで。
今朝も落ち込んだ様子の夫と色々話した。
先日も保育園友達のママが亡くなり、私も大きなショックを受けていた。
なぜ「ショック」かって、私は闘病を知らなかったこと、あと「かわいい盛りの3歳の子供を残して死んでしまうなんて」と自分の身に降りかかったとしたら、、と仮定してショックを味わっている。
ニューヨークの彼女のことも、遡れば1年ほど前に、「治療を断念した」そうで。。
本人にとってみれば、死の恐怖やこの世を離れる寂しさ、悔しさ・・・いろんなものが入り混じっていたんだろうな、と思う。
その想いを想像して、夫は悲しんでいる。自分の身に降りかかるかもしれない恐怖も感じているのかも。
でも、亡くなる瞬間はあらゆる苦痛から開放されて、安心感に包まれて、それを体感しながら身体から離れる・・という話も聞いたことがある。
また、「人生で起こることは全て決まっている」とも。
「死」は残された人の課題であって、亡くなる本人は解放されるだけ。
悔しい思いを残したか、寂しかったか、私たちは知る由もなくて、それを探るより、「安心感に包まれた」「決まっていたこと」を信じた方が前を向けるのかも。
私たちの前に現れた「人の死」は、自分の人生を見つめ直すきっかけだし、このような会話を私たち夫婦の間で持つための材料だったのかもしれない。
もしくは、私たちをがん検診に向かわせるためのものなのかも。
全ての出来事は意味があるようで無い、無いようである、どっちか分からないけど、全部決まってるんだ、と仮定すると、じゃあその「決まった」出来事を「どう味わうか」で幸せ度が変わるのかしら。
ほんの少しのラッキーなこと、例えばレジに並ばず買えた、とか今日も水道が出る、とかそんなことを「奇跡や!」って感じてご機嫌でいたら人生は幸せなのかも・・。
でも私には音楽があるし、もっと演奏したい。息子の成長も見守りたいし、できれば40歳の息子を見たい。。
アメリカは何回も行きたいし、ドイツに住んでみたいし、イタリアもスイスも行きたいし・・・。
と、考えていたら、一番必要なものは、健康!!健康だ!!!
(お金はついてくるだろうね。私結構お金使うからそれなりに入ってくるはず。今までもそうだったし。)
・・・というところに辿り着いた考察でした。
昨日のお昼過ぎの散歩で見た空。「太陽ハロ」というんですね。
こういうの見られただけでも幸せ感じるようになってる今日この頃。