【小説】林檎の味(十)
「ただいま……」
久しぶりの我が家、カオルは小さな声で居間に入ると、真っ先にピアノに目を向けた。子どもの頃から弾きなれたそのパートナーは厚いビロードのカバーで覆われている。リハビリの甲斐むなしく、右足に麻痺が残り、ピアノはもう続けられない。胸が疼いた。
幸いカオルの家にはいくらか余分な貯えがあった。海外の有名コンクールを本気で目指すならと、高給とはいえない父の大学教師の給料からやりくりし、遊学資金として積み立てていたのだ。おおかた治療にかかる費用に化けてしまうことだろう。カオルは父に相談し、ピアノは売り払ってもらおうと考えた。金銭的なことより何より、ピアノを見るのが辛かった。
「退院おめでとう!」
満面の笑みを浮かべ、母がカオルを抱きしめる。
「あっ!」
ぴかぴかのチェロを抱えた父の姿を見て、カオルは思わず声を上げた。
「高校に入ったら、チェロを始めればいい」
父はカオルの肩をぽんと叩いた。
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