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【小説】林檎の味(四)

 その頃のカオリについての思い出は、その名のとおり、多く匂いに結びついていた。
 カオリの家に続く、創成川沿いのポプラの並木道。春風に運ばれる小川の匂いと樹皮のさわやかな香気。秋には朽ち葉の匂い。いつも二人して肩を組んで歩いた。似たような家並みが続く郊外の一画で、ひときわ瀟洒な洋館風のカオリの家、その広い庭の大きな林檎の樹。五月の薫風、つつましやかな白い花のほんのり甘い匂い。ガーデニングに凝っていたお母さんが、殊更に愛でて植えたという。二人してよく木に登り、秋には小さな青い果実にかぶりついた。観賞用なのでひどく酸っぱかったけど。日曜画家のお父さんの煙草と絵の具の匂い。娘と話す時の柔和な笑み。他の大人にはない内気で繊細な雰囲気と、そのどこか暗い影が、強くカオルの印象に残っている。そして何よりもカオリの長い黒髪。自転車で懸命に追いかけた後ろ姿、北国の清澄な風に泳ぐ、輝くばかりの乱れ髪のえもいわれぬ香り――。
 カオルの人生の次の段階での嗅覚に関する記憶と言えば、鼻をつく病院の消毒液の臭いだった。中学三年生の時に、運命が大きく暗転したのだ。

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橋本 健史
公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。