雑談#23 リアクション動画は自分の感想を奪っていく
YouTubeは、もはや日々の娯楽になくてはならないものになっている。娯楽だけではなく、何か知りたいとき、調べたいとき、ありとあらゆるテーマで誰かが話した何某かの動画が検索に引っかかってくる。文章で読むよりとっつきやすい感じがするし、実際、わかりやすい動画もある。何より、ハウツーを知るには適している。手順や方法が動画で示されると、本当にわかりやすい。
だが、一方で「これはどうか」と思うところもあり、自分自身、極力見ないようにしているタイプの動画もある。それが、「リアクション動画」である。
リアクション動画とは、動画配信者が、歌手・バンドのライブ動画やアニメ、ドラマなどの動画をワイプ画面で流しながら、ところどころで動画を止めて、自分がどう思ったかリアクションしたりコメントしたりする、というタイプの動画である。このタイプの動画を見る場合、まず、動画配信者がリアクションしている元の音楽やアニメ、ドラマなど見て知っていることが前提となる。元の作品を鑑賞するためでなく、動画配信者のリアクションを見て、どういう反応をするかを確認したいということが動機になっているからである。
中には優れたレビューとなっているリアクション動画もあるが、私の見た感じでは、ほぼ、「すごいね」「いいね」「面白いね」という、肯定的な反応がなされるだけで、その理由も、なにしろリアクションなので十分に吟味して言語化されているとは言い難い。要するに、「好きな」作品の面白さ、すごさ、楽しさを共有している感じを味わう、そういう目的で作成され、視聴されているというものなのだ。
話は変わるが、私はどちらかというと、映画やアニメ、ドラマなどは家で一人で視聴することが多い。特に映画館など、誰かと一緒に見ていると、自分は面白いと思うが同行者はどうか? とか、逆に自分はあまり面白くないなと思ったけど同行者は? など、一緒に見ている人の感想が気になってしまうからである。人がどう思うかは自由だけれど、そこでそれぞれが違った感想を持つと、なんとなく気まずくなってしまうということがあるからかもしれない。
その点、不特定多数に率直な感想を述べられるSNSはよくしたもので、人の目を気にせず思ったことを素直に書けるうえ、その理由も読む人に納得のいくよう説明ができるので、自分にとってはある種の精神安定剤のようになっているのは確かだ。逆に、人の書いたレビューや感想を読むのも結構好きだ。自分が気づけなかったポイントを教えられると、慧眼に拍手したくなる。
ではリアクション動画はどうかというと、そこには、作品に対するその場のリアクションやその時々の感想はあっても解釈や考察はなく、結局、目の前で動かされているおもちゃに反応している猫程度にしか、自分が機能していないと思ったのだ。
しかし、である。動画配信者は、ある意味ただリアクションするだけで大きな反響を得られ、カウントが稼げる。その数字が影響力を持つのが、SNSの恐ろしいところで、そうすると、動画配信者のリアクション、感想、コメント、それが作品に対する評価の「正解」のようになってしまっていく、ということなのだ。
こんなことがあった。「機動戦士ガンダム」のリアクション動画を見ていたときのことだ。34話「宿命の出会い」の終盤、<サイド6>から、ジオン軍のドムに包囲されながら出港するホワイトベースのブリッジで舵を取るミライ・ヤシマが、危険を冒して見送りに来たカムラン・ブルームに手を挙げて別れを告げる場面があった。そこで動画配信者は、ミライの手が、中指を立てているように見えるといって大笑いしたのである。
こういうリアクションを、自分が見る必要があるのか?と甚だ疑問になり、そこで見るのをやめてしまったが、正直、この動画配信者が何を感じてどう発信しようが、それは自由だしどうでもいい。だが、それを見ている側は、なんだかここで発信されていることを「共有」すべきものとして、自分の中に取り込んでしまう。自分で自分の感じたことを言語化する前に、言語化された感想がどんどん発信されていくので、自分の感想がどんどん上書きされていってしまう。そんなふうに感じてしまったのだ。
私は自分でもがっつりレビューを書いているので、それに流されるということはないわけだが、そうではない、まだ若い、自分が思ったことを言語化するという作業に慣れていない人にとって、リアクション動画はある意味、その能力を育てる前に摘み取ってしまう、その動画配信者の感想が自分の感想だと錯覚させてしまう、そんな罠になってしまっているのではなかろうか。
これは、リアクション動画だけでなく、有名評論家、たとえば岡田斗司夫の解説などにも当てはまるが、影響力のある動画配信者の解釈や考察が、まるで「正解」のように捉えられるのは、まったくもってこの動画配信サービスの弊害としかいいようがなく、だれにも自由に作品を楽しみ、自分自身で解釈、考察するという楽しみを奪っているような気さえしている。
と同時に、レビュー、感想、作品の評価には、「いいね」「すごいね」「面白いね」という肯定的なものばかりではなく、否定的なもの、批判的なもの、雑多な感想があるのだが、ネガティブなものは、正解ではない、自分を不快にさせる不要なもの、と見るような意識も、育ってきているように思う。
みんなと思いを共有する「リアクション動画」を楽しむのは自由だが、その前に、しっかりと「自分」を持ってもらいたいものだと思わずにはいられない。