機動戦士ガンダム0085 姫の遺言 #4 潜入
アムロは、ジオンの軍服姿で、目立たない場所からカイの操縦する無人航空機の動きを見ていた。パレスホテルの入り口に立つ歩哨の頭上を、揶揄うように一周したあと上昇すると、周囲が騒然とし始めた。
無人航空機は、そこからジオン独立記念公園の方向へ飛行していった。ホテルの前に停めた軍用車が、数人の兵士を乗せて、それを追いかけ始めた。公園では、明日行われるパレードの準備のため、多くの兵士が動員されている。国立劇場を包囲しているモビルスーツにも、パイロットが搭乗して予行演習を始めるようだった。
そのモビルスーツの周辺を、カイの無人航空機がハエのように飛び回るのを確認すると、アムロは通りへ出て、パレスホテルのエントランスから中に入った。
カイから聞いていたのとは違って、入ったところには多くの兵士や将校が行き交っていた。明日のために、各地から集まった軍人たちがここに入ってきているのだろう。片隅に、兵士に装備させる自動小銃が山積みされている。アムロはヘルメットを目深にかぶり直すと、その山から一つを取ってフロントへ向かった。
「どんな御用でしょうか」アムロの姿を認めて、フロント係が言った。アムロは、そのネームプレートをちらっと見た。カイが言っていた人物に違いない。アムロは低い声で言った。
「外で騒乱が起きている。3002号室の客人を、安全な場所に移したい」
フロント係は周囲を見回すと、顔を近づけて囁いた。
「あなた、もしかして地球から?」
アムロはぎょっとして、彼の目を見た。
「わかります、ジオン訛りのないきれいな発音ですから。しかしそれ以外は、どこから見てもジオン兵士です」そう言うと、彼は白い歯を見せた。
「その部屋番号を私が教えた人の、お仲間ですね?」
「そうだ」
彼は、頷いた。
「ここから向かって左手奥の、いちばん左側のエレベーターが、30階への直通になっています。扉が開いたら、まっすぐその正面突き当たりがお客人の部屋です」
「ありがとう」
そのとき、ドウン、と地響きがして、ホテルが揺れた。なんだ? とフロントロビーにいた軍人たちは騒然とし、外へ出て状況を確認しようとし始めた。
「これは、あなたのお仲間が?」
「そうだ。ジオンのパイロットを、彼が挑発しているんだ」
フロント係が、にやりと笑った。
「ご武運を祈ります」
アムロは右手を挙げてその場を離れた。
◆
テーブルに向かってレターパッドを開いたとき、セイラはドウン、という地響きを感じて思わず顔を上げた。あのクーデターの夜に感じたのと、よく似た揺れだった。彼女は立ち上がり、窓から外を見た。カーキ色のジオンのモビルスーツが2機、メインストリートを行進している。その格好が妙だった。飛んでいる虫を払いのけるかのように、機体の「手」を振り回している。
その「手」の先に、小さい飛行物体が見えた。
「カイ…!」
彼が、動いているのだ。セイラは時が近いと悟った。いつでもここから脱出できるように、必要最低限の持ち物は小さなショルダーバッグに詰め込んである。時間がない。彼女は慌ててテーブルに戻るとペンを取った。
◆
エレベーターは静かに上昇し、30階で停まった。扉が開いて廊下へ出ると、まっすぐ行った正面の扉の前に、歩哨が一人立っている。アムロはわざと息をはずませると、小走りで走って行った。
「一人ですか?」
「ああ、何が起こっているのか、無線が混乱していてよく分からないんだ、それでエリックが様子を見に行った。ちくしょう、昼時のせいか、そのままちっとも戻らないんだ」歩哨が答えた。
「外で、一部暴徒が騒ぎを起こして部隊が出動している。自分は交代要員でここへ来るように言われた。行って、外の様子を確認してきてくれないか」
「わかった」
歩哨は、まだ若いアムロよりもさらに年下で、高校を出たばかりのような年頃に見えた。おそらく、一年戦争の頃はまだ、子どもだったのだろう、もっとも自分も子どものような年齢だったが。
歩哨がエレベーターで降りていくのを見届けると、アムロは、その部屋のドアの前に立った。ドアノブの横に、鍵を制御するロックシステムがついている。彼はポケットから自分の端末を取り出すと、そのシステムに接続してプログラムを探った。
ドウン…ドウン…
モビルスーツの行進する足音が、ホテルの方に近づいてくるのがわかった。アムロはロックシステムのプログラムを見つけ、素早く解読すると、解除のための暗証番号を書き換えた。監禁されているということは、内部からはロックが解除できないようになっているはずだ。
カチッ
小気味よい音がして、アムロはふうっと息を吐いた。これで、変な細工を施されたロックシステムは元どおりになったはずだ。まだ、あたりには気配はない。しかし、急がなければ。彼は緊張した面持ちで、ドアを小さくノックした。
◆
ドウン…ドウン…
巨人の足音が響き、セイラの胸が高鳴った。気持ちが高ぶりすぎて、何か書こうとしても考えがまとまらない。ジャーナリストを目指すなら、この状況でこそ伝えなければならないことがあるはずだ。けれど彼女は今、混乱しすぎていると思った。
ノックの音がして、ジオンの兵士が一人、入ってきた。
「ロックシステムに問題がある、という連絡があったので、点検させていただきます」
そう言うと、ドアのロックのカチカチ、という音が聞こえてきた。ふと、セイラはその声に懐かしい響きを感じて、顔を上げた。
アムロ…、まさかね? ホワイトベースで通信席に座っていたとき、毎日何度も聞いたあの声が聞こえた気がしたけれど…
バタン!とドアの閉まる音がして、兵士が言った。
「直りました、これであなたは自由の身です、セイラさん」
がたん、と音を立てて、セイラは思わず立ち上がった。
「アムロ? アムロなの?」
アムロはヘルメットを目深にかぶったまま、振り向いた。
「ええ、こんな格好だけど…僕です、アムロです」
セイラが、テーブルを離れてドアの方にやってきた。アムロは少し顔を上げて、彼女を見た。窓から差す光に照らされて、その髪がキラキラと輝いている。少しやつれた様子だが、白いサマーセーターにデニムを合わせただけの、飾り気のないその姿は、彼が知っていたセイラより、さらに一層美しく見えた。その青い瞳が、揺れている。
アムロは、その姿があまりにまぶしく、また視線を落として言った。
「…このドアのロックは次に開いて閉めたら、暗証番号が今僕が入力したものに変更されるようにセットしてあります」
「アムロ…」
セイラは、その言葉が耳に入っていないかのようだった。彼のところに駆け寄ってくると、思いがけず、倒れこむようにその胸に飛び込んできた。
アムロは、そっとその肩を抱いた。嗚咽する彼女の体は小さく震えている。
少しして、彼女は体を離すと言った。
「ごめんなさい、あなたが来てくれるとは思わなくて…」
「いいんです、セイラさん…、もう大丈夫、ロックを解除しました。時間がない、今すぐここを出てください」
「ええ、わかったわ」
セイラはそう言うと、頰の涙をぬぐい、ショルダーバッグにテーブルの上の新聞、ノートパッドを押し込んだ。
「これは? ジオンの制服?」アムロが、ソファにかけた衣装を見て言った。
「ええ、そうよ」
「ちょうどいい、これならば多少はごまかせる」
そう言うと、軍用の紺のロングコートをセイラの肩にかけた。
「さあ、行こう、カイさんが待っている」
アムロは、セイラの腕を掴むとドアを開いて、廊下へ出た。直通のエレベーターは、下に降りたままなかなか来ない。しかし非常階段を降りていては、時間がかかりすぎる。フロアの数字の点滅が、まるで永遠に続くかのように感じられた。
ドアが開いた。アムロはセイラを先に乗せると、その姿を隠すように前に立って、ドアを閉じた。
「びっくりしたわ、その軍服、一体どうしたの?」
「ブライトさんが、軍の情報部に掛け合って手配してくれたらしい」
「あなたも、軍にいるの?」
アムロは前を向いたまま、首を降った。
「このエレベーターは1階からの直通だけど、君がいないことに気づいてドアが開いたら誰かが待ち構えているかもしれない、気をつけて」
「ええ」
「騒乱が起こっていてここは危険だから、姫を移送するように、と指示を受けたということにしてある。それらしくしてくれれば、それでいい」
「わかったわ」
セイラは、その背中を見つめて言った。ホワイトベースで戦っていたとき、私たちはまだ10代だった。少し年下の少年は自分と同じくらいの背丈だったけれど、今は少し見上げるくらいになっている。背中も広くなったように思えた。
「いつもなら、執事が昼食を持ってくる時間よ。少し遅れているみたいだけど、気をつけて」セイラが言った。
やがてエレベーターは1階に着き、ドアが開いた。セイラの言った通り、そこには昼食を乗せたワゴンを押す執事がいた。アムロはとっさに片手で後ろにいるセイラの腕をつかむと、自動小銃の銃口を構えて硬い声で言った。
「失礼、ここは危険なので、姫を別の場所へ護送するようにと命令を受けています、あとをよろしく」
一瞬、執事に戸惑いが見えた。その隙にアムロはセイラを連れて素早くエレベーターを降り、足早にエントランスへ向かった。執事の横を通り過ぎるとき、セイラが言った。
「ラガード、移送先に着いたら連絡するわ。置いてある私の荷物を届けてくれて?」
「お待ちください、そんな話は、聞いておりません」
引き止めようとする執事を振り切って、二人は外へ出ると、路駐していたエレカに飛び乗った。バックミラーに、追ってきた執事が映る。アムロは思わずハンドルを左右に切った。執事が懐から拳銃を取り出し、狙っているのが見えたからだ。しかし、彼は撃たなかった。発砲することでさらに騒ぎが拡大することを恐れたのだろう。
助手席では、セイラが大きく肩で息をしていた。
「ごめんなさい、あまりにも長く、部屋に閉じ込められたままだったので体力が…」
「まだ少し時間に余裕があります。僕の借りているホテルの部屋に行きますから、そこで少し休んでください」アムロが言った。
「あの執事は追っ手を送ってくるでしょうか?」
「多分…大丈夫よ。彼は責任感の強い人だし、私がいなくなればその責任を一番に問われる立場にあるから、きっと自分で何とかしようとすると思うわ」
アムロは、口を閉じた。責任を問われるとは、この国では「死」を意味することを、彼らはあの戦争を通じて知っていた。
アムロは、ホテルの地下終車場に車を停めると、端末からカイを呼び出した。
「カイさん? アムロだ。セイラさんを何とか連れ出した」
「やったな!」カイが答えた。
「では、こちとらもこれで撤収とするか! こっちも暴れすぎちまって、ちょっと手間がかかりそうだ。宇宙港で合流としよう。こっちへ来るとき、俺の荷物を持ってきてくれ」
「了解」
セイラが不安そうに、アムロの口元を見ている。彼は電話を切ると車を降りて言った。
「カイさんは、大丈夫です。さ、行きましょう」
アムロはセイラを連れて、ホテルの部屋へ入った。
◆
「すみません、こんなところで…」
アムロは、セイラを部屋の一つしかない椅子に座らせると、ペットボトルのミネラルウォーターをコップに注いで手渡した。
「ありがとう」セイラはコップを受け取ると、喉を鳴らしてその水を飲んだ。
「生き返った心地がするわ」
アムロは、ほっとした表情を見せた。
「宇宙港から、最後の便が出るのが15時です。カイとは14時に宇宙港で合流することになっていますけど、まだ少し時間があります。ここで少し、休んでください」
「ありがとう」もう一度、セイラは言った。
「それと、すみません、ちょっと着替えさせてもらっていいですか?」
セイラは思わずその姿を見て、くすっと笑った。
「そのままじゃ、地球に帰れないわね」
彼女はアムロが着替えている間、窓から外の風景を眺めていた。メインストリートとその周辺では、明日行われる軍事パレードのためだろう、装甲車が並びものものしい雰囲気を醸し出している。カイの無人飛行機を捕獲しようと歩き回った2機のモビルスーツは、追跡を断念して待機場所に戻ろうとしている。その先には、真紅に彩られ、隊長機を示すツノで頭部を飾った機体があった。
「兄さんの…モビルスーツ…」
このままじゃ、地球に帰れないわね。ついさっきアムロに向かって言った軽口の言葉を、セイラは心の中で自分に投げかけていた。そう、兄の…キャスバル・レム・ダイクンのこれから仕掛けようとしている戦争のことを見過ごしにしては…。
着替え終わったアムロが、ベッドの端に腰掛けた。
「もしよかったら、少し横になっていてもいいですよ、僕はその間、出かけていますから」
「いいのよ、アムロ。一緒にいて、ずっと一人だったから」
アムロが、うなずいた。
アムロに最後に会ったのは4年前、ブライトがトーキョーでホワイトベースの仲間と再会する会合を計画したときのことだった。会合の前に、ブライトから軍への勧誘を受けたアムロは彼を拒絶し、みんなの前にも姿を現すことがなかった。夜の街で彼の姿を見つけ出したあのとき、アムロは、こう言っていた。父のように、仕事にしか‥‥ガンダムにしか縋ることができない生き方を、したくない、と。
「結局、軍には戻らなかったのね」
「ええ、東京の避難民居住区で高校を出たあと、北米の大学に進学して、今はただの学生です」
「あら、そうなの? 私もなのよ、ボストンにいるの」
アムロが、息を飲んだ。
「そうだったんですか、僕は、あの、チャールズ川をはさんですぐ隣の街の、川沿いある大学に…」
ふふふ、とセイラが笑った。
「そんな近くにいるのに、よりによってこんな遠く離れた場所で出会うなんてね。何を勉強しているの?」
「宇宙工学を。寄宿舎の四人部屋に住んでいて、他の三人も僕とよく似たタイプなんです」とアムロはセイラを見て言った。
「わかるでしょ?」
「ええ、何となくね。お友達は、あなたがガンダムのパイロットだったってこと、知っているの?」
「まさか…」アムロが言った。
「みんな、戦災で家も家族も失って、だから戦時中の話はしない」
「そうなの」
「だからある意味、安心できるんです。軍にいてパイロットだったことで、もしかしたら彼らを戦災に巻き込んでいたかもしれない、だけど、彼らといると、そういう罪責感を忘れさせてくれる」
そう言ってうつむくアムロの横顔を、セイラはじっと見つめた。
◆
しばらくして、アムロが言った。
「そろそろ、ここを出よう。宇宙港でカイさんが待っている」
「待って」セイラが言った。
「アムロ、私はまだこのままでは地球に帰れない」
「えっ?」
「せっかく助けてくれてとてもありがたいけれど、アムロ、あなたとカイは地球に帰って」
「どういうことですか」アムロの顔には、戸惑いの表情が浮かんでいる。
「15時の便を最後に、この国は国際旅客便の受け入れを停止するんです、そうなれば、もうここから出国することはできないんですよ」
「わかっているわ、アムロ。でも、どうしてもこのままでは行けない、兄を、あの男のしようとしていることを止めなければ」
アムロが、きっと口を結んで彼女を見つめている。
「彼はまた戦争を始めて、地球に小惑星を落とそうとしているのよ。自分の望む革命を成し遂げるために。それを知りながら、何もせずにここから出ていくなんて、私にはできない」
「だからって、どうするって言うんだ? あの男と刺し違えるつもりなのか?」
セイラは大きく目を見開いて、首を振った。
「…止めるのは、私じゃないわ。それができるのは、ジオンの国民よ。彼らが欲する強いリーダーを、兄はただ演じているだけ。私は、真実を伝えなければいけない」
「それをあなたが? そんな義務がどこにあるんだ。僕たちの国とは違うんだ。彼らが真実を欲するなら、自分たちでそれを見つけ出さなきゃいけない、そうじゃないのか? 僕たちには、この国を変える力なんてない」
「あなたの言うことはもっともよ、アムロ。でも私とあなたとは違うわ。自分の父の名で、また戦争が起こされようとしているの。支援者たちとも会って、知らないうちに、そんなことに加担していたなんて、私は自分が許せない。それに、もし戦争になれば、まちがいなくあなたはまた、戦場に出ることになる」
「だから? だからあなたを置いて、僕だけで帰れっていうのか?」
「これ以上、あなたを巻き込むわけにいかないわ」
「もう十分、巻き込まれてるよ」アムロが、首を振った。
「一体僕が、何のためにここまで来たと思ってるんだ。セイラさん、あなたが残るというなら、僕は帰らない。あなたが帰るっていうまでは」
「なぜ? アムロ。任務でもなんでもないのよ」
「だから、だからだ」アムロは俯くと、声を震わせて言った。
「嫌なんだ、僕は。あなたに、ここに居てほしくない」
「アムロ…」
「僕は、自分が許せなかった。シャアと戦うことで、そうとは知らずにあなたを苦しめていた、と思うと…、だから…せめて同じ空の下でいられるだけで、それでいい、と思っていた。別の空の下へは、行ってほしくなかった」
「だから、ここへ?」
アムロがうなずいた。そのうな垂れた横顔を、セイラは言葉もなくじっと見つめていた。終戦後収容された南米の地球連邦本部ジャブローから、故郷の南フランスへ旅立つとき、ホワイトベースのクルーで彼だけが、見送りに来なかった。でも飛行機で飛び立ったとき、その空域で戦闘訓練をしていた1機のジムとすれ違いざま、耳の奥が鳴ように、聞こえてきた言葉を思い出していた。
‥‥それでも、愛してる‥‥セイラさん、僕は忘れない、あなたと飛んだ、この宇宙を‥‥
やがて、アムロは顔を上げた。
「どうやって、あなたは国民に、あなたのいう真実を伝えるつもりなんだ?」
「新聞に、寄稿するわ。明日、あの人は国民の前に出て演説をする。私は、私の見た真実をぶつける」
もう一度アムロはうなずくと、立ち上がった。
「宇宙港で、カイが待っている。荷物を届けて、僕たちは便に乗らないと伝えてくる」
「待って」セイラも立ち上がり、彼の方へ歩み寄ると、静かな声で言った。
「最後に会ったのは、トーキョーだったわね。ホワイトベースのみんなで集まる予定だったのに、あなたは来なかった。でも海辺にあなたを見つけ出したとき、自分の気持ちを正直に話してくれた」
アムロが、うなだれる。
「うれしかったわ。私はずっと、あなたにシャアの妹であることを隠し続けて、それてあなたを苦しめてきたのに」セイラが言った。
「とても…うれしかった。そのとき、本当は伝えたいことがあったの。あなたなら、その心の葛藤もきっと乗り越えられるはず。それまで、待っているからって、でも、言えなかった」
セイラは、首を振りながら言う。
「こうなって、後悔したわ。待っているだなんて、私の思い上がりだった。兄は私を閉じ込めたとき、こう言った。もし君が戻らなかったとして、他に誰かそれを気にかける者がいると思うか?って。言われて当然、と思ったわ。私自身が、そうだったから。あなたが私と兄とのことで葛藤してると知りながら、自分の気持ちも伝えないまま去ってしまった」
昨日の夜、もう涙も枯れてしまった、と思うほど泣いたのに、セイラの目にはまた、涙があふれる。
アムロが、顔を上げた。その瞳が、まっすぐにセイラを見ている。
「…好きよ、アムロ。あなたのことが、ずっと…」
ぐっ、とその腕で引き寄せられるのがわかった。アムロは彼女を抱き寄せ、彼女はその胸に顔をうずめた。その腕の中で、彼女自身の心にあったわだかまりもまた、溶けてゆくようだった。
セイラは顔を上げて、そっとアムロの頰に触れた。アムロはゆっくりと顔を近づけ、その唇にそっと口づけした。ただ、そうせずにはいられなかった。
永遠のような一瞬だった。彼は体を離すと、言った。
「じゃあ、行ってくる。セイラさん、あなたはここで、あなたのするべきことをしていてください」
「わかったわ」
アムロがカイの荷物を持って出てくと、セイラは持ってきたバッグからレターパッドとペンを取り出した。何を書くべきか、彼女の心は定まっていた。
◆
宇宙港は、ズム・シティから出る最終便に乗って再び軍事政権にとってかわろうとするジオンから脱出しようとする人で、ごった返していた。カイは、その様子をカメラで撮影していた。
「この便には、地球連邦の市民権を持つ人が優先的に搭乗できます」と、職員が詰め寄せる乗客に説明している。後回しにされたジオン籍の乗客たちから、罵声が上がった。搭乗口には列ができ、乗り込む客に職員がノーマルスーツを手渡している。
レンズが映す画面の中にアムロの姿を見つけたカイは、よおっと右手を挙げた。
「映さないでくれよ」アムロが言った。カイは、カメラを止めた。
「おい、おまえ一人なのか? セイラさんは?」
アムロはカイに荷物を渡すと、言った。
「彼女は、この便では帰らない。まだやり残したことがある、というんだ」
「なんだって?!」カイが大声をあげる。
「やり残したことって、何なんだ。この便に乗らなければ、もう当分ここから出ることはできなくなるんだぜ? ちゃんと、説明したのか?」
「ああ」アムロが答えた。
「兄のやろうとすることを止めずに、そのまま見過ごすわけにはいかない、って彼女は言ってるんだ」
「何をする気なんだ?」
「あと一日、それだけでいいんだ。彼女は、兄と…、あの男と対決するつもりなんだ」
「対決? 一体どうやって?」
「カイさん、あなたたちも持っている武器って、あるでしょう。僕にはできないけど、彼女にはできる」
「なんだ? 〝ペンは剣よりも強し〟ってやつか?」
アムロが、うなずいた。
「おまえは、どうするんだ?」
「僕も、ここに残る。なんとかして、彼女を連れて帰る」
「どうやって、ここを出るつもりなんだ?」
「わからない。でも何か方法はあるはずだ」
「ここは地球とは違うんだ。どこからでも、好き勝手に街から出ていける場所ではないって、おまえもよくわかってるはずだろ?」
アムロは、黙っている。カイは肩をすぼめると、上着のポケットを探ってカード入れを取り出した。
「おれが取材中に知り合った記者だ。ジオンには簡単に剣の力になびくメディアしかない。その中で唯一、折れないメディアだ。彼に連絡を取れ」
「わかった」アムロは、記者の名刺を受け取った。
「僕からも、頼みがある。グラナダに着いたら、連邦軍基地の情報部にいる、ミランダ・ファレル少尉に状況報告をしてほしい。彼女が、ブライトとつながっている」
「わかった、任せとけ」カイがもう一度、右手を挙げた。
「おれは行くけど、ちょっとだけここで待ってろ」
そう言うと、カイは大きな荷物を引っ張りながら、搭乗者の列に向かっていった。
宇宙港のジオン国内線発着ロビーは、明日の軍事パレードを見ようと集まってきた人の群れで溢れている。これから起こる変化を恐れて出ていく者、歓迎して自らもその中に飛び込もうとする者。そのコントラストに、アムロは生々しい人の感情の奔流を見る気がした。
しばらくすると、彼は戻ってきた。ノーマルスーツを一組、手にしている。
「どうもな、外の状況がかなり危ないらしい。船に乗るのにノーマルスーツを着ろってことで、一着余計に持ってきた」と、それをアムロに押し付ける。
「必ず拾ってやるから、密航でも宇宙遊泳でもなんでもして、とにかくここを出てくるんだ。あと一着は、自分でなんとかしてくれ」
「ありがとう」
「いいってことよ」カイが言った。
「おまえはともかく、セイラさんには必ず助ける、と約束したんだ。その約束を果たしてくれよな」
そう言い残すと、カイは搭乗口の向こうへ消えていった。
アムロはノーマルスーツ一式を抱えて宇宙港を出ると、ステーション前に停めたエレカにそれを放り込んだ。
◆
「アルテイシアが、消えた?」
思いがけない報告に、キャスバル・レム・ダイクンは秘書の言葉を、繰り返した。
「ええ、執事のラガードによると、何者かが手引きをして、部屋から脱走したようです」
彼は、つい10日ほど前までダルシア首相が使っていた執務室のデスクを、自分のものとしていた。ガラスの向こうに広がるジオン独立記念公園には、彼の愛機となるべき真紅のモビルスーツが屹立している。
「馬鹿なことを」と彼は静かな声で言った。
「ラガードは、何をしていたのだ」
「ジオン軍の制服を着た男が姫を連れ出し、騒乱が起こってここは危険になったから、別の場所に移動する、と命じられたと。それで、真偽を確認するのに手間取ったようです」
キャスバルは、時計を見た。14時55分。最後の旅客便がズム・シティを出るのは、15時だった。
「旅客便の乗客の中いないか、確認しろ」彼は副官に命じた。
「了解しました」と言って、副官は足早に執務室を出て言った。扉が閉まると、秘書のマルガレーテがキャスバルをじっと見つめて言った。
「閣下、ずいぶんと妹君に執着なさるのですね」
彼は立ち上がると、腕組みをして彼女に背を向け、執務室のガラス窓から外を眺めた。
「当然だ、彼女とて父、ジオンの血を引く人間なのだからな。父の理想を実現するために、どうしても必要な人材なのだ」
マルガレーテが、ふふふ、と笑った。
「それだけでしょうか?」
「ふむ」キャスバルが、振り向いた。
「連邦に長く置きすぎたせいで、彼女自身がジオンの理想を忘れた。しかも、かつては従順だったのに、連邦の気風に毒されて、驚くほど強情だ。何をしでかすか、わからないところがある。ここに置いて、再教育せねばならん」
「でも、不思議です。妹君は、ジオンには閣下のほかに気心の知れた者もいないとお聞きしていましたのに、まさか、助ける者がいたとは」
再び、キャスバルは背を向けた。確かに、彼女の言う通りだった。あるいは、ジオンへ来るとき、何者かを伴っていたのかもしれないが、身辺調査をしたところでは、一緒に旅行に出かけるような間柄の男はいなかった。
彼は遠い記憶をたどった。そうだ。あの時、あの最終決戦の場にいた男。私に決闘を挑んできた男。アルテイシアが、庇った男。
「アムロ・レイだ」と彼は言った。
「入国管理局に調べさせろ、アムロ・レイという男が入国しているかどうか」
秘書が、副官を呼び出した。
◆
出航時間の15時を過ぎても、なかなか船は出なかった。カイはイライラしながら時計を見てばかりいる。おそらく、セイラがいなくなったことに気づいたのだろう。
やがて客席に、軍服の男たちが数名入ってきた。自動小銃を肩にかけ、一人一人の顔を確認している。カイのところにやってきたとき、彼は軽い調子で言った。
「一体、何事で?」
「密航者がいないかどうか、調べている」兵士が言った。
「はいはい、ご苦労さん。けど、密航っつうんなら、堂々と客席に乗っていることもあるまいに」
兵士は、カイの言葉を無視して黙々と確認作業を続け、客席から去っていった。彼は兵士らの後ろ姿を見送ると、端末でアムロを呼び出した。
「アムロ、俺だ。まだ港で足止めを食らっている。どうやら、セイラさんがいないことに気づいたらしい。船の中を捜索していた。市中の方も、気をつけろ」
「わかった」
しばらくして、船は静かに動き出した。
すべるように、船は宇宙港をゆっくりと後にしてゆく。窓の外の風景がコロニー隔壁から漆黒の闇に変わったとき、ゴウン!と船体を揺るがす大きな推進音が響き、船は加速を始めた。
遠ざかっていくズム・シティのコロニーを眺めながら、カイはもう、神に祈るしかなかった。
◆
ホテルに戻ると、セイラはデスクに向かって、黙々とペンを動かしていた。ただいま、と声をかけると、彼女は振り向いてにっこりと笑った。
「よかった、無事で」
アムロは、途中で買ってきたケータリングの夕食と、熱いコーヒーの入ったカップをデスクに並べた。
「ありがとう、うれしいわ。朝から何も食べていなかったから」そう言いながら、セイラは包みを開く。
「しかも、豪華ね」
「戒厳令のせいで、店はどこも時短営業を強いられているらしい。ちょっとでも売り上げを伸ばそうと、どこも必死だ」
二人は狭いホテルのシングルの部屋で、ささやかな食事の時間を楽しんだ。食後のコーヒーを飲みながら、これをカイから預かった、と言って、アムロは記者の名刺を渡した。
カップを置いて、セイラはその名刺を受け取った。
「ジオンで唯一、心折れずに真実を伝えるメディアだ、とカイは言っていた」
「ええ、そうね。監禁されていた部屋で、この新聞の記事で励まされたことがあった」
セイラが、顔を上げて言った。
「電話してみるわ」
「もう一つ、悪いニュースがある。あなたの脱出に、総統が気づいたようだ。カイから、連絡があった。最終便に治安部隊が乗り込んできて、乗客をチェックしていったらしい」
「最終便に乗っていなかった、とわかれば、きっと、彼は市内を捜索させるわね」
「明日の軍事パレードを見物しようと、多くの人がこのコロニーに入ってきている。捜索はするだろうが、今は警備その他でそれどころではないだろう。明日までは、ここにいよう。僕は脱出の方法を考える。あなたは、書き上げて」
セイラが、微笑んだ。
「そうね、できるわ、私たちなら」
◆
夕暮れが、迫っていた。地球で見た、本物の夕暮れとは比較にもならない。彼は、そのことをよく知っていた。箱庭の自然、人工の日没。すべてが、ここに生きる人間のために最適化された環境。いわば神のみの成し遂げた天地創造のわざを、人はその科学力で実現できるようになったのだ。これを革新として、何を革新というのか。
キャスバル・レム・ダイクンは、父の名を冠した公園に立つ、真紅の機体を見上げた。彼がその前に立つと、機体の主を載せるべく、そのモビルスーツはゆっくりと膝を折り、腰をかがめる。そして手のひらを差し出すと、彼を乗せて、そのコックピットへと導いた。
まだ、真新しいシートに体を沈める。かつての宿敵の名を思い出し、体がそれを欲したのだ。
コンソール・パネルに触れると、不意に通信回線が開いた。
「閣下、さきほど命じられた入国者確認の報告がありました。アムロ・レイという人物は大学生で、昨日のグラナダ発最終便でズム・シティに入っています」
「出てはいないのか」
「確認しましたが、15時発の最終旅客便の乗客リストには、入っていなかったようです」
「わかった」
コックピットのシートは、彼をかつての自分に立ち返らせた。相手は、何の力も持たない妹と、今は学生でしかない青年だ。そして、もうこのコロニーから自力で出ることはできない。この国のすべてを手にしようとしている今、何を恐れる必要があるだろうか。
「どこにいようと、踏み潰してやるまでだ、私の相手になるなら」彼はシャア、と呼ばれた頃のように、ニヒルな笑みを浮かべてつぶやいた。
◆
夜の静けさが、部屋を包み込んでいた。セイラがペンを走らせる音だけが、耳を打つ。どうすれば、ここから出られるだろう。アムロは端末で宇宙港周辺の地図を調べた。国際旅客便の発着禁止が解除されるまで、ここにとどまっていられればいいのだろうが、安全な場所があるとは到底思えない。せめてズム・シティから出て、ジオン国内の他のコロニーに逃れられればいいのだが。ライデンというコロニーには、プライベートの外航用クルーザーが多数停泊している宇宙港があるらしい。そこまで行けば、あるいは何か手が打てるかもしれない。
こんなとき、ガンダムがあれば…
ふと、彼はダビドがくれた3Dモデルを思い出し、そのファイルを開いてみた。ガンダムがあれば、何の苦もなくここから、出ていけるのに。
ダビドは、設計図から見事に忠実な3Dモデルを構築していた。ただ、形をトレースしただけでなく、兵器として「動く」ために必要な構造を解析し、見事に復元していた。彼はそのモビルスーツに搭乗し、整備に明け暮れた日のことを思い出した。
「これは?」
アムロの目が、端末に映る一つの隠しファイルに留まった。開いてみると、見たことのない機体の3Dモデルが立ち上がる。アムロは精巧に作られた、そのモデルを見た。明らかに、一年戦争時代のモビルスーツとは違っている。大推力のスラスター、そして全身に装備された姿勢制御用バーニア。これがあれば、ガンダムにはできなかった、地球上など重力圏内での「飛行」も可能になる。
はっ、と彼は顔を上げて立ち上がると窓に駆け寄り、外を見た。間違いない。ダビドの3Dモデルは、あの赤いモビルスーツだ。カイ・シデンがニュースネットワークで配信した、あの日のクーデターのニュース映像を、彼らは熱心に見ていた。そして、その映像を解析してあのモビルスーツがどんな機能、性能を有しているかを解明し、3Dモデルで再現したのだ。
「やれるぞ、あれなら」アムロが言った。
セイラが顔を上げた。「どうしたの?」
「脱出する方法を見つけた。明日、君が原稿を新聞社に届けたら、その足でここから出て行こう。先手を打つ」
セイラが、ペンを置くと言った。「私も、やり遂げた。読んでくれて?」
アムロは、セイラからホテルのレターパッドに書き記された原稿を受け取った。
思いもよらない言葉が、そこには書き連ねられていた。ジオン・ダイクンの娘として<サイド3>に育ちながら、地球連邦という違う価値観を土台にした場で青春を過ごし、そして戦争を戦った、彼女にしか書けない言葉がそこにあった。
読み終わると、アムロはその原稿をセイラに手渡して、言った。
「僕たちが戦った、あの戦争にそんな意味があったなんて、考えもしなかった」
「あのときは、みんな生き延びるのに必死だった。でも、離れてみるとわかるのよ。私たちが一体何を守ろうとしていたか。あなたたちと戦った、あの時間があったから、私は兄とは違う考えを持てた。小さいことかもしれないけれど、私にとっては大きなことなの」
アムロは、セイラの瞳をのぞき見た。そこに、あの翳りはもうなかった。