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【書評】ピエール・バイヤール『読んでない本について堂々と語る方法』
挑発的なタイトルの本だ。いつもはペン片手に傍線を引いたりメモを取ったりしながら読んでいるが、この本の流儀にしたがって面白そうなところだけ流し読みした。おそらくそれが一番この本と付き合う際にちょうどよい距離感であるように思われたからだ。著者の主張を拾い読みしてみよう。
本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である。どんなに熱心な読書家においでも、ある本を手に取り、それを開くということは、それとは別の本を手に取らず、 開きもしないということと同時的である。読む行為はつねに「読まない行為」を裏に隠しているのだ。「読まない行為」は意識されないが、われわれはそれをつうじて別の人生では読んだかもしれないすべての本から目を背けているのである。
ある本を読むことは、別の本を読まないことでもある。そこには、読むべき本を読み逃す機会損失のリスクが潜んでいる。
しかしそれだけではない。もっと直接的に、本を読まないメリットがあり、本を読むデメリットがある。まずはメリットについて見てみよう。
真の読者が把握を試みるべきは、この書物どうしの関係である。(……)教養ある人間が知ろうとつとめるべきは、さまざまな書物のあいだの「連絡」や「接続」であって、個別の書物ではない。
個別の本を読まないことは、書物どうしの位置関係という「全体の見晴らし」に目を向けることを読者に許す。これこそが読んでいない本について語るとき、必要な知的態度なのだ。特定の書物という細部にばかり拘泥するのは、むしろその書物について語ることを妨げる。
また、本を読むことにはデメリットもある。それは、読者の独創性を損ない、他人の意見に従属させてしまうという側面だ。
読書の過剰はアナトール・フランスから独創性を奪うことになった。ヴァレリーが言いたかったことはそこにある。というのも、ヴァレリーにとって、作者が書物を読むことの危険性はまさに他者に従属することにあったからである。
個別の本にこだわらず、本どうしの関係について全体を見晴らしながら、自分の考えや自分自身について語ること。これが、読まないで語るための骨法なのである。
※
こうして特に重要そうな前半部から著者の主張を引用してみて気がつくのは、「そこまでして人には読んでいない本について語りたいことがあるだろうか?」という率直な疑問だ。おそらく著者はそれについても、後半部で説得的に擁護しているのだろう。だが、あまり読む気にならない。
全体の見晴らしを獲得し、創造性を損なわないように配慮することは、個別の本を読みながらでも可能ではないだろうか。とはいえ、そんな感想を私に語らせてくれたのは、この本のおかげであることは疑えない。その点ではやはり、この本は、言行一致的に独創的な本と言ってよさそうだ。