見出し画像

悲しみの化石

 学校から友だちと一緒に帰っていると姉が公園の砂場で倒れていた。
「あれ、お前の姉ちゃんじゃね?」
 ぼくも友だちも姉の奇行には慣れっこだったから、対応も冷静なものだ。その場で別れの挨拶を交わし、ぼくは姉の元へ、友だちは家路につく。変に関わり合いになると大幅に時間を取られる可能性もある。友だちはこのあと空手の稽古があるし、そもそも有限な人生の時間を浪費させるのは気の毒だ。
 砂場のど真ん中に倒れ込んだ姉の周りでは年端もいかない子どもたちが怪訝そうにしていた。すぐにその親たちがそれに気づき、姉から引き離す。姉は目を閉じ、大人しくそこに倒れ込んでいるだけだから、いまのところなにか危害を加えそうな予兆は無いし、そもそもただめんどくさいだけなので、危険は無いのだけれど、はじめて姉の奇行に触れた人にはそれがわからないだろうから、致し方ない態度だろう。ぼくは近くのベンチにランドセルを置き、姉のかたわらにしゃがみ込む。姉の制服のスカートに砂が積もっている。
「なにをしてるの?」ぼくは尋ねる。姉は答えない。
 コンクリートで作られた砂場のふちに腰掛け、ぼくは姉がなにか動きを見せるのを待つ。気持ちのいい風の吹く午後だ。鳥がさえずっている。蝶が花から花へと飛び交っている。蟻がなにかを運んでいる。姉が倒れている。
 気づくと、姉が目を薄く開けていた。ぼくは少し息を吐いた。
「実験してるの」と、姉はその頬を砂に押し付けたまま言った。
「実験?」と、ぼくは言った。「なんの?」
「このまま死んで、化石になったら、わたしの悲しみも化石になるのかどうかの実験」そう言うと、姉は目を閉じた。
「誰が確かめるの?」と、ぼくは尋ねた。
「なにを?」
「化石になるかどうか」
 姉はまた薄く目を開き、ぼくを見た。「君が確かめて」
 ぼくは息を吐いた。「化石になるのは、ずっと先のことだよ。何万年も先のこと。ぼくも死んじゃってる。それに、化石になるにはまず死なないとならないよ」
「もうすぐ死ぬと思う」と、姉は言った。
「どうして?」
「すごくお腹がすいてきたから」
「そう」と、ぼくは言った。「じゃあ、うちに帰ろう。フレンチトーストを作ってあげる」
 姉は無言のまま立ち上がると、制服についた砂を払った。ぼくはランドセルをしょって、そのままなにも話さないで家に帰った。姉は絶対に言わないけれど、姉はぼくの作るフレンチトーストが大好物なのだ。絶対においしかったとか、また作ってくれとせがんだりはしないのだけれど。
 ふたりで空腹を満たすころには、窓の外は夜の帳が落ち始めていた。
「晩御飯食べれないかもね」
「ママ、今日遅いって言ってなかったっけ」
「そうだっけ?」
 虫たちが鳴いている。愛の歌だ。姉は虫が苦手で、コオロギを見た時の顔をぼくはいまでも忘れられない。この世で最もおぞましいものを見てもあれほどの表情はできないだろう。
「ねえ」
「なに?」
「その悲しみは固いの?」
「どういうこと?」
「固くなければ、化石にはならないよ。鼻とか、耳みたいな、骨のないところは化石にならない。骨みたいに固い悲しみ?」
 姉は頬杖をつき、深く息をついた。そして、なにもない宙をじっと見つめた。じっと見ていれば、そこに答えが浮かび上がってくるとでもいうみたいに。
「とても固い」と、姉は小さな声で言った。「とても固くて、骨よりも固い」
「そう」と言って、ぼくは窓を閉めた。少し肌寒くなってきた。
 姉のとても固い悲しみ。化石になったそれを発掘した人は、それが悲しみだとわかるだろうか。もしかしたら、とても美しい宝石と勘違いするかもしれない。他人の悲しみなんて、そんなものだから。
 月が雲に隠れ、また出て来るのを、ぼんやりと見ていた。


No.661
 

いいなと思ったら応援しよう!