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ハロー、悲しみ
「なに読んでんの?」と、声をかけられた。縁側、庭には真夏の強い日差しが降り注いでいる。セミの鳴き声がうるさい。わたしはいつもそこで寝っ転がりながら本を読んでいた。声をかけられ、身を起こす。汗ばんだ肌が床板からはがれる。
「なに? それ?」いとこだ。あごをしゃくる姿がムカついたからわたしは黙っている。いとこはわたしの手の中にある文庫本をのぞき込んだ。わたしはそれを自分の方に引き寄せる。それでも強引にいとこは表紙を見た。
「サガンか」と、いとこは言うと鼻で笑い、行ってしまった。たぶん、ばあちゃんのところだろう。別にあいつがばあちゃん想いのいい孫なわけではない。きっと、おこづかい目当てだ。年に二回の帰省のときにしか会えない孫にばあちゃんは甘い。わたしはまた横になり、ページに目を戻したのだけれど、ちっとも内容が頭に入ってこない。
夏の、この時期が苦手だ。親戚たちがぞろぞろと集まってきて、大きなテーブルを出してきてみんなでご飯を食べる。お酒も飲んで、大人たちは上機嫌で、お母さんたちはなんだか慌ただしく動き回ってて、ほろ酔いかげんのおじさんの相手はうんざりさせられる。「おっきくなったなあ、前はこんなにちっちゃかったのに」のくだりはもういい。
わたしが望むのは日常。わたしの日常を返して。
そんなことを言っても、日常にはそれはそれでうんざりしてるわけだけど。
昔は、こんな感じじゃなかったように思う。家の中に大勢の人がいて、ガヤガヤと騒がしいその非日常が嫌いじゃなかった。まだ小さかったから、いとことも一緒によく遊んだ。あいつは都会っ子だから木登りができなくて、それをよくバカにしたものだ。それが、お互い思春期を迎えると相手をどう扱ったらいいのかわからなくなった。そんな感じ。どうでもいいけど。わたしももう木登りなんてしなくなっちゃったし。
「もう大学生かあ、こんなちっちゃかったのに」という会話があいつの周りで行われている。あいつは曖昧な笑みを浮かべている。苦しむがいい。
わたしはそこをそっと抜け出した。お母さんがなにか言おうとしていたけど、そそくさと出てきた。我慢の限界だった。
自分の部屋で、わたしは息をついた。まるでずっと息を止めてたみたいな感じだった。いつもの、当たり前の自分の部屋が、なんだかとても静かに感じる。わたしはベッドに倒れ込んだ。疲れた。
そうやって、静けさに耳をすましていると、人の話し声が聞こえてきた。ボソボソとなにか言っている。外から聞こえる。ひとりの声しか聞こえない。電話で話しているのだろう。わたしは窓から外を窺った。
あいつがいた。電話で誰かと話している。なんだか、追い詰められた野生動物みたいな、切迫した顔をしてる。「いや、だから」とか、「違うんだって」とか、断片しか聞こえない。「ちょっと待ってよ」と、言って、「待って待って、まだ切らないで」と言って、言葉を失い、そして携帯電話の画面を呆然と見て、がっくりとうなだれた。わたしはそっと窓から離れた。
お墓参りに行くということで、みんなで出かけることになった。あいつは心ここにあらずという感じ。みんなのうしろからついていく。わたしはあいつの背後に近づいた。
「悲しみよこんにちは」わたしは背後でそうささやいた。
あいつは勢いよく振り向いた。わたしは怒られると思って身構えた。あいつはなにかを言おうとして、やめた。
「フラレちゃったの?」わたしは尋ねた。
「子どもには」と、あいつは言った。「わかんねえよ」
わたしはまだ、初恋を知らなかった。
いつか来る、悲しみも。
「ハロー、悲しみ」ベッドに横になり、天井を見ながらわたしはつぶやいてみた。
No.995