プロフェッショナルの夜
彼はプロ野球選手だ。野球をやって糊口をしのいでいる。プロフェッショナル。しかしながら、それはもうじき「だった」になるかもしれない。彼はプロ野球選手だった。過去形。いまは違う。そうなるかもしれない。
そもそものはじまりからして、どうにかこうにかその位置を掴んだのが彼だった。いくつかの球団のテストを受け、どうにかトレーニングキャンプに招待されるが、正式な契約にはいたらない。そんなことが何度か繰り返された。独立リーグでプレーし、チャンスを窺う。そして、ついに契約を勝ち取った。
とはいえ、それは風前の灯火くらいの立場だ。いつ解雇されてもおかしくない。前日までロッカールームで隣に座っていた人間が跡形もなくなるようなことは日常茶飯事だった。それがいつ自分になってもおかしくない。
彼は必死にプレーした。トレーニングをし、わずかなチャンスを逃すまいと血眼になる。その、わずかなチャンスをつかみ取り、少しずつステップアップした。あと少しで、最上位のリーグに昇格できる。夢にまで見たこと。そこで、解雇された。夢が潰えるのはあっけなかった。いかなる効果音もない。派手な演出もなし。
もちろん、それで諦めるような彼ではなかった。新たなチャンスを求め、いくつもの球団とコンタクトを取る。条件は問わないつもりだった。どんな条件であれ、契約してくれればそれでいいと思った。不信心な彼がはじめて神に祈りさえした。しかしながら、そんな救いの手は現れなかった。彼の成績は知れ渡っていたし、それはあまり食指の動くものではなかったのだ。彼はもう二度と神に祈らないことに決めた。
彼のエージェントの持ってきた話は、外国の球団との契約だった。「まあ、悪くない条件だと思うよ」
「オーケー」彼は肩をすくめた。「言葉も通じず、レベルの低いリーグでやるにしては好条件かもしれないな」
今度はエージェントが肩をすくめた。「君と契約してくれる他の球団を待つかね? あるいは、じいさんになって、死ぬまで待ってもそんなものは来ないかもしれないぞ」
「いや」と、彼はため息をつきながら言った。「行くよ。地のはてだろうと、どこへでも」
そこへ行けば、もう二度と戻って来られないだろうという予感が彼にはあった。年齢が年齢だったし、他の球団の人間の目に止まる機会も減る。とはいえ、どこかで野球をして、結果を残さないことには自分をアピールできないのだ。
そして、彼は飛行機に乗った。
自分は転がる石なのだ。彼は飛行機の窓から雲を見ながら思った。あっちへ転がり、こっちへ転がる。自分を求めてくれるところがあれば、世界中のどこへだって行くのだ。どこかで、事態がいい方に転がるかもしれない。
しかし、そこでも好転はしなかった。
そこで求められたのは、すぐに戦力になること。それも、強力な戦力になることだ。彼はその期待にまったくもって応えられなかった。歓声で迎えられた彼は、いつしかブーイングを浴びせれれるようになった。それも当然の成績だった。
その夜の試合も、彼はろくに仕事をさせてもらえなかった。ブーイングを背中に聞きながら、球場をあとにする。向かった先は行きつけのレストラン、彼の故郷の料理を出すという触れ込みだが、食べれば食べるほど、自分が故郷から遠くへだたってしまったことを思い知らされる。口に合うものにあったためしがない。
味気のないそれを平らげる。じきに解雇されるだろうな。彼は思った。椅子の背もたれに体をあずける。そこに、少女が近よって来た。身なりだけは大人びているが、体つきも、顔つきも、少女と呼ぶべき幼さが残っている。
少女は彼の向かいの席に座った。「外国の人」
彼は肩をすくめた。ひとりにしておいてほしかった。
「お仕事で来てるの?」少女はお構いなしに尋ねた。
「そうだね」彼は答えた。「仕事だ」
「なんのお仕事?」少女は頬杖をつき、彼に微笑みかけた。
「白い球を追いかけて汗をかく仕事さ」彼はつぶやくように言った。
「なに? それ?」少女は首をかしげた。彼は肩をすくめた。
「ああ」少女は言った。「野球? あなた野球選手なの?」
彼は小さくうなずく。
「プロフェッショナルの?」
彼はまた小さくうなずく。
「すごい!」少女は無邪気に声を上げる。「いい選手?」
彼は言葉に詰まり、それから「どうかな?」と答えた。
以前なら、虚勢であっても「そうだ」と答えただろう。潮時なのかもしれないと、彼の頭をよぎった。
「ねえ」と、少女は彼の手に自分の手を重ねる。「わたしと遊ばない?」
その言葉の意味を理解するのに、彼は一瞬の時間をようした。
「君は」と、彼は言った。「プロフェッショナルなのか?」
少女は微笑んだ。「わたしはいい仕事をするよ」
彼は大きく息をつき、天井を仰いだ。「いや」と、彼は言った。「疲れてるんだ。早く帰って眠りたい」
少女は肩をすくめると、席を立った。
薄暗いレストラン、ひとり残された彼は、そこにある巨大な孤独におののいていた。
No.997