たったひとつの正しさ
朝の洗面所、鏡の前で弟が妙な動きをしていた。鏡と横向きに立ち、じっと動かず、横目で鏡の中の自分の姿を見ている。わたしはなにも言わず、しばらくそれを観察していた。まだ動かない。いったいなにをしているのか。わたしは少しイライラしはじめていた。なにしろ朝の忙しない時刻だ。わたしも洗面台を使いたい。声をかけようとした瞬間、弟は素早く顔を鏡の方に向けた。そして、自分のことをじっと見ている。
「なにしてんの?」わたしは尋ねた。
「鏡の中のこいつが」と、弟は鏡にうつる自分を指差しながら言った。「ボロを出す瞬間を見ようとしてたんだ」
「ボロ?」
「油断させて、ぼくの動きを真似するのに失敗させようとしてたの」
わたしは深く息をついた。「あのねえ」
「なに?」と、弟はキョトンとした顔をしている。
「鏡の中のそれはあんたなの。別に、あんたとは別の誰かじゃない。だから、あんたの動きを真似するのを失敗したりもしない。ほら、早くどいて」
わたしは弟を押しやって、朝の身支度をはじめた。バカみたいなことに付き合って遅刻したくない。
「なんでそんなことわかるんだよ?」わたしのうしろで弟がなにか言っている。
「だって」と、わたしは答える。「いままで一度でも鏡の中の方が遅れるようなことあった?」
「次がそのはじめて遅れる瞬間かもしれない」弟は言った。わたしはため息をつき、無視をした。
弟は一事が万事この調子だ。いつもなにかおかしなことをし、おかしなことを言っている。変人として学校でも有名だ。同じ学校に通うわたしは、変人の姉ということになってしまっている。学校ではできる限り関わり合いにならないようにしている。今朝も、校門のところでうずくまって、きっとなにかを観察していたんだろうけど、無視をした。
その日、帰ると先に帰っていた弟が母に叱られていた。
「ちょっと、見てよ」と、母が紙切れを突き出す。ひと月前のテストだ。丸めてあったのだろう、くしゃくしゃのシワだらけになっている。
「なにこれ?」わたしは唖然とした。どれもことごとく零点なのだ。解答欄になにも書いていないわけではない。ちゃんと全部答えてある。そして、そのどれもが間違っていて、丸がひとつもない。
母がため息をついた。それまでのテストでは、弟はどちらかというとよくできていた。おそらく、学年でも上位にいたに違いない。
「どうしたの、これ?」わたしは弟に尋ねた。
「わざと間違えたんだ」弟はこともなげに答えた。
「わざとって」と言い、母は頭を抱えた。
「わざとじゃなきゃ」と、弟は言う。「こんなに完璧に零点なんて取れないだろ? 選択問題で適当に選んだ答えがたまたま当たっちゃうとか。全部間違えられるってことは、全部ちゃんとわかってたってこと」
わたしもため息をついた。「どうして?」と言うのが精いっぱいだった。
「どうして?」弟は首をかしげる。
「これじゃあ」と、わたしは言った。「あんたが勉強した内容をちゃんとわかっているか、わかってないか、わかんないじゃない」
「ぼくにはわかっているよ」弟は不思議そうにしている。「ぼくはちゃんとわかってる。それじゃダメなの?」
わたしは黙る。
「正しい答えばかり、書きたくなかったんだ」
No.1000