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とても愚かな人たち

 以前働いていた職場での話だ。
 そこでの仕事内容と言えば、単純作業の力仕事で、いつも危険と隣合わせで、泥と汗にまみれ、とてもではないが快適とは程遠い環境で、はっきり言えば働く場所としては最悪のそれだった。それに見合うだけの報酬があればそれはそれとして我慢もできただろうが、その産業自体が斜陽そのものであり、上から下まで生活はギリギリ、ストレスは溜まる一方で、ちょっとした誰かのしくじりに過剰に怒りを表明するというのは日常茶飯事、人間関係は険悪そのもの、それがさらなるミスを呼ぶという最悪中の最悪の悪循環がそこにはあった。
 当然そこで進んで働きたいという人間など皆無、日常的に人では足りず、それがまたミスを呼ぶわけだけれど、その話はもういい。そこで働くのはよそでつまはじきにされた者たちだった。なにかしらの理由があり、よそで働けなくなった者、仕事を得られなかった者たち。わたしもまた、そのひとりだったわけだが、わたしがなぜつまはじきになったのかは今回は語らない。それを話し始めるとなかなかに長い話になるし、わたしとしても話したくない。聞いたところで気持ちの良くなる話でもないだろう。好奇心が満たされたとしても、それに余りある不快が勝つに違いない。
 そこで働く人には、よその国から来た人が多かった。特に、言葉にまだ慣れていない人たちだ。おそらく、他の仕事では門前払いにあったのだろう。言葉ができなければ接客の仕事などはおぼつかない。それはそれで仕方のないことだとは思う。雇う側も慈善事業ではないのだろうから。しかしながら、気の毒なことだとも思う。彼らとお互い拙い会話をすると、彼らが聡明で、賢い人間ばかりであることがすぐにわかった。彼らは言葉ができないというたったひとつの理由で、そんな地獄のような職場に押し込められることになったのだ。気の毒というよりほかない。わたしなどは自業自得と言ってもいいだろうが。
 彼らは自分たちの仲間でかたまり、彼らの言葉でなにかを言い合い、笑い合ったり、怒鳴り合っているのをよく見かけた。なにを言っていたのかはまったくわからない。彼らがわたしたちの言葉に慣れないよりも、わたしは彼らの言葉に不案内だったからだ。自分のわからない言葉であれこれ話されているのはなんとも居心地の悪いものではあった。それが理由だろう。彼らを嫌う者も少なくなかった。影で悪し様に言う者もいたし、面と向かって悪罵し、馬鹿にするような連中もいた。わたしは決してそれに与することはなかった。別に誇ることでもあるまい。そもそも与するもなにも、わたしはその中でものけ者にされていたのだ。わたしは嫌われものだ。それは別に言葉が喋れないからとかではない。性根が腐っているからだ。まあ、いい。
 我々が汗と涙を流す現場の上役に鼻持ちならない奴がいた。細々として失敗をしつこく責立てるような男だ。誰からも嫌われていたが、上司にへつらうのが上手く、その地位を守っていた。わたしも幾度となくやられた。そうして責立てられるのが嫌で、ちょっとしたミスを隠そうとする。すると、早めに対処すれば何事も無かったようなことが大事になる。そうなると件の上役が大騒ぎする。責立てる。そうして責立てるのは仕事を上手く回すためなのか、自分のストレス発散のためかわからない。結果として、仕事は厄介さを増すわけだから、仕事のために責立てるのだと考えているとしたら間抜けだし、ストレス発散のためだとしたらただの下衆だ。
 ある時、よその国から来た若い女がしくじった。ちょっとしたしくじりだ。つまるところ、上役の指示を正しく理解できなかったから起きたしくじりであり、それは言葉の不自由さに起因するものである。彼女は聡明な人であり、そんなしくじりをするような人間ではなかった。上役はかねてから外国から来た者たちを軽んじるところがあった。そうした態度の現れが彼女のそのしくじりだろう。
 予定調和のように、上役は彼女をなじった。彼女の能力を、人間性を否定し、彼女の同胞まで罵った。怠け者の集まりだと馬鹿にし、国に帰れとまで言った。彼女は俯いて、じっとそれに耐えていた。ただでさえ弁の立つ上役相手に、たどたどしい言葉で立ち向かうのは困難だろう。彼女はただただ耐えていた。はたで聞いているのも耐え難いものがあった。周りは見ないふりをしていた。彼女の仲間たちも、遠巻きにしているだけだ。聞くに耐えないものを耐えることなく、助け舟を出すことだって、わたしにはできたはずである。それをしなかったのは、わたしの怯懦ゆえだろう。何度も止めよう、止めようと思いながら、結局そうしなかった。次こそは、と思った瞬間、彼女が顔を上げた。すべてのものが動きを止め、息を飲んだ。上役も例外ではない。
「とても愚かな人たち」と、彼女は言った。それは控えめに言ってもたどたどしい言い方だった。おそらくそれは、彼女の限られた語彙から必死の思いで絞り出された言葉だったのだろう。「とても愚かな人たち。とても愚かな人たち」そう言って、彼女は首を横に振った。
 上役は鼻で笑った。「愚かなのはお前たちだろ?」
「とても愚かな人たち。とても愚かな人たち」彼女は首を横に振るのをやめず、繰り返しそう言った。彼女の顔はクシャクシャになり、涙を流していた。
「とても愚かな人たち」
 その言葉はなにもできずに呆然と立ち尽くしていたわたしの胸に突き刺さった。上役は薄ら笑いをしていた。とても愚かな人たちに、きっとわたしも含まれるのだろう。


No.668

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