わたしの恋
何年か前に書いたものが出てきたので載せてみます。
突風に帽子をさらわれるみたいに私は恋に落ちた。天高く舞い上がったそれはあっという間に青空に飲み込まれて、それを見上げていた私はその青に真っ逆さまに落っこちて行ってしまう錯覚に捉われた。十八の春のこと。
それは私の初恋だった。
いやいや、あんた付き合ってたやついたじゃん、って高校の頃の友達、たとえば美紀とかは言うかもしれないけれど、あんなの遊びみたいなもので、って言っても遊びの関係だったってことじゃなくて、なんていうか、子供の遊びの延長の「付き合う」であって、おままごととか、お医者さんごっこみたいな、「クリスマスだー」とか「付き合って三か月だね」みたいなことをやるための付き合いみたいなもので、恋とか、まして愛なんてそこにはなかったから、あれは恋には入らない。ごめんよ、真一君。君は私の恋人リストに入れるわけにはいかないのだよ。それに、キスまでしかしてないし。
十八歳、私はかろうじて大学に合格して、東京で暮らすことになった。真一君はお母様のご希望で地元の国立大学を目指すことになり、見事にそこに合格して見せたから上京しなかった。私はちょっとほっとした。「これで別れられる」というのは内心で、もちろん表立ってそんなことは言わない。「離れてても、心は一緒だよ」的な。「浮気しないでよ」的な。結局、なんとなくうやむやになって、冬に帰省すると新しいカノジョができていることを人づてに聞いて、なぜか私は腹を立てたりしていたのでした。まあ、これは別の話。女心は難しいのだよ、真一君。
なにはともあれ、私は上京できることを心から喜んだ。心の底から喜んだ。だって、あんな退屈なところにいたら死んじゃうから。生きながら死んじゃう。軽自動車で家と職場とイオンモールとパチンコをぐるぐる回るなんて、死んでなきゃ不可能だ。だから、私の受験は結構必死だった。専門にいく子もいたけど、私にはそれは許されていなかった。専門に行くんだったら地元に残れ、が親の方針だったから。というわけで、私は私なりに必死に勉強して、東京の大学に合格したわけだ。めでたしめでたし。
と思ったら、私の通うことになった大学は東京は東京でも山奥にあった。一生の不覚。いや、確かにパンフレットとか学校案内を見れば私がかろうじて合格した学部のキャンパスは町田の山奥なんだけど、もう私の頭の中にあるのはスクランブル交差点であり、アルタ前なわけで、そんな狸の出るところが東京にあるなんて想像だにしていないわけで、死にたいほどに憧れた花の都大東京は遥か彼方。私は多摩丘陵からそれを遠く見やるのでした。カントリーロードでも歌いたくなる。
とはいえ、町田でも立川でも、私の地元なんかよりははるかに都会で、パルコとかイケアとか意味もなく行ってブラブラして、モノレールの線路を見上げてため息ついて、駅前のバス停のあまりの多さに迷子になって、まあ、新宿まで出ようと思えばすぐ出られるし、道を牛が歩いてたりしないし、ヤンキーいないし、思わず美紀に「東京サイコー!」ってラインしたら既読スルーされた。美紀も東京に出たがっていたのだけれど、あいつは受験に失敗し、地元で美容師の資格の専門に通っているのだ。ああ、確かに私が悪かった。ごめんね美紀。デリカシーがなかったわ。あんたの傷口えぐるような真似しちゃって、でも、そんなこと吹っ飛ぶくらい私は浮かれていたのだ。ただ東京(町田)に来たってっだけで。
というか、美紀ってなんかそういうとこがあるんだよな。クヨクヨうじうじするっていうか。確かに私も悪いかもしれないけれど、いいじゃん、一緒に喜んでくれたって。それが友達ってもんじゃない?だいたい、美紀とは同じ中学だったっていう、なんか腐れ縁的な感じだけで一緒にいた部分もあったし、正直ちょっと気が合わないような感じもあったんだよね。ぶっちゃけ。ノリが合わないっていうかさあ。なんて言うか、ちょっと辛気臭いとこがあって、あれはいつかスピリチュアルとかハマるタイプだと思う。ヤバイと思うわ、うん。「なんとか占い」みたいなの大好きだし。いや、まあ美紀のことはどうでもいいんだけど。っていうか、今でも普通に友達だし。なんだかんだ。
とにかく、私の東京(町田)ライフはスタートしたのだ。たとえそれが町田でも、たとえそれが狭いワンルームだとしても、東京であることに変わりはないし、一人暮らしであることに違いはない。ああ、なんていい響き!東京で一人暮らし。東京で一人暮らし。何度でも唱えられる。これだけでご飯何杯でも食べられる。
一人暮らし、これもまた、私が長年憧れたものだった。すっごい解放感。ケータイでどれだけ長く話しててもうるさく言われることなんてないし、急に弟が部屋に入ってくることもない。あのバカ、勝手に部屋に入ってきて、勝手に私の漫画とかCDとか持って行っていくのだ。それで、あれ!無い!と思うとあいつの部屋にあって文句言うと、舌打ちしたりするもんだからむかついて怒ると、「はいはい」みたいな感じであしらわれて、さらにキレるとなんかもう体力的にはかなわないから、いや、昔はさ、私がプリキュアであいつがその敵でさ、キックとかして泣かしてたんだけど、さすがにもう体力的にかなわなくて、最終的には泣き寝入りすることになる。ホントむかつく。あいつがいないことで私の精神はどれだけ健全になることか。たぶんあいつのせいだ、私がついつい食べ過ぎちゃうのは。ストレス。そう、ストレス。真吾が私にストレスを与えるから、私はつい食べ過ぎて、体重計乗って自己嫌悪に陥り、そしてダイエットに励むことになる。それがストレスになり、食べ過ぎ、真吾に八つ当たりし、ストレス。まさに負のスパイラル。全部あいつのせいだ。そもそもの原因はあいつ、あいつの存在。しかもさらにむかつくのは学校で女子にちょっとちやほやされているもんだから調子に乗っているとこ。なんか知らないけど、私の服装や態度にいちゃもんをつけてくる。「そんなんだからモテないんだよ」。うるさいよ!調子乗るな。マジで最悪だと思う。ホントバカばっかりだよ、世の中は。あいつのどこがいいんだか。ちょっと野球がうまいだけのバカじゃん、あいつなんて。
東京に来たことで、あいつと離れられた。わーい、一人暮らし最高。おいでませ、私の理想の暮らし。北欧家具を揃えて、夜とかは間接照明のほの暗い部屋の中で趣味のいい食器に盛られたこじゃれたパスタを食べるのだ。ワインなんか飲んじゃって。ぼんやり夜景を眺めながら、美味しいコーヒーを啜るのだ。しかもブラックで。ジャズなんか聴きながらさ。ソファにもたれて、息をつく。ふぅ。私の理想。いやいや、現実は北欧家具なんて夢のまた夢で、全部ニトリだし、普通に照明はLEDだし。悲しくなるくらい殺風景な部屋で食べるのはそりゃ最初の頃こそ自炊をしようと頑張ったし、何冊もおしゃれなイタリアンのレシピ本なんか買っちゃったけど、結局コンビニ弁当ばっかりだし、ジャズのCD買ったけど、どこがいいのかちっともわかんなかったし、夜景なんて見えないし、コーヒーは不味いし、洗濯とかゴミ出しとかめんどくさいし、ご飯だって作るの大変だし失敗ばかりだし。なんかもうバタバタで、真っ黒焦げのトーストに笑えて来ることもあるけど、そういうの全部がすっごく新鮮で、すっごく楽しくて、なんかもう全部輝いてる感じ。そう、そういう感じ。わかるかなあ。いや、確かに夜部屋に帰ってさ、誰もいないってのはすっごく寂しくなることもあるけれど、真っ暗な部屋に「ただいま」って今までの癖で言って、何も返ってこないのって、そりゃ寂しいよ。でも、それも、それすらも含めて、ああ一人暮らし、って感じで、いいんだなあ。人間だもの。みつを。みつをはそんなこと言ってない。
ああ、あの頃の私の日々は輝いていた。ただ日々が流れ過ぎ去っていくだけで、キラキラしてた。まるで春の小川みたいに、菜の花が咲き、蝶がその上をヒラヒラと舞い飛ぶ。陽光を反射して川面がきらめく。それが私の日々だった。穏やかな春の風が吹いている。なんて心地いいんだろう。と、思っていたら、急に強い風が吹いたのだ。それは私のかぶっていた帽子を飛ばし、青空がそれを飲み込んだ。私は恋に落ちた。真っ逆さまに。それは空に落ちるくらい深く。
私は、先生に出会った(ウルルン風に)。
私が小学生だった頃、クラスで事件があった。七瀬ちゃんの体操着が盗まれたのだ。臨時のホームルームが開かれ、それはとにかく長く、そりゃそのはずで、犯人が名乗り出るまで終わらないと宣言されて始まり、そんなの誰も名乗り出るはずなんてないんだから終わりが見えるはずがなかった。結局、日が暮れてきて教師も諦めたわけだけど、そんなの絶対に名乗り出る奴なんているわけないじゃん、死ぬよ。ほぼ死とおんなじじゃん、名乗り出るなんて。死刑宣告だよ、そんなの。って、思うんだけど、先生にはどうもそういうことがわからなかったらしく、考えてみればなんだか色々ととんちんかんだったし、私的にはあんまり好きな先生じゃなかった。確か、40歳くらいの女の先生。すっごく地味な恰好してて、髪が長くて真っ黒で、私たちは貞子って呼んでた。
七瀬ちゃんはハッキリ言って美少女だった。線が細くて、大人しくて、全体的な雰囲気は宮崎あおいっぽい感じ。女の私の目から見ても、それは明らかで、もしチャンスがあれば私だって七瀬ちゃんのリコーダーを舐めたかもしれない。気持ち悪。きっと多くの男子がそんなことしてたんだろう。きっと多くの男子たちがリコーダー兄弟だったに違いない。気持ち悪!
体操着を盗んだのも、きっとそういう気持ち悪い男子の誰かに違いない。そして、あの先生がやけにそれにこだわったのもそういうことなのだ。どういうことか?
世の中には二種類の人間しかいない。体操着を盗まれる者と、体操着を盗まれない者だ。名言。バイ私。そして、貞子と、私は同じ側の人間、体操着を盗まれない人間だったのだ。私としては不本意なことなのだけれど、事実は事実だ。仕方がない。泣いている七瀬ちゃんが、私はちょっと羨ましかった。七瀬ちゃんの体操着は盗まれて、私の体操着は盗まれない。この差。いったい、七瀬ちゃんと私の間にどんな差があるというのか。みなまで言うな。わかってる。わかってるよ。そりゃ私はきれいとか美人なタイプじゃない。私が男子だったとして、私の体操着を盗むかと言ったら答えはノーだ。そんなリスクを、教室的死の可能性をはらんだリスクを冒してまで、得る価値が私の体操着にあるとは思えない。私は悔しかった。体操着が盗まれないことが悲しかった。体操着を盗んだ奴に対して、私は怒っていた。それは延々と終わりの見えないホームルームの原因になったからでも、七瀬ちゃんが可哀そうだったからでもない。私の体操着を盗まなかったからだ。そして、それはたぶんあの貞子もおんなじ気持だったんだ。貞子の体操着も盗まれなかっただろう。そして、貞子は怒っていたのだ。それは私の怒りとおんなじ怒り。誰かが貞子の体操着を盗まなかったことに対する怒りで、七瀬ちゃんの体操着は盗んだにもかかわらず、貞子の体操着は盗まなかったすべての男子に対する怒り。そして、もしかしたらそれに怒ってる自分自身に対する怒り。うーん、めんどくさ!
結局、犯人はわからずじまいだった。まあ、そりゃそうでしょ。名乗り出るやつなんていないし、無理矢理家宅捜索するわけにもいかない。事件は迷宮入りとなったのでした。おしまい。まあ、そのクラスの誰かが七瀬ちゃんの体操着を持っていて、もしかしたら、それであんなこととかこんなこととかしてるなんて考えると、ビミョーに気持ち悪かったけど、まあだんだん慣れて、そんなこと忘れちゃった。でも、やっぱり気持ち悪いな。そいつはまだ七瀬ちゃんの体操着持ってるのかな。どこかに大事にしまってるのかな。匂い嗅いだりするのかな。気持ち悪!
ちなみに、七瀬ちゃんは高校生の頃にヤンキーの先輩と付き合いだし、卒業とほぼ同時に結婚したらしい。たぶんすぐ子供を産んで、離婚して、地元のスナックかなんかで働くことになるのだろう、七瀬ちゃんに幸あれ!
体操着が盗まれない私は私なりに精一杯生きてきた。体操着が盗まれなくても立派に生きていけるということを証明するために。いや、そんなアホな話はなくて、体操着が盗まれなくても生きていかなければならないわけで、結局、大多数の人間の体操着は盗まれないし、あるいは第2ボタンは卒業式の翌日も着いたままだし、だからって悲観することなんてないし、それなりに生きていけるし、なんだかんだ「うちのカレシがー」って女友達に愚痴ったりのろけたりもできるわけで、実際私にだって真一くんというあれがいたわけで、じゃあ体操着が盗まれる盗まれないがなんなんだってなるけど、なんだろうね?
そんなまとまりもオチもない話をすると、先生は「ふふふ」と笑ってくれた。私はこの先生の「ふふふ」が好きだ。大好きだ。まるで可憐な乙女の笑いみたい。なんて上品なんだろう。「ふふふ」私もそう笑いたいものだけれど、なんかできない。「ふふふ」
私たちは休憩室にいた。その日私と先生は同じシフトだったから、休憩のタイミングも同じだった。休憩が終わったら、閉店まではノンストップ、ずっとレジに立っていなければならない。とはいえ、8時過ぎればもうほとんどお客さんなんか来ないから、店内を掃除しながら雑誌をパラパラ立ち読みなんかしちゃえるのだ。バレたら店長に怒られるけど。
東京出て来て二カ月、私がバイトを始めたのは本屋だった。駅ビルに入ってる本屋で、ちょっとした広さがある。店長はこれぞ本好きっておじさんで、眼鏡かけてて、七三で、ぼそぼそしゃべる人で、なんか融通が利かないけど、悪い人じゃない。他のバイトの人たちは、ちょっとオタクっぽい感じの人が多くて、漫画とかアニメの話してんだけど、私はついて行けないからまあ「ふーん」的な、ちょっと距離がある感じ。まあ、別にいいんだ。いや、結構しんどいけど。ホント、一人すごいオタクって感じの奴がいるんだけど、そいつと同じシフトで入ったりすると後半8時過ぎた頃はレジがホント苦痛としか言いようがない。はじめの頃は頑張って話してみようかなあ、みたいな、いやそいつの方が一応バイトの先輩だし、ちょっと交流持った方がいいかなあ、みたいに思ったんだけど、全然話合わないし、すっごいつまんないし、というわけで、私の方から話しかけないし、向こうからも話してこなくなって、そのレジが暇な時間帯の苦痛といったらないわけで、ほぼただぼんやり立ってるだけの時間ってのは拷問よ、ハッキリ言って。もしあのまんまだったら、私はとっととそんなバイト辞めて、まどかが誘ってくれたカラオケのバイトを始めていたかもしれない。あ、まどかってのはサークルの友達ね。テニサーの。
そもそも私はなんで本屋でバイトしようと思ったんだっけ?ああ、そうだ。本屋なら変なお客さんが来ないんじゃないかな、って思ったんだ。例えば、コンビニとかだと、どっかのワケわかんないヤンキーとかが駐車場にたむろしたりしそうで、その点本屋なら本を読む人しか来ないわけで、本を読む人なら頭良いだろうし、そういう人ならコンビニにたむろしたてるヤンキーとへ違ってきっとまともで、まともな人しか来ないならたぶん楽なんじゃん、って絶望的に頭の悪い理由で本屋でバイトすることにしたんだ。
「あんた本読むっけ?」私が本屋でバイトするって言ったらまどかは驚いてそう言ったんだけど、明らかに私は本読まないだろうって感じで、いやお前私のことまだそこまで知らないだろうって思ったけど、まあ本なんて全然読まないよね。
「いや、読まない」
「カラオケにしなよ。楽だよ」
「えー、やだよ、酔っ払った大学生とか来るんでしょ。うぇーい、みたいな」
「うぇーい」
「うぇーい」
で、蓋を開けてみると、本屋に来るのは頭の良いまともな人たちばかりではなく、もちろんたくさんそういう人もいるわけだけれど、中にはわけのわからない文句を言ってくるおばさんとか、異常に不機嫌で雑誌を袋に入れるか聞いても答えないから入れたら「袋いらない!」ってキレるおじさんとか、レジの前で堂々と座り込んで漫画雑誌読む小学生ぐらいのクソガキとか、ガリガリ君食べながら大勢で入ってきて大騒ぎする高校生とか、まあ、考えていたものとは全く違って、とにかく世の中にはいろんな人がいるもので、ホントうんざりする。
一回、エロ本が置いてあるのは子供に悪影響だ、とか文句言ってきたおばさんがいたんだけど、そんなこと私に言われても、って感じで、「あ、すいません」って一応謝ったけど、ホントワケわかんなかった。
私は全然本を読まなかったから、ハッキリ言って使えないバイトだったと思う。って言うかよく雇ったな。誰でも良かったのかな。ニンジンもキャベツもわかんない八百屋がいたら驚かれるだろう。私はそれだった。文庫とか新書とか、そういう言葉がよくわかんない。どれが文庫?新書?
「それは単行本」
「それは新刊」
怒られてばっかりで、もうビクビクだよ、レジ入ってると。レジはまだいい。バーコードをスキャンして、お金のやり取りをする。いやぁ、簡単。問題はそこじゃない。何も持たないお客さんが近付いてくる。何も持ってないってことは、何か問い合わせに違いない。私は辺りを見回す。助けてくれる誰かを探す。この場合、あの汗臭いオタクであっても全然構わない。むしろ、そこにいてくれれば感謝すらしたし、あるいは尊敬だってしたかもしれないけど、そういう時に限ってあのオタクいないんだよな、間が悪いやつ。
「あの」
「いらっしゃいませ」と私は微笑む。心臓はバクバク。どうか私の答えられない質問をしませんように。
先生は私よりも一月くらいあとに入ってきたから、一応私の方が先輩ってことになる。初対面のことはよく覚えてる。その日は授業があって、学校終わりでバイトに行ったんだった。まどかがご飯食べに行かないか誘ってくれたんだけど、いやすっごい行きたかったから、ホント面倒くさいバイトだもう絶対やめてやる、なんて思いながら事務所のドアを開いたらおじさんが立っていた。私の知らない社員さんかな、って思って、「あ、どうも」みたいな感じで軽く会釈したら、「今日からアルバイトをさせていただきます、島津と言います。よろしくお願いします」なんてきれいなお辞儀されちゃって、「えっ、えっ」って戸惑った私があたりを見回したのはドッキリか何かでどこかで私の様子を窺っている人がいるんじゃないかってことを反射的に思ったからなんだけど、どこにもそんな人はいなくて、それは単純に現実、目の前にある事実だった。
あとでわかることだけれど、島津さんのちの先生は42歳で、私よりも23歳年上なだけでおじさんっていうには若い、って場合によっては親子の年齢差じゃん。見た目もまあ、おじさんっかなあ、呼びかけるとしたら、おじさんかなあ。お兄さん、って言ってもいいかもしれないけど、結構おじさんだよね、やっぱり。
島津さんの容姿はきちんとしていて清潔だった。たぶんユニクロのシャツに、ユニクロのチノパン、髪もさっぱりしていて白髪が少し混じってるけど、加齢臭が漂ってくる感じじゃない。背は結構高くて、180くらいあるのかな、お腹出てるってこともなくて、それもあるのか変に若作りしなくても、42歳には見えないと思う。うーん、39くらいに見えるかな。眼鏡がちょっとおじさんっぽいし。でもそれでいいんだと思うんだ。いや、私の地元には茶髪にして若者みたいな服着て「若い頃は俺もちょっとヤンチャしててさ」的な、ラインとかやたらスタンプ使ってくるようなおじさんがいてさ、まあいいんだけど、やっぱりちょっとイタイ感じがするし、むしろそうすることで非若者感っていうか、おじさん感が出ちゃってるよね、ハッキリ言って。先生にはそういう無理が無くて、ホント自然におじさんで、そういうのって、なんかこっちに押し付けてくる感じがなくてすごく楽だよ、やっぱり。「俺のこと、若者って見て見て」みたいなのって、押し付けじゃん。そういうやつと一緒にいると疲れるけど、先生にはそういうのがないから疲れない。
先生との初対面で私がキョドったのは、おじさんとアルバイトってのがどうもうまく結び付かなかったからだ。目の前にいるおじさんにアルバイトって言葉をどうにかくっつけようとするんだけど、粘着力が弱いのかすぐ剥がれちゃう。いや、これなんか違うんじゃない?間違ってんじゃない?
って疑心暗鬼になりながらやってるから、それをどうにかくっつけようとするのも身が入らないっていうか、だからさらにうまくいかなくなっちゃう。だって、私としてはそういうおじさんって、まあ何かしらの会社に勤めててさ、「娘が小学生になったんですよ」とか「いや、俺もちょっとヤンチャでさ」みたいなの知らなかったから、まさかその二つ、おじさんとバイトが結び付くとは思いもしてなかったのだ。
「菊池さん、ですか?」って島津さんのちの先生の言葉で私は我に返ったんだけど、え、なに、なんで私の名前知ってるの?ストーカー?とか思ったのは、だって初対面なのになんで私の名前知ってるの?と、思ったら、島津さんはがさごそ何か紙を取り出して、それはバイトのシフト表で、それを見て私はやっとこさ色々なことが収まるべきところに収まっていったのだった。ああ、島津さん。島津さんね。というのも、そのシフト表、バイトのメンバーの名前は入った順に上から並んでたんだけど、当然入ってちょっとしかたってない私は一番下っぱだったのが、その新しいシフト表には私の名前のそのさらに下に名前があって、それが島津さんだったってわけ。で、「あれ?新しい人?」って思ってたんだけど、まあ男の人の名前なわけで、どんな人かな、かっこいい人ならいいなあ、とか考えて、まあ頭の中では山崎賢人辺りでイメージされちゃってて、なんかもうレジの中でイチャイチャする妄想とかしてたんだけど、って言うのは、先生の下の名前ってあんまりおじさんっぽくなくて、ちょっとかっこいい、爽やかな感じだから、妄想もはかどったわけ。で、その妄想してた名前と、目の前のおじさんが同一人物ってパッとわかんないよね。いや、少なくとも私にはわかんなかった。
「菊池さん、ですか?」って島津さんは恐る恐る私に尋ねたんだけど、それは私が呆然としてたからで、私は慌てて「はい、そうです」って答えたんだけど、なんか妙にハキハキ答えちゃって、「菊池です、よろしくお願いします」なんてどっかの運動部の高校生みたいな感じになっちゃって、時計を見るともうレジに入らないとならない時刻が迫ってて、ちょうど店長が事務所入って来て、島津さんを私に紹介したんだけど、遅いよ!
「菊池さん教えてあげてね」店長はそう言って、レジから去って行った午後7時。まあ、実際のところ、そろそろ客足も落ち着くかなあ、って時刻なわけで、いや教えてあげてねって、無理だろ。私がまだ2ヶ月ちょっとしかバイトしてないし、本のことわかんないし、しかも相手おじさんだし。おじさんに何か教えたことなんてなかったし、っていうか、だいたい大人→私みたいな感じで教わってきてるわけで、おじさんに何か教えるなんて考えたこともなかった。
「よろしくお願いします」なんて島津さんのちの先生はかしこまって言うもんだから、私がドギマギしちゃうよ。「お願いします」
というわけで、私は私のあらんかぎり、まあ仕事の流れ的なこと、たとえば、何時になったら掃除して、店内整理して、お金しまって、とかを教え、カバーの付け方とか、袋の場所とか、無くなったらどこから補充するかとか説明したわけだけど、そのいちいちに真剣に頷かれちゃってなんかこっちが申し訳ない気分になっちゃって、だってこんな小娘に何か教わるとか、敬語使うとか、おじさんのプライドが許さないんじゃないかってヒヤヒヤして、いつか急にキレたりするんじゃないかって思ってたんだけど、のちのち先生の人となりがわかってくると、絶対にそんなことはないし、そんな糞みたいなプライドも先生は持ってないってのがわかって、この初対面の時のヒヤヒヤは杞憂だったってのがわかるんだけど、それはのちのちで、その時はわかんないからまあすっごいやりづらかったよね。
でもまあとりあえず、何事もなく時間は進んでいって、ああもうちょっとで閉店だ、って思ってたら店長が事務所から出てきて私に「一番」って言ったんだけど、この「一番」ってのは「トイレに行くときには『一番』って言ってください」って私が島津さんに教えてあげていたことで、えっ、店長トイレ行っちゃうの?お店にいるの私と島津さんだけになっちゃうんだけど、って思ったけど、店長はそそくさもう行っちゃってて、まあちょっとだけだし、お客さんもうほとんどいないし、問題ないかなあ、って思っていたらレジに近寄ってくる人影。これは問い合わせに違いない、って私は身構えた。私の想定していた最悪の事態であり、想定していたにもかかわらず具体的な対策は何もなかった事態。だって、何を聞かれるかなんてわかんないんだから、対策の取りようがない。できることと言ったら神様に「どうかお問い合わせのお客さんが来ませんように」って祈ることぐらいで、私は祈っていたんだけど、やっぱり心の片隅では「大丈夫でしょ」みたいな変な楽観があって、結局そういう楽観主義が私の祈りの力を弱めたのかもしれない。実際来ちゃったその時にできるのは、その場にいない店長を恨むことと、店長が一刻でも早く戻ってくることを祈ることぐらい。
やってきたのは大学生風の、私よりもちょっと年上かなってくらいの男の人で、「いらっしゃいませ」って私はにこやかに言ったんだけど、内心はドキドキ、どうか私でも答えられることであってほしい。「トイレどこですか?」とか。
「あの」って青年。
「はい」さあ、なんだ?
「シュンキンショーありますか?」って、そいつは言ったんだけど、ああ神様、なんてあなたは残酷なの?全然わかんなくって、たぶん私の目は点になってたと思う。
シュンキンショー?シュンキンショーって何だろう?私の頭の中ではパソコンの画面に出てくる砂時計みたいなのが出てきて、いや、もしかしたら画面が固まってたかもしれない、どんな変換もできなくて、シュンキンショー、シュンキンショー、シュンキンショー、ってどんなショー?いつもなら、隣に立つバイトの先輩、場合によっては事務所の店長に助けを求めるわけだけど、店長はトイレに行っちゃってていないし、隣に立つのはその日がバイト初日の島津さんで、一応私が先輩なわけだし、私は自分でその状況をどうにかするしかないという、まあ窮地ですよ、はい。嫌な汗が噴き出てきて、挙動不審で、「えっと、えっと」ってまあしどろもどろで、私は答えられずにいた。
「春琴抄ですか?谷崎の?」一瞬、それが誰の声なのか私にはわからなかった。あれ?神様の声?くらいにすら思った。ついに私の祈りが届いて、神様が助けてくれたんだ、みたいな感じ。いや、そんなわけあるか。私は声がした方を見た。いや、まさかって感じで信じられなかったんだけど、別におかしなことじゃない気もあとになってみるとしたし、のちのち先生のことを知っていくと当然のことのように思えるけど、その時はバイト初日の島津さんがよもや答えるとは思ってもみなかったわけで、そりゃ、本屋でバイトしようってんだからある程度本を読む人でもおかしくないよね、普通は。
「えっと」って、その大学生風はリュックサックからプリントを出して、なにやら確認を始めて、「えっと、そうです。谷崎潤一郎」
「文庫本はどこですか?」って、島津さんが私に聞いて、それならこないだ学んだばかりの知識で、私はその棚を指差すと、島津さんはレジを出てスタスタそこに歩いて行って、顎に手を当てながらしばらく右左動いていたんだけど、しばらくすると、さっと手を伸ばして、本を一冊取り出したのだった。
「あ、ありがとうございます」青年は島津さんにそうお礼を言ったよね。ホントありがとう。私も心の底から感謝した。ありがとうございます。ありがとう。島津さんは優しく微笑んでいた。
「えっ」ってまどかの驚く声がして、「何してんの?」って言うんだけど見りゃわかんじゃん。
「本」
「本」
「読んでる」
「読んでる」まどかは私の正面の席に座って、もう五限が始まる時間だから学食はだいぶすいてきてた。奥の方でギャーギャー騒いでたやつらがいなくなって、だいぶ落ち着いた感じ。「なんで?」ってまどかは唖然としたまま言ったんだけど、よく考えると失礼なやつだな。
「へへへ」と私が笑ったのはたぶんなんだか照れ臭かったからだと思うんだけど、なんで本読んでるくらいで照れなきゃならないのかはよくわかんない。
「なに読んでるの?」まどかは私の持っている文庫本の中を覗こうとする。
「春琴抄」
「シュンキンショー?何それ?どんなショー?」
私は思わず吹き出して、まどかは明らかに不機嫌そうになったんだけど、いや私も笑えたもんじゃないし、「ごめんごめん」って謝って「谷崎潤一郎だよ、まどかくん」って言ったんだけど、まどかはふーん、ぐらいのリアクションで、たぶん谷崎なんて知らないんだろうし、おそらくまどかの頭の中に浮かんだのは中学の頃にまどかがふったというチビの谷崎君の姿だっただろう。谷崎君はその後進学校に進み、現役で東大に受かったとかいう風の噂があるらしいけど、それについてまどかがどう思ってるのかはわかんない。
「面白い?」
これは実に難しい質問だ。何しろ私は難しくてその内容をいまいち理解できていないような気がしていたからだ。いや、たぶん理解できていないんだと思う。そもそも私、現代文苦手だったし。
「うーん」
「面白くないの、なんで読んでるの?」
これもまた難しい質問。なんで読んでるの?いや、わかってたんだけど、答えるのがちょっとためらわれるって言うか。
「若い頃読んだことがあったんですよ。たまたまです、たまたま」って、閉店後の事務所で私が助けてもらったお礼を言うと先生は言ったんだけど、そこには自分がしたことで私のことを傷つけないようにしようって気配りが感じられて逆に傷ついた。なんかそういうのあるじゃん、慰められると泣きたくなる、みたいな、そんな感じ。正直くやしさがなかったと言えば噓になるし、実際悔しかった。なんか自分のできなさをまざまざと見せつけられた感じ。いや、わかってるんだよ、私は仕事できないって。実際そういわれても「へへへ」って笑ってごまかしたりしてたんだけど、なんかそうやって見せつけられちゃうと悔しい。
もしかしたら、あのとき私は先生のことがちょっと嫌いだったのかもしれない。あの敗北感、いや、まあさ、こっちがバイトの先輩だって言っても、あっちは人生の大先輩なわけだし、おじさんだし、こんな小娘に負けるわけにはいかないだろうけど、それでも私は悔しかったし、見下されてる感じがして、まあそんなの私の勝手な思い込みだったんだけど、なんか嫌だった。
で、事務所出て帰りの電車乗ろうと思って駅に向かって歩いてると、私よりもちょっと先に出た島津さんの背中が見えたんだけど、いや気まずいじゃん、なんか。別にガッツリ嫌ってたわけじゃないけどさ、何て言うのかな?バイト初日の島津さんともしも同じ電車になんてなったら、なんか話し掛けないとおかしいし、そうやってお喋りする自信無かったし、結構私人見知りだから、歩くペースを落として、島津さんに追い付かないようにして、私と同じ方角じゃなきゃいいなあ、って思ってたんだけど、まるで私を先導するみたいに私の帰り道を歩いて行くのよ、これが。で、ホームも同じで、私は隠れたね、物陰に。違う車両に乗ってチラチラ様子を窺って、降りる駅が違ったのだけが救いだわ、ってその時は思った。その時はね。
うーん、その悔しさが私が『春琴抄』を読む理由だったのかな?正直なところ、ホント正直なところわかんないんだなあ。もしかしたら、私はその本に興味があったんじゃなくて、その時から先生に興味があったのかもしれない。先生に興味があって、で、本を読めばそれについて「あれってこうですよね」とか「いや、あんまりおもしろくなかったです」とか、まあ、なんか感想を話すきっかけになるし、もしかしたらそれが仲良くなる第一歩になるかもしれないし。いや、それまどかには言えないって言うか、ちょっと言いづらいって言うか、なんかやっぱりあれじゃん、おじさんじゃん。
「えっ!マジ?おじさんじゃん」
こんなリアクションがもう目に浮かぶようで、まあ言えないし、そのリアクションに「いやいや」って反論するほどその時の私の中にこれってのがなかったし、自分自身でもわかんないことって、胸を張ってなんて言えないじゃん。
「どんな話なの?」まどかは私が持ってた文庫本を取り上げてパラパラめくり始めたんだけど、とりあえずページをめくってるだけって感じで目を通そうとは思ってないみたいで、まどかも全然本読まないって言ってたし、まあ読まなそうだよな、ってまどかを見ると思う。話してるとなんだかんだその相手の頭の良さってわかるじゃん。なんて言うか、偏差値で計れない系の頭の良さ。そういうのが、まどかと私は似てる感じがする。いや、まどかはお前となんか似てないよって怒るかもしれないし、私もまどかにそんなこと言われたら、似てないよって怒ると思うけど、なんかそんな気がする。まどかはしばらくそうしてから文庫本を私に返して私の答えを待ってる風なんだけど、どんな話って言われましてもって感じで、「なんかすっごい美少女がいて」
「うん」
「目が見えなくて」
「うんうん」
「佐助ってのがいて」
「うん」
「美少女が顔火傷しちゃうんだけど」
「マジで?」
「佐助は針で自分の目を刺しちゃうの」
「は?なんで?佐助が犯人?」
「何の?」
「火傷」
「違う、と思う」
「なんかホラー系?」
「なんで?」
「なんか怖くない?針で目刺しちゃうとか」
確かに怖い。怖いしよくわかんないけど、よくわかんないとこがさらに怖いんだけど、佐助怖いな、確かに。佐助だったら余裕で体操着盗みそうな気がする。盗んで、綺麗に畳んで保管しておいて、たまに出して来て匂い嗅いだり、着てみたりしてそうな気がする。そういう全てが怖い。んだけど、まどかにはなんか上手く伝わりそうもないから黙っておいたし、まあ読んでみなよ、とも言わなかった。どうせ読まないだろうし、なんか怖いし、わかんないから。
「日曜サークル行く?」って、話は簡単に変わって、ほらね、まどかは全然本になんて興味が無かったわけで、それはそれでいいと思うしむしろそっちの方が楽で良かった。で、結局そうしてダラダラと話して、ダラダラ時間潰して、「あ、バイト行かなきゃ」って、まどかが席を立つまで過ごした。去り際まどかは「谷崎くん、どうしてるかな」ってなんか遠い目をして呟いたんだけど、知らねーよ!
で、その日曜日、私は寝坊して起きたの昼過ぎだったから試合には間に合わず、「寝坊したー」ってまどかにラインしたら「打ち上げあるから来なよー」ってことだったので、私は打ち上げから参加したわけだけれど、いつもだいたいこんな感じだったし、うちのサークルユルかったからそんな私にとやかく言う人はいなかったし、むしろ私みたいなのが何人かいたくらいだった。一応テニスサークルってことなんだけど、私はテニスなんてしたことなかった。じゃあ、なんで入ったの?ってなると思うんだけど、そりゃなんか楽しそうだったからで、勧誘してた人がちょっとかっこ良かったってのは結構大きな要因だったんだけど、その勧誘してたコージさんはゆかりさんと付き合ってるってのがすぐに発覚して私としてはちょっと萎えたんだけども、まあコージさんとゆかりさんはお似合いの美男美女なわけで、サークル内でもそれは周知の事実で、致し方ない。
実際のところ、テニスサークルでありながら、私はほとんどテニスなんてしなかった。一応ウェアもラケットも揃えたんだけど、まあ何度か使いもしたんだけど、そもそもテニスをそんなにやる気もなかったし、私運動神経ゼロだから恥かくだけだし、「ちょっととろいのが可愛い」みたいにもならない、ホントにただどんくさいだけで哀れになるだけの本当に運動神経ゼロだから、人前で運動なんてしたくなかった。
「は、なんでお前がいんだよ?」って絡んできたのは高橋、学年はおんなじだけど一浪してるから高橋の方が年上だけど、高橋は馬鹿だしなんかむしろ年下くらいに思える。だから学年同じ男子はみんな「君」付けで呼ぶんだけど、高橋は高橋だ。こいつに「君」をつけるなんてもったいない。こいつは普段無口なくせに酔っぱらうとやたらしゃべるようになって私に絡んでくるからマジでうざいし、いやそれがコージさんみたいなイケメンならまだしも、高橋はちんちくりんだし顔もちょっとあれだ。
「ちょっとあれだよね」
「うん、ちょっとあれだわ」まどかも同意する。
ちょっとあれな顔が真っ赤になってて「なに飲んでんの?」って聞くと「モスコミュール」って女子かよ!って思ったんだけど、そんなこと言ったらなんか私がすっごくお酒飲み慣れてるみたいになっちゃうからやめておいた。
「うっさいなあ、あっち行けよ」
「へへへ」
「へへへじゃないよ!」
「菊池が誰にも相手にされてないから可哀そうに思って話しかけてやってんだろ」
「うるせえ」
ってまあ、確かに若干の疎外感はあったよね。そりゃ私試合にも何にも出てないし、打ち上げだけ来てるし、みんな昼間の試合のこととか話してるし、会話に入れないし、なんか来いって言ったまどかは違うテーブルで、私のことなんか忘れたみたいに楽しそうにしてやがる。
「いいから、私、一人で本読んでることにするから」私がそう言ってバッグをガサゴソやると、高橋は私のバッグを覗こうとするから、私は肘でちょっとあれで赤い高橋の顔を押しやるんだけど、不覚にも馬鹿馬鹿しさに笑いが出ちゃって、ああこれじゃあ私が楽しんでるって高橋が勘違いしちゃうなあ、って思ったんだけど、高橋の表情からはまさに私の危惧した通りの様子が窺えてホントぶん殴ろうかと思った。で、どうにか押し返して私は本を取り出す。
「なに読んでんの?」って高橋は私の持ってる本に手を伸ばしてひったくろうとするから、私はそうはさせまいと身をかわし、いやなんかまた笑いが出ちゃってこれじゃイチャイチャしてるみたいじゃん、戯れてるみたいじゃん、ああ頭にくる。
「春琴抄」
「シュンキンショー?」
私が軽く身構えたのは、もし高橋が春琴抄を知っていたり、場合によっては読んでたりしたらどうしようって思ったからなんだけど、心の中ではいやいやそんなことあるわけないか、って思ってるんだけど、もしも万が一高橋が読んでたりしたら私はその敗北感に立ち直れないだろうって思ってた。
「なにそれ?どんなショー?」
ああ、こいつも馬鹿だ、って私は安心した。
「バーカ、谷崎潤一郎だよ。そんなことも知らないの?」
「う、うるせえ」って高橋は顔を真っ赤にしたんだけど、それがアルコールのせいなのかどうなのかはわかんない。
「なにイチャイチャしてんの?」ってニヤニヤしながらまどかがやって来て「してない!」って否定したんだけどなんか高橋と声が合って言っちゃって「仲がよろしいことで」ってまどかがニヤニヤするもんだから私は高橋は小突いて蹴っ飛ばしてあっちに行かせようとするんだけど、高橋は高橋でそれがまたじゃれられてるみたいな感じになって、もうホントいや。
頭ガンガンしてるし口の中はカラカラで目覚めた私の眼には太陽はあまりのもまぶしかった午前11時、1限と2限は自主休講ってことになったわけだけど、同じ講義を取っているまどかからなんの連絡もないところをみると、あっちも同じような状態だってことが推測されて代返は期待できないか、全部出席するだけで単位もらえる授業だったのになあ、なんて思いながら振り返る前夜は、結局なんだかんだ盛り上がってカラオケまで行って、朝日の昇るころに帰路についたわけで、そりゃ起きられないよなって思いながら重い体を引きずってシャワーを浴びて、髪乾かしてたらまどかからライン「死んだ?」って来たから「死んだ」って返して「死んだ?」って送ったら「死んだ」って返ってきた。死にそうだ。
午後も一つ講義があって、夕方からはバイトで、選択肢は二つ、大学行ってバイト行くか、大学行かないでバイトだけ行くか、いや三つか、大学もバイトも行かないか、いやそれは無いか、ってシフト表見て思ったのはその日の遅番のバイトは私と島津さんだけで、誰だよこんな無謀なシフト組んだバカは?って軽く憤りを覚えたんだけど、だって最弱の布陣だよ、新人二人だけなんて。私はぐうたらなくせしてなんだかんだ弟いるし、お姉ちゃんだからなのか、変に責任感強かったりして、こんな状況に「ごめんなさい、風邪ひいちゃって、ゴホンゴホン」みたいなことできなくて、むしろホントに風邪ひいてても無理して行っちゃうタイプだから、三つ目の選択肢はちょっとあり得ないわけで、どうにか夕方までには体調を回復させなければならなかったのだ。平気でバイトをバックレたまどかは妹タイプ。
結局、夕方までぐだぐだ過ごしてからバイトに行くことにしたんだけど、ぐだぐだ過ごしてるとあっという間に時間ってたっちゃって、いやまだ二時間あるし、とか思ってたらあと一時間、三十分、とまあ憂鬱のボルテージは徐々に上がっていくくせに心も体も準備はできないまま、私は軽い頭痛が残った頭を抱え、心も体も重たいのを引きずるようにバイトに向かうのでした。
「マジで?真面目過ぎない?私サボるわ」ってのはまどかからのラインで、まあ案の定だよね、この展開。
先に言っておきたいんだけど、私がこれから語ることってなんかちょっとスッと納得できる感じじゃないかもしれない。「いや、お前そんなの嘘だろ」って思われるかもしれない。まあ、自分でもよくわかんないし、それを他人にわかれってのはなかなか無謀なことだと思うし、そうじゃなくても、理解し合うなんてたぶん不可能に近いんだろうけど、それでも語ろうと思うこれは、「嘘だろ」って思われるからこそ真実なんだと思ってもらいたい、って言うか真実なんだけど、どうせ嘘つくならもっともっともらしい嘘つくわけで、わざわざ嘘っぽい嘘つかないじゃん、普通。
私が事務所のドアを開けて「おはよーございまーす」ってなんで夕方でも「おはようございます」って挨拶するのかわかんないけど、とにかくなんかみんなそうしてるから私もそうしてるってだけなんだけど、とにかくダルそうに入って行くともう島津さん来てて、「ん?」って思ったのはなんか食べてたからなんだけど、事務所のテーブルの上にはビアードパパのシュークリームの箱が乗ってて、たまに出版社の人が差し入れとか持って来てくれるんだけど、たぶんそれで、島津さんはそのシュークリームをリスがドングリかじるみたいに両手で持って、で口の端には生クリームついてて、それを見た時、私は恋に落ちた。
いや、わかる。口元に生クリームつけてシュークリーム食べてるおっさんなんかどっちかと言ったら「気持ち悪!」の部類で、私もそういう一般的な価値観ってちゃんと持ってて、なんかわけのわかんないマニアックな趣味とかじゃないんだけど、だからなんでなのかわかんないんだけど、私は恋に落ちたのだ。
たぶん理解されてないだろうなあ。いや、わかるよ、わかる。「いや、そんなことで好きにならないだろ」って思うじゃん。わかるよ、その気持ち。だって私だってそんなこと言われたら「いや、嘘だろ」って思ったもん。だけど、自分がこうして恋に落ちてみると、「いやいや、そんなバカな」なんて思わなくて、たぶん人はどんな時でも恋に落ちる可能性があって、それはなんでかって言うと、たぶん何か重力みたいのがあって、もうホント落とし穴に落ちるみたいになす術もなく落ちちゃうだけで、「なんで落ちたの?」って聞かれても「いや、そりゃ、重力があったから」って答える以外に答えようがない、ってことがあり得るんだと思うし、現に私はそうだった。だから「犬のうんこを踏んずけたのを見て」とか「泥酔してゲロはいてるの見て」とか言われても私は信じると思う、たぶん。
もしも私が理解できないのなら、その人は恋に落ちたことのない人に違いない。恋をしたことがない、なんて言わない。恋を知ってもいれば、愛を味わったこともあるかもしれない。でも、そういうものと「恋に落ちる」ってのは根本的に違うこと、別次元のことなんだ、と思う。それはもうわけのわかんなにことで、ホント突風に帽子が飛ばされちゃうみたいに、もうどうしようもないことなんだ。わかってもらえなくても、まあいいか。理由がいる人は残ればいいさ。
「あ、おはようございます」って島津さんは私に気づいて「差し入れだそうですよ」って私にシュークリームを勧めてくれたんだけど、私は「あ、どうも」ってなんかすごく素っ気なく答えちゃって、それって自分の中で焦りって言うか困惑って言うかなんかそういうのがあって、「え?え?え?」って自分の状態に自分自身で納得できてないって言うか、「あれ、私、この人のこと好きになったかも」ってのと「いやいや、馬鹿かお前は。生クリームついたおじさんだぞ」って平静を装う自分がせめぎあっていて、まあ初めから勝敗は明らかで、だって平静を装う自分も自分だから、自分の気持ちはわかってるわけで、いや、ホントにわかってるのか?自分の気持ちなんてはっきりわかんなくて、自分のだってそうなんだから他人のは?ってなるともう目も当てられなくて、とにかく私はドギマギするだけで「どうしました?シュークリーム、嫌いですか?」なんて島津さんが聞くから「あ、いや、好きです!」って慌ててたせいでやけに元気よく答えちゃって「好き?好きって何が?」って心の中で自問自答して「あ、いや、シュークリーム、好きです」って言ったの、絶対おかしかったと思うんだけど、どう思う?
「よかった、ちょうど最後の一つですよ」って島津さんはそれを私にくれた。
「え?あ?ああ、ありがとうございます」って、まあ平静を装おうとしてるんだけど、なんかドキドキするし、お尻がゾワゾワするし、「あれ?これって恋?」
「何歳ぐらい上?三年?四年?」ってのは私の質問「ねえ、年上の人好きになったことある?」ってのに対するまどかの応答なんだけど、あるかないかだけ答えてくれればいいのに、まどかは完全に私が具体的な誰かを想定して質問しているものだと考えてこうして質問に質問で返しているわけで、まあ実際そうなんだけど、こうなると迂闊な答えは考え物で、私としてはその具体的な話をできる限りしたくないのだけれど、まどかは絶対にそれを知りたいだろうし、そうなると変な答え例えば「いや、もうちょっと上かな?」とか答えたら、もう完全に私の頭の中に具体的な誰かが想定されているのがバレバレなわけで、それって最悪の答えなんだとこうやって冷静になって考えればわかるんだけど、「うーん、もうちょっと上かな」って答えたのは私。
「え、誰?どこで知り合ったの?バイト?」って畳みかけられて、「いや、うん、まあ」なんてあいまいな答えをするしかなくて、「え、何歳?社会人?どんな人?」ってもうこれは完全にまどかの好奇心に火がついちゃってて、簡単には消せない感じで、
「二十代後半くらい?」
「うーん、そのくらいかな?」って答えはまあいいじゃない、それぐらいで。
「三十代?」
「くらいかな?」
「ふーん」ってまどかは目を細めて私を見つめるんだけど、いやそんなわけあるはずがないんだけど、その視線に見られるとなんだか私の心の奥を見抜かれそうで落ち着かなくなった。
「その人独身?」
「へっ?」って私は素っ頓狂な声を上げたんだけど、そんなこと想定をしていなかったし、考えもしなかったことだからで、「そうか、確かに結婚しててもおかしくないし、子供がいたって全然不思議じゃない歳だよな、四十二って」って思ってなんだか急に体が冷えてきたって言うか、冷たい汗が噴き出てきたんだけど、すぐに私は自分を鼓舞して、「いやいや、でもバイトしてるんだよ?そんなんで結婚なんてできる?夫婦で生活できる?家族養える?」って島津さん独身説に有利になる状況証拠をわたしはかき集めたんだけど、すぐに反対尋問があって「いや、もしかしたら奥さんが稼いでるのかもしれない。財産があるのかもしれない。バイトだからって結婚できないなんてことある?そんなの時代遅れの考え方じゃない?」、ふむ確かに。私は窮地に追い込まれた。その間約一秒、私の脳内でこの裁判は一瞬で行われたわけだけど、裁判官は判決を持ち越し、だってすべてが状況証拠でしかなくて、答えなんて出せないからだ。
「指輪はしてなかったと思う」
「そういうのが一番危ないんだって」ってお前は何者なんだ?
「危ないって?」
「結婚してても、指輪してないやつなんて一杯いるよ。でさ、こっちが好きになってから『実は結婚しててさ、子供もいるんだ』みたいなカミングアウトがあったりするんだよ」
「カミングアウト」
「カミングアウト」
そんで、まどかは遠い目をして「牧野さん、どうしてるかな」って呟いたんだけど、誰だよ!
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいせー」
「らっしゃっせー」
って感じでもうお客さん入ってきたら反応して「らっしゃっせー」って言うマシンみたいにそれまでの私はなってたんだけど、これが島津さんと一緒にレジに入るってなると変わって、もうシフト表を隅から隅まで確認しちゃって、島津さんと二人だけになるとこないか探して、数えるくらいしか無くて、なんだよ誰だよシフト組んだやつ、って頭に来るんだけど、もう私のバイトはその日のためにあると言っても過言じゃないってくらいで、「ああ、今日は島津さんと一緒だ」ってウキウキしちゃうってのはもう完全に恋。
「いらっしゃいませぇ」私のベストの声が出る。表情もにこやか、店員の模範って感じで。
で、お客さんも大分減ってきたなあ、ってくらいになると、私は少しずつ話し掛けるんだけど、それはもう名探偵みたいな感じで、島津さん独身説に有利な証拠を探して、さらに言えば結婚してないだけじゃなくて、恋人もいないって証拠も探すわけだけど、単刀直入に聞けばいいじゃん、って思うかもしれないけど、「あの、島津さん、結婚してますか?恋人いますか?」なんて聞けなくない?「は?何、こいつ?」ってならない?いや、島津さんはそんなこと思わないかもしれないけど、「なんでそんなこと聞くんだろう?」くらいにはきっと思うし、その先の答えってもう最後の答えだし。
「休みの日とか何してます?」
「うーん、たまった洗濯物とかですかね。あんまり出掛けたりはしないです」
む、これは独り暮らしってことじゃないか?結婚はしてないんじゃないか?
「菊池さんは?」
「サークルですね。テニスサークルなんです。下手くそですけど」
「いいじゃないですか、テニス」
「テニスやったことあります?」
「いや、運動音痴なんです、ぼく」
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませえ」
「私も運動ダメなんですよ」
「本当ですか?菊池さん、運動できそうなのに」
なんだろう?頭悪いんだから運動くらいはできるだろ、って思われてるのかな?
「そうですか?いや、全然っすよ」あ、なんか可愛くない感じで言っちゃった。「ホント、全然ですよ」
「ぼくなんてスキップできませんよ」
「えー、本当ですか?島津さんそんな風に見えない」
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませえ」
ピッ。「六〇〇円です」
「はい、ちょうどいただきます」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
至福の時、と言ったら言い過ぎ?言い過ぎかな?でも、私としてはこんな他愛もない会話が幸せで、いや何が面白いのか全然わかんないけど、とにかく島津さんとこうして言葉のキャッチボールするのが楽しくてドキドキしちゃって、最初考えてた島津さん独身説の証拠探しなんてどっか行っちゃって、以下は恋に落ちた役立たずのスパイである私の集められた島津さんに関する情報。
島津さんは東京出身である。
島津さんは休日家事をする。
島津さんは運動音痴でスキップができない。
島津さんは美術系の大学を出ている。
島津さんは服をだいたいユニクロで買っている。
島津さんはカレーライスが好き。
「ホントですか?私美味しいカレー屋さん知ってますよ」って言ってから、「あ、これトス上げた感じになっちゃってるじゃん、スルーパス出した感じになっちゃってるじゃん」って思ったんだけど、「本当ですか?今度一緒に行きませんか?」みたいな返しがしやすい感じになっちゃってて、どっちかと言えば私は「あ、しまった」って感じで、だってそのトスをアタックされなかったらどう?パスをシュートしてもらえなかったらどう?脈無しな感じじゃない?
「どこですか?」って言う島津さんの目はきらりと怪しい光を放ち、「あ、これホントのカレー好きだ」って私は身震いしながら思い、島津さんは本気でそのお店の所在地を知りたがっているようで、こりゃもしかしたら次の休日にでも一人で出かけるんじゃないかって感じなんだけど、あいにく私の言ったのはテキトーな嘘でして、私あんまりカレー食べないし、どっちかって言うとラーメン派で、美味しいカレーのお店なんて知らないし、なんでそんな嘘ついたんだって話なんだけど、いやもうリズムって言うか、口をついて出ちゃった感じで、冷や汗がどっと吹き出して、「えっと、うーんと」みたいな感じにしどろもどろになっていたところにお客さん。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませえ」
お客さんから雑誌を手渡されても私はなんだかふわふわした感じで、頭の中は高速回転で解決策を模索してるんだけど、その高速回転もただやみくもに高速回転してるだけで全然何も巻き付けないし、進みもしないし、解決しないわけで、嘘だったことをごまかしながら告白しようかと観念したところで「ありがとうございました」ってお客さんは去って行き、私の口から出たのは「今度一緒に行きませんか?案内しますよ」というもので、「えっ?こいつ何言ってんの?」って思ったのはむしろ私。
「いいですね」って微笑んだのは島津さん。
「ねえ、美味しいカレー屋さん知らない?」って私は学食のからあげカレーにスプーンを入れようとしているまどかに聞いたんだけど、冷静に考えてまどかに聞くのは間違いで、なぜってまどかは空前絶後の味音痴で、学食のカレーが世界一美味しいって思ってる時点で聞くだけ無駄なのはわかってるんだけど。
「は?カレー?なんで?あんたカレー好きだっけ?」って言うまどかは「ははーん」みたいな顔つきして、たぶん私がどういう事情で聞いてるのかお見通しなんだろうけど、この際そんなこと知ったことかってのがその時の私のスタンス。だって、千載一遇のチャンスじゃないか。これを逃す手はないわけで、そりゃ藁をも掴む勢いでまどかにだってすがりますよ。
「高橋に聞いてみれば?」
「えー、なんでー?」
「あいつカレー好きじゃん」
「そうだっけ?」
「それに、地元だし」
高橋は顔がちょっとあれなくせに東京出身なのだ。東京って言っても都下だけどね。って言っても私が住んでるのも都下だけどね。
「は?カ、カレー?」って高橋。「菊池、カレー好きだっけ?」
「いいじゃん、別に」あーあ、こいつに聞くんじゃなかった、って私は後悔した。どうせたいした情報なんてなさそうだし、高橋だし、って私は早々に切り上げようとしたんだけど、「まあ、何軒か知ってるけど」って高橋は言う。私は半信半疑の眼差し。
「どこ?」
「どこがいい?」
「どこがいい?って?」
「なんかないの?こういうとこがいい、っての」
そんなに何軒も知ってるのかよ、って私はまた半信半疑の眼差し。「まあ、お洒落な方がいいかな」
「じゃあ、吉祥寺だな」って高橋即答。ホントかよ。高橋のお洒落を果たして信じていいものか。まあ確かめてお洒落じゃなければ却下すればいいし、って私は思った。「いつ行く?」
「は?」
「いつ行く?」
「は?」こいつ何言ってんだろう、って私は思って、なんか勝手に一緒に行くみたいな雰囲気になってて、いやいやそんなことは一言も言ってないじゃん、って思ったんだけど、「いや、わかりづらいとこにあるから。菊池絶対にたどり着けないから」って高橋は強く主張、「いや、ググればわかるだろ、せめて店の名前教えろよ」って私は思ったんだけど、なんかもう埒があかなくて、高橋はスケジュール帳出して予定確認してるし、「今度の土曜日は?」
「まあ、ひまかな」としか答えられない自分を呪いたくなった。いや呪ってやる。呪おう。
「菊池、乗り換えとかもどうせわかんないだろ?」ってことで最寄りで待ち合わせすることになったわけだけど、馬鹿にすんじゃねえ!乗り換えぐらいわかるわ、グーグルで検索するわ!ってのど元まで出かかったんだけど、サークル合宿の集合場所がわからないで私とまどかが新宿駅をさまよい、結局バスに乗り遅れたのは周知の事実だったわけで、私は何も反論できないし、グーグル先生に全幅の信頼を置くのも考え物だし、ってか場所わかっても実際そこにたどり着けるかどうかって確かにあるよね、不安として。
私が指定された改札に行くと、高橋はもう来ていて、馬鹿のくせに何か本読んでて、私はうっかり「なに読んでんの?」って聞いちゃって、「あ、やべ」みたいな顔した高橋を私は見逃さず、なんか変なの読んでるなって思った私は高橋とちょっと格闘して高橋の手の中にあった文庫本をひったくり、そのカバーを外すと「あ、春琴抄」
「なんだよ」って高橋は恥ずかしそうな顔してて、「え?なんなの?気持ち悪」って私は思って、こりゃまどかに絶対に報告しなきゃならんなって心の中で思ったわけだけど、高橋が「行くぞ」ってスタスタ行こうとするから「ちょっと待ってよ」って私が追いすがる羽目になって「なんだよ、お前が一緒に行くことにしたんだろ」って私は腹の底で毒づいたのでした。
道中高橋はずっと無口で、なんかつり革掴んで並んで立ってんだけど赤の他人みたいな感じで、沈黙が気づまりな気がして「なんか話そうかな」みたいに話題の糸口みたいなもの探して、って言っても天気のこととかサークルの人のこととか当たり障りのない話題なんだけど弾まない弾まない、で、「いや、そもそもなんで私がそんな気を使わなきゃなんないんだ?」ってことで私は黙ってることにした。私が黙ると、高橋はチラチラとこっちの様子を窺ってる感じで、いや何がしたいんだよ、お前は?って感じで、気付くと吉祥寺。いや、これ私ひとりで来られるかな、って一抹の不安は気付かれないように隠して、駅出てもたいして会話無くて、いや会話無いことこんなに強調すると私が会話したがってたみたいなんだけど全然そんなことはなくて、会話なんてなくてもいいんだけど、でもせっかく二人で行くならちょっとくらい会話があってもいいと思うし、なんか「え?なんか高橋怒ってる?」みたいな不安が涌いてくるし、いや高橋が怒ってようとどうでもいいっちゃいいんだけど、それでもなんか気になるのよ。女心。
それにしてもホント東京の人混みって祭りの日みたいで、祭りってのはうちの地元の祭りのことで、地元だとこんなに人が出るのなんて祭りの日ぐらいであとは閑散としてて人と肩がぶつかりそうになるなんてありえないんだけど、土曜日の吉祥寺の込み具合は尋常じゃないと思うんだけど、どうなの東京人?って東京出身高橋はスタスタ行っちゃうし、私は必死でそれ追いかけて、どうにか背中を見失わないように頑張ってるとそれは急に止まって、「ここ」って高橋。
「ここ?」
「うん、ここ」
なんか薄暗い地下に行く階段、なんか確かにお洒落っぽいけど、ホントに大丈夫か?って私は相変わらず半信半疑、高橋は「行こうぜ」って階段降りてく。
「結論から言うと、確かにお洒落だったしカレーもおいしかった」って私は学食でまどかに報告したわけだけど、学食のからあげカレーが世界一美味しいカレーだと考えるまどか嬢はカレーの味になんか興味が無いご様子で「ふーん」って感じで、「で、どうだった?」って聞くんだけど。
「どうだった?って?」
「いや、高橋と出掛けて」
「いや、それなんだけどさ、あいつ全然喋んないんだよ。電車の中とかで」
「ふーん」
「あいつなんか怒ってたのかな?」
「怒らすようなことしたの?」
私はフル回転で記憶を辿ったけれど、全然そんな心当たりなんてなくて、いやもしも高橋が何か怒ってたんなら完全にとばっちりだし、いや待てよ、カレー食べる時とか普通だったし、怒ってる風じゃなかったと思うし、なんかこっちチラチラ見てる視線感じるから見るとそっぽ向いてるし、まあ全体として言えるのはわけがわかんないってことだ。
「ふーん」ってまどかはニヤニヤしてるんだけど、私はまどかがニヤニヤする理由が全然わかんなくて、「何?」って聞くんだけど、まどかは「別に」ってカレー食べはじめて、私はなんだか釈然としない気持ちと一緒に取り残されたのでした。まどかは相変わらずニヤニヤして、「なんなの?」って私。
「あれじゃない?」
「どれ?」
「高橋、あんたのこと好きなんじゃない?」
「は?」なんで?「なんで?」
「なんとなくよ、なんとなく」ってまどかは言って、なんだよお前恋愛マスター気取りかよ、って私は内心ちょっと憤って、で、冷静に高橋のこと考えて、「いやいや、それはないだろ」って否定して「あ、高橋」ってまどかの声にビクッとして振り返っても高橋いなくて、まどかが
声を上げて笑うに及んで私がキレると「ゴメンゴメン」ってまどかは謝った。「冗談だよ、冗談」
「な、なんか俺のこと呼んだ?」って声に驚いたのは言うまでもないだろうけど高橋が背後にいたから。
「よ、よお」って高橋は片手を上げる。
「うん」って私なんか恥じらってるみたいな返事。いや、違うんだよ!まどかが変なこと言うから、まどかが変なこと言うから、ってその当のまどかはもう笑いを堪えてるし、いやなんか気まずくて「何?」って私はつっけんどん、仕方ないでしょ。
「い、いや」ってホントこいつはよくわかんないな。「こ、こないだのカレーどうだった?」
「美味しかった、し、お洒落だった」って私が言うと、高橋は「そっか」って言って「俺、授業あるし行くわ」ってあいつは何がしたかったんだろう、って首を傾げる私を見て、まどかは「青春だねえ」って呟いたんだけど、あんた何者?
島津さんは今はやりの塩顔男子だと思う。いや、おじさんに男子ってどうなのよってことだけど、まあ塩顔おじさん、ってのもどうなのよ、って話で、とにかく一重もしかしたら奥二重の目は涼しげで、鼻筋もなんだかんだ通ってるから男前と言えば言えなくもない。髪は短く清潔で、服装もユニクロの持っている能力を最大限に引き出してる感じで、え?悪口みたい?誰に対する?全然悪口なんかじゃなくて、なんて言うかすごく様になってるって感じで、それはなんだかんだ結構スタイルがいいからなんじゃないかな、って思うんだけど、結構背があって手足もヒョロっと長いから、たぶんだいたい何を着てもいい感じになるんだと思う。高橋みたいなちんちくりんだと何着ても似合わないって言うか、着せられてる感出ちゃうんだろうけど。いや、まあ高橋はどうでもいいか。
私はレジで島津さんの指に見とれるんだけど、それはどういうことかというと、私がお金の受け渡し担当してると、島津さんが雑誌を袋に入れたり、本にカバー付けたりするんだけど、その時の指の動きがすっごく滑らかで、で、その指もほっそりしててすごくキレイで、お釣り渡すの忘れてお客さんに怒られるってのもしばしば、私は不器用だから、もう完全に島津さんに追い越されちゃったって感じで、ポジションチェンジして島津さんがお金、私がカバーや袋つてなるともうドタバタ騒々しいこと、カバーを落としたり、袋二枚出しちゃったりで、忙しい時間帯だったりするとレジがどんどん散らかっていっちゃうのでした。トホホ。で、島津さんは文句のひとつも言わず、一緒に片付けてくれて、「大丈夫ですよ、そんなに焦らないでも」って言って微笑み、きゅん。私はバカになってた。いいかね?恋に落ちたら誰でもバカになるんだ。肝に銘じておきたまえ。
相変わらず私は仕事ができなかったし、他のバイトの人たちとはなんかなじめないって言うか、ちょっと距離があるまんまだったけど、なんだかんだ辞めずに続いていたのはただ単にそこだけが島津さんとの接点になっていたからで、なんかもうバイト行く目的はお金稼ぐことじゃなくて島津さんに会うことみたいになってて、急にシフトに穴が開いちゃった時とか、島津さんが入ってるってなると私はすぐさまその穴埋めに立候補するものだから、周囲の評価としては私が少しでも多く働いてお金を稼ぎたいと思ってるか、すごく仕事熱心かって感じだったんだけど、実際のところはそういうことじゃなかったんだよね。シフトの希望を出す時も、島津さんの出勤の傾向を考えて、なるべくそれに被るように出して、そうして私の涙ぐましい努力の甲斐あってか、私と島津さんの中は急速に深まっていったのでした。ごめん、嘘ついたわ。全然深まらなかった。いや、仲良くはなっていったんだと思うけど、それは他のバイトの人たちもそうで、島津さんは誰に対しても優しくて礼儀正しくて、気が利くし朗らかで、まあきっと島津さんを嫌う人なんていないだろうし、もしもそんな人がいたとしたらそれは相当性格のねじ曲がった人なんだと思うけど、そういうわけで、私だけが特別仲良くなった、ってわけじゃなくて、私だってどうにか仲良くなろうとするんだけど、深めようとするとドアが出てくるって言うか、なんて言うか、「聞けないこと」があって、「結婚してんすか?」とか「恋人いるんすか?」とか「なんでバイトしてんすか?」とか「ここで働く前何してたんすか?」とか、聞きたいけど聞きたくないし聞きづらいし聞けないことのドアがあって、ドアノブに手を掛けるんだけど、それを回す度胸がないって言うか、回して開かなかったらショックだし、開いちゃったら開いちゃったで私はきっとてんぱるだろう、ってことで聞けずにいて、そうなるとなんかふわふわした話しかできなくて、全方位クッションに囲まれたみたいな安全地帯にいるじれったい私の心を誰かとかして。
で、私が手繰り寄せた糸口がカレー屋さんで、いや実際に誘うとなるとすごい緊張して「え?何のことですか?」って忘れられてたりしないか、「ああ、本気にしてたんですか?」って言われたりしないか心臓バクバクなんだけど、躊躇わすのも恋なら背中を押すのも恋、「あ、あの」って私は意を決したわけだ。「前に話したカレー屋さんなんですけど」
「菊池さんが知ってる美味しいカレー屋さんのことですね」って島津さん、少なくともちゃんと覚えてくれてたってだけで、ちょっとホッとしたし、出鼻くじかれて「え?ヤバイどうしよう」なんてならなかっただけでもとりあえず一安心だし、話が進められて「今度の土曜日、どうですか?」って私。島津さんのシフト空いてる日なのは島津シフトを敷く私には周知の事実、「すいません、土曜日はちょっと用事が」って答えに私は「ガーン」って感じで、「え?なんだろ?予定って」って様々な想像が頭の中をグルグル回っててフリーズ状態。「あ、これ断られるのかな」って思ってると、「菊池さん、日曜はサークルですか?」って聞かれて、「いえ、空いてます」って即答。「あ、サークルじゃん」って頭の中で思ったけど、別に私がいなくてもサークルは誰も困らないじゃん。
私たちがバイトする本屋のある駅を待ち合わせ場所にしたのは考えてみれば結構リスキーだったわけで、なぜってそりゃ他のバイトの人とか社員さんに見られるかもしれないわけで、そうなると「あの二人休みの日に一緒に出掛けてたぞ」ってなるとあらぬ疑いを掛けられそうだけど、いやまあ疑いを掛けられたところで私としちゃ本望で、って言うのは別にそこを待ち合わせ場所にした理由ではなく、そうした方が長く一緒にいられるっていう魂胆で、そのまあせいぜい一時間の電車での移動時間だって私には惜しかったからだし、いつも遅刻ばかりの私が一時間も前に到着していたのもおんなじ理由からってのと、なんか家にいてもそわそわしちゃって何も手につかなかったから。
早めについた私、街の人込み肩がぶつかってひとりぼっち、逃げ込んだのは改札近くにあったスタバで、いや相変わらずコーヒーは苦手だから頼んだのはキャラメルフラペチーノなんだけど、私スタバってちょっと苦手で、あのショートとかトールとかってなんかわかんなくて頼むの不安だし、もっと苦手なのはサブウェイで、一度まどかと一緒に行ったけど、たぶん私一人で行くことは一生ないだろう。苦手なスタバにワザワザ入ったのは改札が近くてここなら島津さん来たらすぐに気付けるって思ったのと、ちょっとおしゃれな私を演出したかったから。いや、スタバにいるだけでお洒落か?って思うかもしれないけど、私は浅はかなんだ。スタバでコーヒー飲みながらマックいじってると、なんかお洒落じゃない?いや、私マックなんてもってないし、パソコン苦手だし。私にできる最大限はキャラメルフラペチーノに文庫本、まだ読んでたのよ『春琴抄』。本読むのって苦手で、あんな薄い本でもすっごい時間かかっちゃって、一行を上から一番下まで読んで、次の行に行かなきゃなんないのにまた同じ行読んじゃったり、漢字がわかんなかったり、寝ながら読んでたら寝落ちして本落っことして、どこまで読んだのかわかんなくなったり、それでもちょっとずつ、私はそれを読んでいた。もう完全に意地って感じで、これっぽっちも面白いなんて思ってないし、眠気を誘う睡眠薬みたいなものなんだけど、ここまで来てやめるのももったいないみたいな、変なもったいない精神みたいなのを発揮しちゃって、私ってなんかそんなところがあって、どうにかこうにか読んでたんだけど、全然春琴にも佐助にも共感できないし、そうなると全然読むの進まないし、進まないとつらいし、つらいと読みたくなくなるんだけど、そこでどうにか私は踏み留まって読み続けていたのは、やっぱり島津さん、島津さんとの話題にできるから、ってその一点だけ。
でも、本には全然集中できなくて、時計ばかり気になって、時計みて改札の方みて本にみてみるけど時計が気になって、ってのを何回も繰り返して、やっと文字に集中し始めた時に肩を叩かれた。
「あ、おはようございます」って十一時でもうすぐお昼なのにも関わらず私が言ったのはバイトの時の癖なわけで、島津さんも「おはようございます」って返したからなんかバイトの事務所みたいな変な感じだったんだけどそこは間違いなくスタバで「待ちましたか?」って島津さん。
「あ、いや、私もいまきたところです」って答えたんだけど、じゃあ残りわずかなキャラメルフラペチーノは来て一気飲みしたの?って感じだし、なんか自分の口をついて出た台詞「いまきたところです」ってなんかホント下手なお芝居の台詞みたいでちょっと笑えた。
「何読んでるんですか?」って島津さんは私に尋ねたんだけど、これはまんまと罠にはまったと言ってもいいんじゃない?私はそのパンチが来るよう仕向けてて、おびき寄せて、カウンターを打つボクサーみたいな感じで、読んでいた文庫本のカバーとって島津さんに見せた。
「あ、『春琴抄』」って島津さんは言って「どうですか?」って私に聞いた。
私たちは切符を買って電車に乗っていたんだけど、私的には乗り換えが心配で、何度も路線図確認してたんだけど、島津さんは東京の人だから、むしろ島津さんについていった方が良さそうで、実際二度の乗り換えもほとんど島津さんに教えてもらう感じ。電車の中、つり革に掴まって並んで立って、私はチラリと島津さんの様子を窺う。窓の外を見てる島津さんの顔は、年相応の皺が刻まれてて、最初一緒にレジに入った時にはなんだかちょっと引いちゃったけど、その年相応の肌質もまた島津さんの一部で、それも含めて私は好きになったって言うか、それも島津さんなんだと私は思う。そうして顔を見ながら、私は何か話そうかな、って思うし、何か話したいって思うんだけど、なんか二人きりってシチュエーションにドキドキしちゃって、何を話せばいいのかわかんなくて、「いい天気ですね」みたいな当たり障りのないこと話そうか考えるんだけど、それが正解なのかわかんなくて一歩が踏み出せずに、いや『春琴抄』の話があるじゃん、って思うんだけど、カウンターを狙っていたと言っても、それについて私に語れる内容が果たしてあるだろうか、って考えながら島津さん見てたらたぶんその視線に気付いたのかこっち見られて、私はびっくりして恥ずかしくてサッと視線を外したんだけど、「あれ?感じ悪かったかな?」って思ってそっと島津さんの様子を窺うんだけど、とりあえず気を悪くしたみたいな感じは無くてちょっとホッとしたりしているうちに乗り換えの駅に着いた。日曜の駅は結構人が多くて、島津さんが先を歩いてくれているのを私は追いかけてたんだけど、時折島津さんは後ろを振り返って、たぶん私がちゃんとついてきてるか確認してたんだと思うんだけど、その度私は「大丈夫ですよ」って思いを込めて笑みを浮かべるんだけど、ちゃんと伝わってるかな?
ホームで電車を待つ。並んで立ってる私たちってどういう風に見えてるだろうか、ってふと頭をよぎって、もしかしたら親子に見えてたりするのかな、って思って、なんかちょっとおかしいし、悲しくなって、だって、私は島津さんが好きだから。恋人同士に見えないって、ちょっと悲しいけど、まあどうでもいいか。電車がなかなか来ない、さすがに沈黙が気まずい、私は横目で島津さんを窺い、島津さんは次の電車がいつ来るのか電光掲示板を見て、腕時計を見て、そして私の視線に気づいてこっちを見て、私は全然身構えてなかったからばっちり視線が合って、バキューンって感じで、島津さんは微笑んだ。
「来ませんね」
「来ませんね」
沈黙。電車が来るって言うアナウンス。
「来ますね」
「来ますね」
電車が来て、私たちの前に滑り込んでくる。
「『春琴抄』面白いですか?」って島津さんは電車がもう少しで止まりそうな時に私に尋ねて、ぷしゅーってドアが開いた。
電車に乗り込んだ私は「うーん」って答えに窮した、だってちゃんと理解できてるのか不安で何か感想を求められてもなんも言えないし、なんか見当外れなこと言ったら恥ずかしいし、そんな恥を島津さんの前でかきたくないし。「なんか難しいです」
「ははは」ってつり革に掴まった島津さんは笑って、「え?バカにされてるのかな?」って思ったんだけど、「ぼくもそう思います」って言って「なんだか難しいですよね。わかります」って言ってくれて、そう言ってもらえて私はなぜかホッとして、それで素直に自分の感じたことが話せるようになった。
「春琴も佐助も何考えてるのか全然わかんないんです。共感できないって言うか」私たちの前に座ってたのは大学生風のカップルで、二人ともスマホいじってて、いやもしかしたら別にカップルじゃないのかなって思ったら喋ってたからたぶんカップルなんだろう。「佐助は春琴のこと好きなんですよね?たぶん。でも、なんで春琴のこと好きなんだろうって、全然わかりません。好きなんだろうってのはあれじゃないですか、目刺しちゃうじゃないですか、針で。でも、好きでもそこまでするかな?それに、春琴無茶苦茶冷たいじゃないですか、佐助に。それなのに佐助は春琴が好きって、全然理解不能ですよ」カップルの女の子の方が自分のスマホ男の子に見せてなんか笑って、で私と目が合った。「もっとわかんないのって春琴ですよね。春琴って何考えてんのかな?」私の前に座ってるカップルはなんだか楽しそうで、なんか無性にムカついて、「どうせお前ら春琴抄がなんかのショーだと思うんだろ」って心の中で毒づいて、私は一つ息をついて島津さんを見た。島津さんは両手でつり革を掴み、それに体重を預けるみたいに背中を丸くしてたんだけど、それは島津さんの身長だとたぶん外がよく見えないからで、島津さんは外を見てて、「あれ?私の話聞いてなかったのかな?」って私は思ってちょっと不満で、そのまま島津さんの横顔、その上に窓の外を流れる景色が作る陰影みたいなのを見てたんだけど、「そうですね」って島津さんは何か決心したみたいに言って「あ、良かった、無視されてなかった」って私は思い、そして島津さんは言った。「でも、たぶん愛ってそんなものなのかもしれません」
愛、って何年生ぐらいで漢字を習うんだろう。でもたぶん、小学生のうちには習ったように思う。ってか愛って言葉ってすごくありふれててどこにでも転がっててテレビつけたら西野カナあたりがそれについて歌ってるんだろうけど、それを自分で発音したことなんてないし、まして実戦で使用したこともない。「大好きだよ」みたいなことは真一君に言ったことがあるかもしれないけど、「愛してる」なんて言ったことないし、なんか想像しただけでもむずがゆくなってくる。その言葉が、島津さんの口からすんなりと出てきて、それもそこには西野カナ的なドラマティックな何かとか「昼顔」的なドロドロみたいな何かは無くて、私が体重を預けてる電車のつり革とおんなじくらい確かな現実として、それは現実と地続きのものとしてそこにあって、「愛」って言葉がこれほどリアリティのあるものなんだってことを私は初めて知ったんだけど、考えてみれば島津さんは私なんかよりもはるかに人生経験豊富なわけで、そうなるとその言葉を誰かに向かって口にしたことがあるのかもしれなくて、いやきっとあって、だからこそあんなに滑らかにそれは島津さんの口から出てきたわけであり、いやそんな当然なことで別に落ち込んだりはしないし、やきもち焼いたりもしないし、ただなんか自分と島津さんの差みたいなものがありありと現れてて、それがすごく嫌になった。島津さんはすっごく海の深いところまで潜ったことがあるんだけど、私なんて幼児用プールでバチャバチャやったことがあるだけで、そんな私が「好きです」とか言っても、「は?」みたいな感じなんじゃないか、いやそうだ、そうに違いない、って思って、私は初めて自分と島津さんの年の差を呪いたくなった。強がりかもしれないけど、私は島津さんとの年の差って全然気にしてなんかなかったし、それこそ「は?だからなに?」って感じだったんだけど、
「愛ってなんだろう?」って私がラインしたのはまどかじゃなくて遠く離れた地元の美紀で、それはまどかになんかそんな話したら完全に「ははあーん」みたいな顔されるのが脳内麻薬分泌されちゃってる私にもわかって、そうなるとどんな詮索されるかわかんないし、私がどんなボロ出すかもわかんないからで、その点美紀なら安心で、まあやっぱり遠くにいるし、あんまり詮索したりしないし、勘が悪いって言うか、私にある程度気を使ってくれるって言うか。
「は?どうしたの?なにがあったの?」ってまあ普通そうなるよね。
「まあいいじゃん」
で、既読ついてしばらくたっても返信来ないから、こりゃまた既読スルーかな、って思ってお風呂入ってたら返信来てた。
「たぶん、それはそれを手に入れた人にしかわからないんだと思う」って来てて、「お、ポエマー美紀の本領発揮か?」って私はちょっとわくわくしたんだけど、次の言葉を見て私は愕然とした。「私、来年結婚する」
そ、そこに愛はあるのかい?
「はあ」って私がため息ついてると、「なんかあった?」ってまどか、まあ、勘がいいってのも悪い時もあればいい時もあるわけで、「いろいろね」って私は答えて、「ふーん」ってまどかはどうにも聞きたそうで、私は「ねえ、愛って何だろうね?」って結局思い切って聞いたわけだ。
「飲みに行くか」ってまどかは私の肩を叩き、「は?なんで?」って私は聞いて、「なに?ふられたんじゃないの?」ってまどか、
「いや、ふられてないし」
「じゃあなんで愛がどうのこうの言ってんの?なんか変なもの食べた?」
「食べてないよ」って私はため息。ああ、こいつになんか相談するんじゃなかった。
まどかは「ふふふ」って笑って、「いいかい、玲くん」って言って、まるで先生みたいで「愛が何か悩むのは愛を知ってる人だけなのだよ」って、いったいあんたは何者?
とはいえ、それが私のなんか喉のあたりでつっかえてたものを溶かしたってのは否定ができないし、なんだかんだまどかに感謝せざるを得ない感じで、だって確かに私は愛を持ってて、持ってるって言えて、そう言っても全然違和感なんかなくて、
私は髪から水滴を滴らせながら玄関に立っていて、島津さんは「ちょっと待っていてください」ってバスタオルを持ってきてくれて、それは島津さんの匂いがして、たぶん使ってる柔軟剤の匂いなんだけど、その匂いって私にとっては島津さんの匂いで、もうむしろその匂いこそが島津さんって感じで、バスタオルを頭からかぶって濡れた髪を拭いてるとまるで頭から島津さんに覆い被されてるみたいな気分になった。
私は高橋の肩に頭をもたれかからせたのだけれど、自分でもホント最低だと思うし、事実最低だし、呪われてもぶん殴られても仕方ないと思うけど、私のズルいところは高橋は決してそんなことをしないだろうということが分かっていてそんなことをしているってことで、つまるところ、高橋はきっと私のことが好きなんだって私はちゃんとわかっていて、それでいてわかってないふりをしていた。私はわかっていた。高橋なら、私の体操着を盗むかもしれない。盗んで、匂いを嗅いで喜ぶかもしれない。匂いを嗅ぎながらオナニーするかもしれない。私の裸を妄想したり、私とセックスするのを想像したりするかもしれない。そんなこと全部わかってた。わかっていながら、泳がせていた。どっちつかずの態度を取って、って言っても、気を持たせることなんてしなかったと思う。いや、わかんない。もしかしたら、私の全ての態度は気を持たせるような素振りだったのかもしれない。
高橋はもぞもぞと動いていて、これはたぶんあれだな、キスしようとしてるな、ってわかって、私はそれとなく体勢を変えて、高橋にとって絶好の状態を、サッカーだったらキーパーも抜いちゃうようなスルーパスを、バレーボールだったら完璧なトスを上げた。高橋が不器用に動き、私の唇に自分の唇を重ねる。で、それで?高橋は戸惑っていた。それから何をすればいい?そのまましばらくそうしていたから、唇を縛られた私は息が詰まって、鼻から吐息と思えもなくない息が漏れた。高橋はそれが何かの合図だと思ったのか、それとも単に動物的に反応したのかはわからないけど、私の唇の隙間から舌をねじ込もうとしてきた。きっとAVビデオで見た知識とかなんだろう。私はなんだか無性に腹が立ってきた。全てが憎かった。先生もヨーコさんも、高橋も、東京も、町田も、何もかもムカついた。バイトも大学も、全部ムカついた。世の中にいる全ての男と全ての女がムカついた。ベロチューもセックスも全部全部ムカついた。自分の体を引き裂いて、ビリビリにして、屑籠に投げ込みたい気分だった。
私は思いっきり高橋を突き飛ばした。高橋は呆気に取られていた。
「ごめん」高橋が謝る。
「謝るな!」私は怒鳴った。悪いのは私だ。全部私が悪いんだ。
「ごめん」高橋はまた謝った。涙が出てくる。必死で止めようとしたけど止められない。
「俺」高橋は言った。「菊池のこと、好きだ」
「え?」
「菊池のこと、好きだ」高橋は声を張って言った。「好きだ」
「うるさい!」私は怒鳴って、また高橋は突き飛ばした。「うるさい!うるさい!うるさい!」
「好きなんだよ」高橋は叱られた犬みたいな表情でそう言った。
「知らないよ!」私は涙を袖で拭いた。「勝手に好きにならないでよ」
「す、す、好きになるのは、勝手だろ」高橋は口を尖らせながら言った。
「うるさい!」私は怒鳴った。「お前どうせあれだろ、私とセックスしたいだけなんだろ!」
「ち、ちげえよ!」って高橋。
「違うなら言ってみてよ」って私は言って「違うなら私のどこが好きなのか言ってみてよ」
高橋は唇つんと尖らせて「ぜ、全部だよ」って言ったんだけど、全部?全部なんて答えになる?って私は思って、そんな答えはこの場をやり過ごすためのものでしかないみたいに思えて、なんか腹が立って来て、「そんなの答えになってないじゃん!」
「全部は全部だ」