「はじめのラジオ講座」第二回 ひとりの子どもがラジオ好きになるまで 加藤はじめ
かつてシネマ三銃士でディレクターをしておりました、はじめです。
読者の皆様の中には、ラジオに対して
・マスメディアのひとつにすぎない
・終わったコンテンツ
など漠然として、ネガティブなイメージをお持ちの方もいらっしゃるかと思います。
ですが、ラジオはこれからもしぶとく生き続ける、ラジオの"居場所"は永遠にありつづける、と私は考えています。
そんな私がラジオ好きになるまでの話をさせていただきます。
0.ラジオに触れるまで/環境
・未就学児時代~車中では、父がいつもラジオをかけていた~
1990年代、父の運転する車ではいつもラジオが流れていました。オリジナルのカセットテープではなく、ラジオです。
放送局はたいていTFM(TOKYOFM)。
車で出かけるのはもっぱら週末だったため、COSMO POPS BEST 10や(yumingの)サウンドアドベンチャーのジングルが、今でも耳に残っています。
小学校に入学する頃まで、ラジオは車で聞くものと思っていました。
母の友人宅に遊びに行ったとき、家のオーディオ(今思えばバブリーなステレオコンポーネントでした)からTOKYOFMが流れていて、「車じゃないのに何でラジオ?」と驚きました。
そして車で聴くよりも重低音の響く音質に、内心怯えていました(子どものころ、体に響くような大きな音が苦手だった)。
・小学校低学年~家にラジオがきた~
私の家にもバブルの遺産で立派そうなONKYOのステレオコンポーネントがありましたが、両親がそれを起動することは年に一度もなく、オブジェと化していました(狭いアパートだったので余計目立つ)。
私がラジオに触れたきっかけは、父がもらってきたノベルティグッズの防滴ラジオでした。
仕様は乾電池駆動でチューニングはダイヤル式。3バンド(AM、FM&TV1ch~3ch、TV4ch~12ch)もちろんアナログテレビです。今となっては懐かしい。
子どもがいじくるにはちょうどよいレベルで、ダイヤルを回して動かし方だけ知って。いつの間にか自分のラジオになっていました。
・小学校中学年~野球が好きだった~
そうは言っても自発的にラジオを聞くことはなく(私はもともとテレビっ子です)、防滴ラジオは箱の中にしまって眠らせていました。
そんな私がラジオを箱から開けたのは、野球中継があったからです。
地上波の巨人戦中継には放送延長の最大時間が設定されており(と説明しないと、今の若い世代はわからないですよね。たいていは21:24頃まで)、テレビ中継が終了した後にラジオで中継を聴くようになりました。
新聞のラジオ欄を見ると、ラジオでは巨人戦以外に西武ライオンズの中継もやっていることを知り(関東のみ、おなじみの文化放送とNACK5です)、それを聴き始めて巨人ファンから徐々に西武ファンにシフトしていきました。
・小学校高学年~母がラジオを勧める~
私は中学受験しませんでしたが、それでもこの頃になると勉強が少しずつ難しくなっていき、また担任がたくさん宿題を課すタイプだったため、毎晩机に向かうようになっていました。
そんな私をみて母がラジオを勧めました。ライオンズナイターに合わせて文化放送にチューンしていたので、つけるとナイターオフの番組が流れており、リスナー参加型の大喜利番組が流れていました。
改めてWikipediaで番組情報を探してみたのですが、年代が古すぎて番組名もわかりませんでした。2002年頃の夜に放送しており、パーソナリティがハガキ職人に対してランクを付与する仕組みで、ネタが面白いと料理屋をモチーフに皿洗い>シェフ>料理長と昇進していく形式でした。
しかし大喜利が面白く、宿題が手についていなかったら母に注意され、以降AM禁止、FMのみというルールになりました。
FMは、これまたライオンズ中継でなじみがあったNACK5を聴き始めました。
母の目論見通り、こちらは音楽番組が中心で宿題が止まることもなく、毎日世界に一つだけの花/SMAPがスピーカーから聞こえていました。
中学進学以降は、また日を改めて綴ります。