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お茶好きの隠居のカーヴィング作品とエッセイ-昔ばなし


23. ツバメ 再び


遠い足音


乙に澄ました川端柳 掠め飛びゆく燕(つばくらめ)
真夏の暑さもなんのその 涼風起こして一閃す。
驚いて 枝垂れ葉(しだれば)揺らす柳の木 そ知らぬ顔で又澄ます。

我が齢(よわい)七十路(ななそじ)を過ぎ この小道
僕は幾たび歩いたろう。
然れども まだまだ続くこの命 如何に使うか僕次第。

籠を放たれ 飼い鳥は何処へ行こうか思案顔。
おお、燕(つばくらめ)! 君はどうしてあのように
遠く遠くに行けるのか? 僕も行こう 遠い遠い地に、
歩き続ける足音が 遠く遠くになってゆくまで。 

Distant Footsteps


Grazing a willow tree with a straight face,
A swallow flew away along the river.
Shaking its branches with a grace,
The willow tree tried to assume a prim air,
While the green air made its leaves still quiver.
Meanwhile, I'm strolling freely from all care.

How often have I ambled down this path at this pace?
The rest of my life is left to myself anyway,
But, I can't pick out what to chase.
O', the swallow, how far do you go from here?
I, myself want to go somewhere far away,
Till my footsteps get further and further.

エッセー


ツバメである僕は秋になれば、南にあるもう一つの故郷に戻る旅に出ることになる。 今年生まれた子供達と妻も一緒にだ。 僕には、なぜ家族を巻き添えにして、毎年2度も長距離の危険な旅「渡り」を繰り返さなければならないのかはよく分からない。 何故って、この地の冬は段々暖かくなってきたし、人間の中には、冬でも暖かい彼等の住居内に我々の仲間が通年居ついても、嫌がらない者も少なからず居るからだ。 現に僕の仲間の一部には、この地に留まって冬を越す者達も居るし、実際そういう連中の数は増えてきているのだ。 だから僕もそういう選択をすることは可能だ。 ところが何故か僕はそういう気にはならない。 旅を繰り返すのは僕の体の奥底から突き上げてくる衝動即ち制御不能の本能が僕に命ずるからだ。 そして僕同様にこの衝動に突き動かされて旅を繰り返す仲間がまだ大多数を占めていることも事実なのだ。 もはや、その目的を見失いつつある危険な旅を繰り返すことは、どう考えても合理的ではない。 不条理だと思うけれども、どんな生き物であっても、その生き方に不条理を含まない種は居ない。 今、この星の上で、やたらとのさばっているヒトという種も例外では無い。 一体、生物の本能というものは、その種の発生以来、数万年単位の時間を掛けて形成されたものであるから、それが変わる事は、多分、やはり数万年単位の時間を掛けて徐々にしか起こりようがないのだろう。 迷惑この上ないことに、このヒトという種の横暴な振る舞いの結果、この星の環境が急激に変わってしまったのだが、我々の本能がその急激な変化に追随して素早く合目的的に変化することなどは有得ない事なのだ。 それは多分、ヒトにとっても同じであって彼等自身が矛盾と不条理の塊のようになっているではないか。 
非常に大きな労力と危険を伴う無意味な行動を繰り返させられることは、課せられる懲罰として最大のものである。 今や、僕等の「渡り」はその一例と成りつつあるようだ。 人間の間に良く知られているこの種の懲罰の一例は「シジフォスの神話」という寓話だ。(シジフォスはシーシュポス、シシュポス、シシュフォス等とも呼ばれる。) 神々の怒りに触れて地獄に落されたシジフォスという名の男が受けた刑罰は、大きな岩を休みなく転がして山の頂上まで運び上げる事だが、山頂に達する直前に、必ず岩は転がり落ち、彼は又その岩を運び上げねばならない。 それは永久に続く無意味な労苦である。 彼、シジフォスはその無意味な労苦に意味を見出して幸福を感じることが出来たであろうか? 
自然科学的な見地を以てこの命題にアプローチしても、鼻から挫折するに決まっている。 ヒトが発明した宗教とか哲学とかいう、客観的証左を欠き、主観その物であり、従って、怪しげな理屈を駆使する方が少なくとも表面を糊塗して自らをごまかし、一次的であれ、安心を得ることが出来るのではないだろうか? 根源療法ではないが、対症療法としては役に立つのだ。 
ところで、その前に脱線させてもらうと、周知のように、この星の生物界は自然淘汰の原理が支配していて、互いに喰いあう弱肉強食のルールで運営されている。 我々ツバメはそれを素直に受け入れ、我々自身が生きるために虫を食べることに、いささかの痛痒も感じない。 その一方、タカなどの僕等の天敵が僕等の仲間を喰い殺すことも仕方がないことと受容している。 しかし、ヒトという種の中には、妙なことに、この根本的なこの世の在りように違和感を覚えて、居ても立っても居られないほど悩んだ者が居るのだ。 ヒト種のかなりの割合の者が彼に同調し、彼を尊崇して「お釈迦様」と呼んでいる男で、彼の本名は日本ではゴーダマ・シッタルダと記されるのが普通だ。 王子として生まれた彼は未だ幼い頃、王宮の庭で鳥がミミズか何かの虫を啄むのを見てショックを受け、「生き物は喰いあう」と言った。 その原体験が彼をして求道のために王宮を去らせた、と言われている。 しかし、神ならぬ身の彼がこの世の在りようを変えることは不可能だ。 それで彼は「慈悲」という新概念を発明し、喧伝したのだ。 それは云ってみれば「同情」をより積極的に延長・発展させた概念とでも言えるだろう。 ヒトという種は、本来的に「他に同情する」という属性を持って居て、彼、シッタルダも喰われる虫に強く同情したのである。 肉体に強力な武器となる部位を持たない裸のサルが絶滅しなかった理由の一つに彼等がこの属性を持っていたことを挙げてもいいだろう。 それは「協力」という種の保存に極めて有効な行為への強い推進力として働き、多分、頭脳の発達にも寄与したものであろう。 更に、この属性は「良心」と呼ばれる別の属性をも発展的に生み出させてもいる。 元々は、宗教という彼等の発明物はヒトの属性として彼等が共通して持つ「他への同情」とその発展版としての「良心」を人に強く意識させることによって「他との協力」を強化・推進させ、ひいてはそれを種の保存に強く寄与させるという機能を担っていたのだ。 宗教は上述した目的の達成のためには理想主義にならざるを得ない。 究極の理想像をさし示さなければ、人は強く反応してくれず、その方向に動機付けることが困難だからである。 シッタルダが飢えた虎に同情したあげく、わが身をその虎に喰わせたという伝説や、もう一人の宗教家で、やはり多数のヒト種の心を捉える事に成功し、その賛同者から救世主(キリスト)と呼ばれ、日本ではイエスなる名で呼ばれる男の言った「自分を愛するように他人を愛せよ/他の人から自分がして欲しいと思うことを他の人にせよ(黄金律として知られている。)」という言葉にも、それは表れている。 これらのいずれの行為も、常人には容易に出来る事ではない。 究極の理想像を指し示し、そこに向かって努力せよ、と言っているのだ。 ついでに言えば、宗教家ではなく哲学者であり、その賛同者からは孔子と尊称される孔丘という名の男は「自分が他人からされたくないことを他人にするな」と、イエスの言葉を否定形で言っている。 これは比較的容易に実行可能で、どだい、不可能なことを要求する、という不合理をいさぎよしとしない孔丘はリアリストである。 ところで、これらの宗教の極端な理想主義は「偽善」をも生み出す危険性が高いし、その祈念の儀式が芝居がかった、わざとらしいものに見える原因にもなる。 何故なら、その行為が初めから成就不可能であることを認識した上で、猶それを試みること自体が空々しいもの、と言わざるを得ないからである。 キリスト教のカソリックという一派が習慣的に行う「告白」なる儀式はその典型であろう。 どんな罪も犯さない、という事が実質的に達成不可能であるという認識を持ちながら、敢えてそれを何度も試みているとし、司祭(神父)に向かって「私は罪を犯しました」と告白する。 司祭(神父)はそれに応じて「お前の罪は許された」と免罪することが、日常的かつ形式的に繰り返されるわけで、信者でない者の目から見れば、それは偽善ということを通り越して、ほとんど滑稽ですらある。 利他的に行動することが、自身が救済される、或いは解脱出来るための必要条件である、と教え、それが本当かどうかは別として、人をそう信じさせるのが宗教である。 この場合、その信者が利他的に行動する背後には、「自己の救済」という利己的な第一目的があることを否定出来ない。 しかし、自己保存を全てに優先させるのは、人を含む全ての生物の在りようであって、元々、「遺伝子は利己的」なのだ。 理由なく利他的に行動する生物は居ない。 一見、個体にとっては利他的に見える行為にも、その裏には、より大きな利己目的、例えば、種の保存があるのだ。(「利己的な遺伝子」:リチャード・ドーキンス著、1976) そういう存在、生物であるヒトに敢えて自発的に利他的な行動をさせるには、「自己を殺すことが却って自己を生かす」というレトリックで人を動かす必要があったわけで、結果、宗教は根本的に欺瞞を内包することになってしまった。 しかし、欺瞞/偽善であっても、力に余裕のある者が、より弱い者を助けるという「実質的に良い結果」が、それによってもたらせるなら、その欺瞞/偽善性には目をつぶっても良いのではないだろうか。 世の中には完全無欠なものは無いことも事実だし、実質が大事であることも事実なのだから。
さて、話をシジフォスの労苦に戻そう。 アルベール・カミユという名の男は、この寓話を考察して、要約すれば、こんな事を言っている。 「転がり落ちた岩を追って山麓に戻る間、息をつける時間に、彼は自分が熟知している自身の悲惨な在り方を凝視して考える。 結局、宿命は軽蔑すべきものであり、自分の日々を支配するのは自分なのだ。 山頂を目指して闘う事自体が人の心を満たす。 シジフォスは幸福である」---(「シーシュポスの神話」:アルベール・カミユ 著、清水徹 訳、新潮文庫) シジフォスは運命付けられた彼自身の日常の在りようを変えることは出来ないが、それをどう認識するかはシジフォス自身によるのであって、運命はシジフォスの認識を勝手に変えることは出来ない。 彼は自分の日常を、悲惨と捉えるか、幸福と捉えるか、を選ぶことが出来るのであり、彼は幸福と捉えることを選んだのである。 カミユはシジフォスの日常と、同一の単調な仕事を職場で毎日繰り返して一生を終える現代の労働者の日常を比較している。 二人の日常は共に「不条理」なものと言える。 労働者の仕事は彼が給料をもらって生きることが出来るための条件として彼に押し付けられ、やむなく、せざるを得ないものであって、それ自体が彼自身にとっては無益な労苦である。 その意味で、それはシジフォスの労苦と何ら変わりがない。 但し、彼が自分の仕事をそのようなものと認識した時だけ、彼は自身の生活を惨めなものと思うのであって、それを忘れている大部分の時間において彼は存外、幸福であり自らの生活に満足しているのである。 してみれば、本質的に同等な状況下にあるシジフォスは、この労働者と同様に自らを幸せであると、無理なく認識できるのである。 要は、認識だけの問題なのだ。
人は、その一生がどのようなものであっても、死ねば、その人にとって、全ては失われ、名誉も罪悪も悪名も雲散霧消する。 生者に残る彼の記憶も、死んでしまっている本人にとっては不明で、従って無意味である。 ましてや、人類が滅亡してしまえば、(人類の滅亡は極めて近いであろう。) その歴史・記憶も一切失われるのであるから、個々がどのように生きようと結局は全て「無」に帰することは明白である。 そういう事実、この世の在りようを思いやれば、個々人の日々の生活、あるいは一生がどのようなものであってもその事自体が、既に重要ではない。 しかし、そういう認識は必ずしも、人を虚無主義に陥れたり、自棄に追い込んだりするとは限らない。 本来的に、なま身の人間は幸福でありたいと願う存在であるから、彼の実際の日常がどんなものであろうと、カミユの解釈によるシジフォスと同様な認識を持って、幸福感を得れば良いのである。 ところで、自己の幸福が必ずしも他人の幸福に直結しないことも、この世の実際である。 それ故、自他各々の幸福を追求するには他との関わり合いに配慮・妥協する必要が生じるので、シッタルダやイエスは100%利己を殺し、利他を優先させる事を究極的理想・目標として指し示したのである。  しかし、前述したように、それを凡人が達成することは、実質的に不可能であって、不可能を不可能と知りながら、猶、そこに向かって空虚な努力を続けること自体に自分の幸福を見出す、というシジフォスの認識がなければ、そこに偽善性を見出すことになる。 だとすれば、カソリック教徒の「告白」についても、「告白と免罪」という行為の当否は別として、罪を犯さない、という無駄な努力はシジフォスの日常に重ね合わせることが出来るのである。 そうであれば、「罪を犯しました」と告白する者も、彼が「シジフォスの認識」を持っている場合には、それを偽善・欺瞞と断ずることは出来ない。
宗教というヒトの発明物は、「他との協力」を強化・推進させることを目的とした筈である。 ところが、一方で、皮肉なことに、同時に「排他性」をも強化・推進させてしまったことも事実なのだ。 本来、どこまでも「寛容」であることを理想とし、最も大切にすべき、とする宗教が、他の宗教の賛同者に対しては徹底的に「不寛容」であるという事実は最大級の矛盾であり、全くの不条理である。 宗教の違いを理由にする殺し合いで今までに、どれだけ人類の仲間が命を失ったであろうか? しかも、これらの宗教の創始者達は基本的にほぼ同じことを、人のあるべき姿として指し示しているのである。 ましてや、同一の宗教の分派同志が相争い、殺し合うということが珍しくない現実は、ツバメである僕には、到底理解出来る事ではない。 何世紀も前から今に至るまで、世界の各地でこの手の殺し合いをし続けているヒト種の愚かさ加減には空いた口が塞がらない。 勿論「協力」によって助けられた命の数より断然多くの命がこの殺し合いで失われた筈だ。 過去、宗教色の全く無かった戦争は極めて少なく、人間の歴史は宗教戦争の歴史である、と言っても殆ど過言では無さそうだ。 宗教戦争を止められずにいた、そして今も止められない最大の理由は、戦争当事者が上述した矛盾を矛盾と意識することなく、彼等の信奉する絶対者を受け入れない者は許せない、と考えるからである。 (オリジナルの宗教創始者でなく、その宗教の分派創始者が絶対者である場合も少なくないのは特筆に値する。) 絶対者への信仰を要求する宗教が他の宗教の絶対者を容認しないのは、その文脈においては一見、矛盾がなく、彼等の寛容精神は彼等の絶対者を信じる者のみを対象とすれば良いことになる。 結果、彼等の宗教戦争に対する感情、考え方、主張する正当性には一貫性があり、論理的破綻もやましい所も無い、と信じることになり、従って彼等はその戦争に「不条理」を見出すことも無い。 しかし、前述したような宗教の元々の存在意義を考えれば、間違いなく本末転倒そのものである。 カミユ流の言い方をすれば、宗教戦争がそういう状態にある限り、それは非情かつ皮肉な神が人に押し付けた永劫に繰り返される「運命」であり続けるのだ。  運命を悪しき神の手から奪い、人の手に属するようにするためには、その戦争当事者達が上述の矛盾・不合理に気付き、それを「不条理である」と認識することが最低限必要なのである。  その認識を得て、初めて運命は運命でなくなり人の手で解決されるべき事柄に変わり、ヒトは自分の手でこの悲劇を解決出来る条件が整うのだ。
ツバメである僕はヒトの抱えるこの滑稽な不条理を前に、こう思う。 彼等が殺し合いをするのは勝手だが、そのために我々を含めて他種の生き物が巻き添えにされるのは迷惑至極である、と。 ヒトという存在は理性では割り切ることの出来ない自分の性向と理性に基づく彼の思考との間に乖離があり、そこに統一性、合理性を見ることが出来ないことには我慢が出来ない、という変な性癖を持っていて、そういう状態に陥ると、彼は大きな葛藤を覚え、「不条理だ」といって騒ぐのだ。 時に、それが「正義」という概念と連絡する場合があり、それが危険を招く。 「正義」という概念ほど怪しげなものはない。
カミユという男は、散々考えて悩んだ挙句に、不条理状態にある人間を「是」としたようだが、なに、先に云ったように、どんな生き物であってもその生き方に不条理を含まない種は居ない。 矛盾も不合理も不条理も又、この世の在りようであって、それを見出したからと言って悩んだり、騒いだりするから良くない。 それを理由にして、自・他の存在が脅かされるという事態になっていない限り、 単純に「アッ、ソー」と受け流せば良いのだ。 皆が平和に生きるためにはそれが賢明なのだ。 それが「寛容」というものだ。 いつの日か、環境の変化に僕等の本能の変化が追いついた時、僕等の種は「渡り」を止めるだろう。 でも、その前に、この星を我が物顔にしているヒトという種は滅びるであろうし、我がツバメ種がその巻き添えになって滅びる可能性の方が、はるかに高いのだ。 くわばらくわばら。

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