お茶好きの隠居のカーヴィング作品とエッセイ-昔ばなし
22 ニワトリ
庭鳥に寄せて
* バードフル 殺処分の100万羽 哀れ悲しき家禽の運命(さだめ)
* 銀シャリの上の玉子と生(なま)しょうゆ いろどり美し簡素な朝餉
* 朝ぼらけ時つく鶏(とり)に起こされる 子供時代の僕の追憶
エッセー
鶏が「庭鳥」だった頃、それは私の少年時代です。 当時は、東京の普通の勤め人でも、卵を目的に庭で鶏を飼っている人が少なくありませんでした。 そういう庭鳥達は、昼間はケージから出されて、庭を歩き回り、花壇でミミズなどの虫を探して啄んでいましたし、大概は雄鶏も一緒に飼われていたので殆どの卵は有精卵であって、勿論、新鮮な間に消費されました。 最近の養鶏場で見られるように、狭いケージ内に四六時中閉じ込められ、規格品の餌以外与えられず、卵の生産機械のように扱われている可哀そうな雌鶏達と比べると、当時の庭鳥達は、はるかに健康で幸せな生活を送っていた、と言えましょう。 そういう庭鳥の卵は、今日、スーパーマーケットで売られている養鶏場が大量生産する無精卵とは大違いで、味もずっと良かったのです。 又、飼育されていた鶏の種類も白色レグホンだけではなく、小さく可愛らしい上に、卵を孵して育てるのが上手なチャボなどの人気が高く、飼育数も少なくありませんでした。 しかし、鶏を飼うのが、ほぼ専門業者だけになってしまった昨今では、チャボは極度にその数を減らし、今や、特別天然記念物に指定されている有様です。
人は他の動植物を食べたり、家畜として使役したり、愛玩したり、それぞれの目的に合うように品種改良をしたり、要するに自分の都合によって彼等を勝手次第に扱います。 そこには、動物愛護などという勝手も含まれているわけです。 地球上の生物世界は、適者生存・自然淘汰の原理に従い、強いものに支配されているのであって、それは生物の種間においても、同一種の生物間においてもそうなのです。 それがこの世の有りようであって、否定しようのない事実です。 早い話が人間世界に限ってもこの原理・原則は崩れません。 我々の世界も思想/主義/教義等、ましてや、それらに基づく法や正義によって支配されているわけではありません。 そのように見えるのは、その思想/主義/教義を主張する者達が力を持っているから、そうなっているだけの話です。 民主主義を主張する人達が力を持っている国では、民主主義が行われるでしょう。 しかし、そういう国でもクーデター/革命などと呼ばれる暴力行為でそれが転覆され、独裁者が支配するようになる例を、我々は腐るほど知っています。 独裁者を「力の信奉者」などと呼び、非難めいた言い方をする人が少なからず居ますが、実際のところは誰もが「力の信奉者」であって、独裁者を倒したければ、やはり、「力」によって彼を排除するしかないのです。 我々自身を考えても、ライバルに打ち勝ち、その上を行くには「力(=総合力)」に頼るしかないのです。
熊や鹿、猿等による人間社会への危害が深刻な問題となっていますが、人を既に襲った、あるいはその恐れの強い熊を捕らえ、殺処分することに対して動物愛護精神に基づき、抗議・反対する人が多く居るとのことです。
「人と他の生物との関わり方がどうあるべきか」は決して容易に答えられる問いではありません。
「生命体は他の生命体の生命を奪うことによってのみ存在することが可能である」という事実を直截に受け入れることに抵抗を感じるのが「人の性(サガ)」なのです。 このブログ 12. コウノトリとシュバシコウでも書きましたが、齢若い頃のお釈迦様が王宮を出るきっかけとなったのは「生き物は喰いあう」という事実を見て、彼がそれを残酷だ、と感じて衝撃を受けたからに他なりません。 言い換えれば、仏教という世界宗教は、彼のこの原体験に根ざしている、と言っても良いのです。 人という種のみが何故、己の存続のために他の生物を食べざるを得ない一方、その事実をそのまま受け入れることに抵抗感を持つのか? それは、多分人だけが、自分が他の生物に喰われる場合を想像し、そのことに嫌悪感を抱き、自分に喰われる他の生物も自分同様に感じるであろうと考え、思いやることが出来るからでしょう。 「慈悲の心」とでも言うのでしょうが、矛盾の塊でもあります。 人は他の生物を自分勝手に扱っているくせに、「慈悲の心」という「上から目線の偽善」を捨て去ることが出来ないのです。 動物愛護精神などというものは、御都合主義の最たるもの、と言って宜しい。 危険な熊の殺処分に反対する人達も野菜や肉を食べている筈です。 何人と謂えども生きている以上、それを否定出来ません。 人を害する熊を殺す人を許し難いなら、人を害しない野菜や牛や豚、魚を殺して喰っている自分自身は、もっと許し難い筈です。 自分自身が手に掛けないでも、自分達のその必要が需要を作り、それが他人による殺戮を許しており、それを利用している自分は自ら殺戮をしているのと同じことです。 一寸、極端に表現すれば、ギャングの親玉が手下の殺し屋に殺人をさせるのと違いはありません。 このブログ10. マガンでも書きましたが、動物愛護というものが如何に恣意的であり、愛護する場合とそうでない場合の線引きがデタラメであるかは明瞭です。
私自身の考え方を言えば、上述した「生命体は他の生命体の生命を奪うことによってのみ存在することが可能である」という事実をそのまま受け入れ、それを強く意識すると同時に、不必要な殺戮を避けることです。 「どの場合が必要で、どの場合が不必要と判断するのか」で議論の余地が生まれるでしょうが、少しでも人に危害が及ぶ場合は、一応「必要」と判断します。 その意味では、私は徹底して人間中心主義です。 「一応」と言ったのは、害虫などを完全に絶滅させた場合、その影響が思わぬ形で人類に跳ね返ることがあるからです。 例えば、ハエなどを完全に絶滅させると、人が病原菌に晒される機会が極度に減り、病原菌への抵抗力を失ってしまうので良くありません。 人にとって、100%有害な生物などは居ませんし、この世界を安定して保持するには、人を含めて各生物間の勢力均衡が極めて大事だからです。 そういう事を熟慮した上で、他生物に対する「慈悲の心」を発揮するのが動物愛護のあるべき姿だ、と考えます。