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「どっちが正しいか」のゲームが浸透し、あらゆる暴力が容易になった。<NVC動画-1>

<今までのNVCシリーズ>
【NVCとは?】基礎まとめ・動画や資料付き<NVCシリーズ①>
共感コミュニケーションが私の世界観をどう変えたのか<NVCシリーズ②>
褒め言葉の意図と、思わぬインパクトを考える。<NVCシリーズ③>
「嫌いな自分」を受け入れていく<NVCシリーズ④>


ここからさきには、非暴力コミュニケーション(NVC)を体系づけた、マーシャルローゼンバーグのNVC入門編動画1/4の一部を書き起こし、まとめ、そして、適宜私の感想や考えを書いています。


こちらが今回書き起こした動画です。

ーーーーーー以下、動画よりマーシャルの話を引用ーーーーーーー


NVCの目的とは?

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非暴力コミュニケーションの目指している先は「自然に分かち合うこと」を可能にすること。我々はこのやり方をすでにやり方を知っているけれど、忘れてしまう。忘れるように教育を受けるから。

自然に分かち合うとはどんなことか?

(ここからマーシャルは歌い始めます。)

あなたに受け取ってもらえる以上の贈り物はない
あなたに思いやる喜びを理解してもらえる以上の贈り物は(無い)
私が分かち合うのは貸しをつくるためでなく、
あなたに対して感じる愛を体現したいから
なんだ。
優雅に受け取ることは、もっとも偉大な贈り物かもしれない
この二つは区別のつけようがない
あなたが与える時、私は「受け取る」ことをあなたに贈る
あなたが受け取る時、私は贈り物を受け取る

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みんなこの与え方は知っているだろう
しかし同時に忘れやすい。
そのつながりを失いやすいのだ

人生を素晴らしくする「自然の分かち合いを楽しむ」というゲームの代わりに、ほとんどの時間、別のゲームをやってしまう。
「どっちが正しいかというゲーム」だ。

「どっちが正しいか」というゲーム

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「どっちが正しいか」と言うゲーム。これは全員が負けるゲームなんだ。すごいと思わないかい。

みんな分かち合いが人生でもっとも豊かなことであることを
わかっているにも関わらず、
人生の大半を「どっちが正しいかのゲーム」で過ごしてしまうんだ。

例えば、罰。これは悪魔的な教育のための概念。
報酬も、同じゲームである。
どっちが正しいかのゲームの一部である。


このゲームによって、この惑星に十分に暴力を生み出してきた。
罪悪感を生み出すのも、恥をかかせようとするのもやめよう。
義務や責務という概念も、もう無し。

この「どっちが正しいか」というゲームの道に入り込んでしまったのは、
ワイルドな考え方を始めたからだ。

それは人々は本質的に邪悪であるという考え方。そのことを信じると、自分が変化を生み出そうとする時、矯正する必要がある。その矯正のプロセスは、懺悔である。

自分が気に入らない振る舞いを変えるために、その人がやったことによって自分を憎ませることである。そう言う政治的、神学的な理由で、私がジャッカル語と呼ぶ言語を生み出した。これは我々の命から切り離してしまう言葉であり、そして暴力を振るうのをとても簡単にしてしまう。

「暴力を楽しめるようにする」という教育

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私が読んだ本の中でウインクは
支配文化の中では教育しなきゃいけないことの一つに、
暴力を楽しめるようにするということがある
。」と言っている。

子供達が一番テレビを見ている時間帯に、番組の大半が
主人公は悪者を殺すか、ボコボコにする。
しかもその決着は番組の終盤。それまでの長い間、暴力を楽しむんだ。
この過程で、暴力を楽しめるように教育を受けている。

そして私たちは自分の子供達にでさえ、
暴力がふるえるようになってしまった。

例えば親が子供の振る舞いを変えたいと思う時に、こんな風な言葉を話す。

親:「謝んなさいよ」
子:「ごめんなさい」
親:「本当に悪いと思ってないでしょ、見たらわかるわよ」
子:「えーん・・・ごめんなさい」
親:「わかったわよ。許すわ」

こんなゲーム想像つくかい?

「どっちが正しいゲーム」の要素

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どっちが正しいかゲームにはいくつかの要素がある。そのうちの一つが道徳的な判断を下す言葉。頭に意識を向けて、どっちが正しいか、間違っているか、どちらが良いか悪いか、正常か異常か考えることだ。

例えば自分が運転をしていて、誰かが自分の気に入らないやり方で運転して、そいつを変えたいと思ったら「ばかたれ!」と言う。
理論的には相手は懺悔する。べきなのだ。
「失礼しました。今後悔い改めさせていただきます」と。
理論的には素晴らしいんだが、ただうまくいかん。
なんども試したんだがうまくいかん。

この言語には他の要素もあって
責任を否定する言葉、選択肢を否定する言葉などがある。

責任や選択肢を否定する言葉が暴力を容易にする


ナチの戦犯、アドルフのインタビューを読んだ。

エルサレムでアイヒマンは聞かれた。
「何万何千人という人たちを死に追いやるのは難しかったかい?」
そして答えた。
「いや、簡単だった。我々の言語がそれを簡単にしたんだ。」と。

その言語を彼らは「アムトシプラへ」と呼ぶ。
責任を否定する言葉、選択肢を否定する言葉
アムトが「お役所」シプラへが「言語」だ。

これは自分の責任を、自分の行動の責任を否定する言葉だ。
なんでやったの?と聞かれたら「やらねばならなかったから」と答える。

それは、上司の命令、会社の方針だからやらねばならぬ、と思うと責任を持たないで済む、そうすると気分が悪くならない。暴力をふるったとしても。とても危険な言葉遣いなんだ。(この内容で、15:00あたりまで)

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私なりにまとめてみます。


「私たちはメディアを通じて暴力を楽しむようになった。
つまり、暴力への耐性をつけた。暴力性に麻痺するようになった。
そして、学校を通じて「ねばならぬ」という
自分の行動の責任を否定する文化を身につけた。
また、「世の中には正しいことと間違っていることがある」と思い込んだ。そして先生は正しいことを言う人だと信じ込んだ。
道徳的判断を身につけ、それによって人を批判することを学んだ。

そして、これらのことが、多くの暴力、悲劇を生んでいる。」

この悲劇から脱するテクノロジーがNVCだと私は思っています。
動画の続きをまた、書き起こしたいと思います。

<次のNVCシリーズ>
妖怪ナゼワタシバカリとの付き合い方<NVCシリーズ⑥>





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