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心の冷え(諦めや無力感)から回復してきた。

この1年ほど、坂爪圭吾さんの書く文章にハマっている。
あつさ、まっすぐさ、怒りについて、どーんと心に響いてくる。

まさに私の心は冷えていた。
嫌なことがあったときにも怒りは湧いてこず、
悲しみ(被害者意識に近いもの)や、
諦め(少し格好つけたように「手放し」)ばかり体験していた。

そこから瞑想やNVC(非暴力コミュニケーション)を体験して、
(なんだか不自然な)
受容・寛容さ・相手への理解 みたいな質がしみついて、
私の中のバランスがかなり偏った。

なんか変だぞ
なんか嘘っぽいぞ
なんか嫌に辛気臭いぞ

とおもっていた2021年。
インプロのワークショップのなかでの体験や、
屋久島、阿蘇で出会った人や自然(主に滝)との関わりの中で
なにかが爆発した。

怒りとか、攻撃的な質とか、自分中心な感じとか、
今まで自分に欠けていたもの。そして、頭の中では嫌悪し、遠ざけ、閉じ込めていたものが現れた。

ようやく自分の中の全体に会えたような感じがした。
坂爪さんの言葉は、
その抑圧されやすい熱を思い出させて、鼓舞してくれる。

「怒り」をもっと歓迎したい最近。

正しさは便利だ。正しさを使えば、簡単に人を管理・支配できる。しかし、正しさと恐怖は紙一重である。それをしないと罰されるから従うというのでは、本当ではない。やりたいからやる。それが、人間として自然だと思う。
常に支配や管理をされた環境で育つと、子供は「夢や希望を持ってもムダ」だということを学ぶ。そして、面倒臭さを避けることが最優先事項になる。戦わない方が楽。諦めた方が楽。衝突を避けた方が楽。そして、心が死ぬ。


暴論を承知で言うが、心が冷えている人間が多過ぎる。特に、女性に多い。男に落胆した記憶が、女性を冷え性にしたのだと思う。レイプに近い被害を受けたにも関わらず「自分がいけなかったのかな」などと思って泣き寝入りをする。おいちょっとまてと思う。怒るべき時に怒れよ。怒るのに正しさを必要とするなよ。正しいから怒るんじゃなくて、怒りたいから怒るんだよ。相手にも事情があるとかどうでもいいんだよ。お前の事情なんて知らねえよと、前提ごとちゃぶ台返しをするんだよ。おらおらおらおらおら〜!!と、獣のように吠える時間が必要なんだよ。怒りを忘れた猿になるなよ。喧嘩するんだよ。喧嘩売りながら歩けよ。ワクワクするだろ。ドキドキするだろ。いい子になるなよ。悪い子になれよ。黄金色のロックンローラーになれよ。

私は知っている。優しい振りをしている人の中には、とんでもない量のガスが溜まっていることを知っている。いい人の演技を続けながら、心の奥では「なめんじゃねえよ」と啖呵を切っていることを知っている。苛立ちを抱えながら、深夜のラーメンに甘美な背徳感を見出していることを知っている。自傷行為とは、何も手首を切ることだけではない。過度に自分を責めたり、トイレを我慢することも、噴き出した怒りを抑えることも自傷行為である。だが、私は知っている。自分を責める人は、自分を責める方が楽だから責めていることを知っている。何かを変えることよりも、自分を責めている方が楽だから(何も変えないでいいから)責めているだけなのだと知っている。だから、同情はしない。同情する代わりに脅迫する。魂のカツアゲをする。おらおらおら、本当はもっと持っているんだろと、魂の小銭を巻き上げる。なんならちょっと怒らせたい。怒らせたいし、泣かせたい。剥き出しになった感情に触れて「お、生きているな」と思いたい。誰にも絶対見せたくない日記帳を覗き見るような感覚で、相手のコアに肉薄したい。面倒臭いに負けるとブスになる。だから、女子はトイレを我慢するな。人生的な巡りをよくするためにも、私たちはトイレ(排泄)を我慢してはいけないのだと思う。

坂爪さんのFacebookより(https://onl.bz/6Mu7BBi

清水 友邦さんの書く文章もまたおもしろい。
もうすこし論理的な表現で、
泣くことや感情の解放が心身にどんな影響を及ぼすのか、心身と意識の関係などを書いている。

自然に湧き上がる感情を抑圧する慢性的な自我防衛の機械的パターンをウィルヘルム・ライヒは性格の鎧といいました。
腹が立って、怒りがこみ上げてくると人は攻撃的になります。
表面上は何もなかったようにニコニコしても体は殴ったり蹴っ飛ばしてやろうと筋肉が動こうとします。
欲求が出てきた時に筋肉は動こうとしますが、体の欲求を頭で止めて動かさないでいると、動かそうとした筋肉が動かないので体の筋肉は相克状態になります。

筋肉の相克状態は、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような、同じ力で押し合う状態です。

脅えたり腹がたったときに感情が表現されないと、体の中で動きがとれなくなり肉体の緊張に変化します。それを何度も繰り返していると体にエネルギーの流れを堰き止めるブロックが形成されます。やがて、緊張した筋肉は慢性の肩こりや背中のこり、頭痛、腰痛などの痛みとなって体に現れます。
肩がいかっているのは不安を、猫背なのはひけめを、背筋がまっすぐで固いのは融通が利かず頑固なことをしめしている。(アレクサンダー・ローエン「引き裂かれた心と体」)

感情を抑圧すると言う事は衝動が意識にのぼってくるエネルギーの通路を封鎖してしまうことです。筋肉の鎧で覆ってしまうと、もはや身体を感じなければ感情もまた感じることはできません。生命エネルギーが流れなければ枯渇して、束縛されたロボット状態になります。

現代社会は、体が全体性を回復しょうとする時に起きている症状を、病気として見てしまうことが起きます。筋肉の相克状態のブロックによる体の症状は、痛みの本質を理解していない施術者、治療家に鍼灸、マッサージ、指圧、整体または西洋医学の投薬や手術などで、症状を取ってもらって、直したとしても、またしばらくすると、同じことが違った形態で起きてしまいます。

自分の欲求をすぐに表現しないで起きる筋肉の相克状態は、頭が自分で自分の体に行っている自虐行為なので、他者による外からの力で治そうとすることは、問題の先送りなので事態が改善しないばかりか、むしろこじれて悪化してしまう事も起きます。

頭は愚かなので同じ間違いを延々と繰り返します。
頭が自分で自分の体に行った行為による筋肉の相克状態は、気がついて自分で自分の体に行う行為によって改善したほうが繰り返し問題は起きにくいのです。

大切な人との別れは誰でも悲しいものです。
ところが喪失感の時に泣くことが出来ないと、泣く時に動く筋肉が相克状態になり体が緊張します。

偽りの自我に囚われている人は、誰でも深い悲しみを持っています。悲しみは誰もが心の奥底に持っているので悲しみの共同体と呼ばれています。
多くの人は、自分の悲しみに直面するよりも、偽りの自我に囚われたまま感覚を感じないでいることを好みます。

悲しみの背後には愛を受け取れなかった恐怖と絶望を潜在意識は知っているからです。
「大声を出してはいけません」
「人前で感情を出してはいけません」
子供が衝動を出す事を両親は許しません。
「男が人前で泣くのはみっともない」
感情を出す事を社会は許しません。

文化的、社会的プログラミングされた頭は
感情が出ることを怖がり体に緊張が残ります。
緊張がゆるむ時に多くの人が最初に体験する感情は悲しみです。
その感情を頭で止めないで、あるがままに受け入れると、通常の泣き方ではなく、打ち震れながら泣き崩れます。

震えることで感情の通路をせき止めていたブロックが崩れるのです。
生命エネルギーの流れをせき止めているブロックは主に腹部です。
分離された生命エネルギーは深い悲しみと絶望感として腹部でもがいています。

身体感覚から切り離された頭はそれを受け入れることを恐れます。
性的に興奮することを「オーガズム」といいます。ライヒはオーガズムを生命エネルギーにからだ全体を完全に明け渡すことといっています。
生命エネルギーの中心は下半身のお腹にあります。

お腹と股関節と脚と足裏を感じて(呼吸道では命門と会陰と湧泉)、大地から栄養を吸収する根と感じられることを「グラウンディング」と言います。
グラウンディングによって生命エネルギーが流れて母なる大地と繋がっていると、お母さんと一緒に冒険の旅をする幼子のように、未知の領域に立ちむかっていく勇気と、究極的に守護されている絶対的安心感を持つことが出来ます。

「何があっても大丈夫」
「泣くこと、すすり泣くことは緊張を解放する最も早道だ。マッサージやエクササイズで緊張を取り除くこともできるが、最も深い効果を発揮するのは泣くという行為である」(アレクサンダー・ローエン「ナルシズムという病」)

呼吸道のワーク中に子供の頃の恐怖が甦った人がいました。
子供の頃の否定的な記憶が浮かんで来たのです。
本人はいままでもやもやしていた原因がはっきりしたと言っていました。
否定的な感情をあるがままに受け入れて表現すると、筋肉の緊張が取れて、しまい込まれていたエネルギーの解放が起きます。
永遠の喜びは、常に恐怖と絶望という参道を通り抜けて生まれるのです。

https://onl.bz/8Cs597F

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