VRCスクールN.O.A.H.の授業に関する心理学的考察
ぼくはこの3週間、VRCの学園型コミュニティNOAHに、生徒として参加していました。
この学園の主なる目的は、参加生徒のコミュニケーション力の向上、そしてコミュニティの提供。
明治大学教授の言語学者である堀田秀吾氏は、人間の幸福や健康に最も大きく関係する要素は「良い人間関係」だと明らかにしました。
つまり、「人生においてコミュ力はめちゃ大事!」ってことですね。
耳が痛い!
というわけで、今回は学園の授業及び放課後の活動が参加者に与えた影響について考察してみます。
もちろん統計的処理もしていないし、バリバリの主観で書いているので、信頼性も妥当性も低いです。
ただの戯言だと思って見てくれると嬉しいです。
では。
最初に軽い自己紹介だけさせてください。
ぼくは臨床心理士です。
そして大学院で脳と進化とメンタルヘルスの研究をしてる人でもあります。
なので、考察にはそういう関連の話も多々出てきます。
ご了承ください。
ってな感じで、早速本文いきます!
ヒタカ校長によるコミュニケーションの授業
まず最初が、校長自ら教壇に立ち、コミュニケーションについての見識を広める話をする座学授業について。
その内容については以下の通り。
という感じ。
ここでは、この授業内容について少し補足しつつ考えていきます。
「コミュニケーションの快楽」の正体
自分の投げたボールを相手が受け取り、それを投げ返してくれると快楽が生まれる。
それはなぜか。
大脳基底核で生み出されたドーパミンがニューロンを作動させ、賦活したVTAからの電気スパイクが軸索末端を通って側坐核に伝わり、投射された各部位のニューロンが興奮することで内側ドーパミン回路を繋げ、連鎖的な快感をもたらすから。(早口)
と説明してももちろん正しいですが、今回はそういうことではなく。
というかその機序を説明するとなると、それだけで5000字くらい使いそうなので、一旦ギュッとまとめて1行で表してみます。
コミュニケーションが快楽を産むのはズバリ、
絆による安心を生むから
です!
え、急にふわふわしたこと言うやんこいつ。
って思うかも知れないけど、まとめるとこうなるんですよ。本当に。
と言っても説得力がないので、少し解説してみます。
そもそも、人間の感情や思考、人格、意欲、知能など、ありとあらゆる要素は全て、遺伝によって作られたものです。
環境の影響こそあれ、それを作っているのは我々の全細胞核の中にある染色体がもつDNA情報に他なりません。
そして、DNAは今までの進化の結晶なので、それらは全て「生存と生殖」に有利にできているわけです。
(有利に働かないものは、どこかで淘汰されて現代まで残っていないから)
我々が快楽を感じるのであれば、その行為はなんらかの形で生存と生殖に有利なことがあるということです。
つまり!
快楽が生まれるコミュニケーションとは、換言すると「生存と生殖に有利な行為」というわけですね。
んで、なぜ有利なのかというと、「絆による安心を生むから」となるわけです。(やっと辿り着いた)
では、絆による安心とは何か。
それは、「目の前のこの人は自分を害しない」という安心のこと。
例えば、ヒトカラしてる時にいきなり人が入ってきたとしましょう。
それがよく見知った友達3人だった場合、驚きはするけれどすぐに落ち着きますよね。
でもそれが知らないおじさん3人だったら、恐怖しかありません。
ぼくなら泣きます。
でもでも、おじさんの場合でも、「よく見ると親戚のおじさんだった」となれば、それもまた安心するでしょう。
こんな風に、「この人は自分を害しない」という信頼を生むことがコミュニケーションの目的です。
会う人全員に対して、見知らぬおじさんズへのものくらいの警戒心を持ってると生きていくのに不利すぎますからね。
整理します!
お互いボールを受け取り、返し合うコミュニケーションを重ねると絆が生まれ、警戒心を緩めて安心の割合が増えていく。
それは生存と生殖に有利であるため、快楽が生じる。
ってことです!!
説明下手くそでほんとに申し訳ないけど、ここ重要だからよく理解してほしい!
よく分からん!って人も、
コミュニケーションの真の目的は、お互いにお互いを害さないという意志を伝え合うこと!
って点だけ、覚えておいてください。
コミュ障の原因と乗り越え方
というわけで、コミュニケーションの目的は絆を作って安心を送り合うことでした。
なので!
大事なところで噛んでも、渾身のボケが滑っても、みんなみたいに上手く話せなくても、相手がそこに親しみを覚えれば大勝利ということです。
最初から関わらなければ絆は絶対に生まれないけれど、勇気を出して「こ、こんにちは(声裏返り)」と声をかければ「え、なに?w」と親しみを抱いてくれるかもしれない。
レシーバーになる意識さえ持っていれば、大体の失敗もいつかは親しみに変化するでしょう。
だから、コミュニケーションが苦手な人も、失敗を恐れずにガンガン関わっていくようにしましょう!
……どうですかね?
できそうですか?
できる!って人は、素晴らしい素養を持っている方です。
次の項目まで呼び飛ばしてください。
オッケーですか?
よし。
というわけで、ここを読んでいるあなたはぼくと同じ、コミュニケーションが苦手な人のはず。
さっきのアドバイスに対して、「それができてたらコミュ障してへんねん!」と思っていることでしょう。
「頭で理解しても、いざその場に行くと声が出せない。関われない」という人もいますよね。
それもそのはずで、ぼく含めコミュ障の人は、コミュニケーション場面に対する警戒心が人よりも(無駄に)高いんです。
「自分の発言で場がしらけたらやだな」
「他の人と声かぶると気まずいな」
「勇気出して声出してもサラッと流されるかも…」
「流された後また黙ったことに気付かれる感じも辛いし」
みたいなことを意識的にも無意識的にも考えてしまい、その検閲作業に時間が取られて発言が遅れ、話に入れない。
そういうことが起きているわけです。
当然ぼくにもその傾向があって、複数人での会話になると発話量がグッと減ってしまいます。
でもよくよく考えてみると、その根源である警戒心は、現代においてはもう不要なものです。
というのも、我々コミュ障が感じる警戒心は「目の前の人は自分を害するかも」というところからきているものなのですが、現代の、それもVRCの中で害されたとしても、その被害はたかがしれています。
また少しだけ進化の話をしますね。
実は、我々の遺伝子というのは、旧石器時代の生活にフィットするように作られています。
現代の生活に合わせては作られていません。
そんな旧石器時代の生活してるやつとかおらんやん。さすがにもう遺伝子もアップデートされとるやろ。
と思うかもしれませんが、進化はそんな1000年2000年の単位では起きません。
意図的に遺伝子改変などを行わない限り、数万年の時間を要してほんっの少しだけ変わる可能性があるかも?くらいのものです。
そして旧石器時代は600万年ほど続きましたが、現代的生活は長く見積もっても3000年程度ですから、まだ馴染めてないのは当たり前でしょう。
そんな我々の遺伝子が想定している旧石器時代の社会はすごく厳しかった。
コミュニケーションで下手をこくと部族の中で村八分にあったし、餓死するリスクも高かったそうです。
そりゃ警戒心も増します。
しかし、VRCの中で場をしらけさせたとしてもぼく達は餓死しません。
にも関わらず、我々は餓死リスクがあった頃と同じくらいに、コミュニケーションに対して警戒心を抱くことが多々あります。
繰り返しますが、それは現代では無駄な警戒心です。
現代社会は、昔に比べるとそこまで厳しくありません。
もちろん、これを聞いてすぐに、「ほならコミュニケーション怖ないなぁ!」とはならないとは思いますが、発言したいけどできない…って時に、「本当にそんなに怯えないとだめか?」って自問自答するのは、少しは意味があると思います。
少なくともぼくには効果がありました。
まあ、願掛けや験担ぎくらいの気持ちでやってみてください!
それともう一つ。
話すのが苦手な人ほど、1対1の会話をすべきだとぼくは考えています。
なぜなら、1対1だと会話がターン性になるから。
発言してもいいのかな?と考えるまでもなく、発言するチャンスが回ってきます。
もちろんそれでも上手く言葉が紡げないことも多いかもしれませんが、「上手く話せなくても相手が怒ったり、プイッとどこかへ行ってしまったりはしない」という経験が積めます。
そういう、小さな学習がなにより大切です。
これはエクスポージャーという心理療法の考え方で、わざと苦手な場面に身を晒すことで慣れてしまおうというものですね。
その点NOAHは良い環境を提供していてくれたんだなと、今になって思ってます。
そこにいる全員がレシーバーの重要性を知っているため、話しかければ良い学習体験ができる保証がありました。
もっと話しかければよかったなあ…。
整理します。
コミュ障を乗り越えたければ、苦手なコミュニケーションの場に身を晒すしかない。(エクスポージャー)
でもこわい!勇気が出ない!
そんな時は、
「そんなに怯えるほどじゃない」と理論で理解しておく。
グループよりも1対1のコミュニケーションを重ねる。
安全な場の中でそれらを行う。(NOAHがこれだった)
という方法を取ろう!
って感じです。
長々と高説垂れてみましたが、結局言っていることはヒタカ校長とほぼ同じですね。
人間関係の悩みは、人間関係の中でしか解消できないってことでしょう。
ってことで、コミュニケーションの授業に関する考察終了!
クラス内交流の授業
次が、クラス内交流の授業についてです。
上のコミュニケーションの授業の項目で、かなり書きたいことは書いたので、ここからはややボリューム抑えめで書きたい。
読むのも疲れそうだし。
ということで、クラス内交流の授業の内容は以下の通りです。
・自己紹介
・共通点探しゲーム
・即興劇
・スパイ当てゲーム
では考察ササッといきます!
自己紹介
これはその名の通り自己紹介の授業。
最初の授業としては、至極自然でありふれたものですが、ノアでの自己紹介は「長めに自分の話をする」という条件付きのものでした。
自己紹介は心理学的に言い換えると、自己開示です。
人は相手のことを知るほど、相手に対して親しみを覚えます。(素性の知れた相手への警戒度は下がるため)
なので、自己開示を初っ端に、それも多めにするというルールは、スタートダッシュとしては良いものだと思いました。
また、人間には返報性の原理という心理傾向もあるため、他者の自己開示を聞いていると自分も自己開示しようという気になります。
実際、自己紹介は後半に行くほど長く話す方が増えたように思います。
ぼくも後半だったので結構話してしまいました。
じゃあ前半は損じゃないか!と思うかも知れませんが、そうでもありません。
人間は同じものが続く時、最初の方のものほどよく覚えているものです。
これは初頭効果とか呼ばれます。
なので自己紹介は、前半は初頭効果により記憶に残りやすく、後半は自己開示の返報性が働いて多く話せる。
という平等な構成になっていました。
また、さらに言うと、話すのが苦手な人を後半に持っていくやり方も効果的だと思いました。
たくさん話をしてくれる人の中に、簡潔に自己開示を終える人がいると、それもまた印象に残るからです。
ここまで計算してやっていたなら脱帽ものですが、考えていなかったとしても、今までの経験からこの形式に落ち着いたとしたら、それもやはり尊敬すべきものだなと思います。
というわけで、初日の自己紹介はクラス全体への警戒度を少し下げる役割を、十分に果たしていました。
ぼくの所属していた3組では、元担任の方やVtuberの人などの存在を知って「大丈夫かな?」と思っていた人がいるのも知っていますが、その不安は警戒度を下げるための不安だったはずです。
そもそも馴染もうとする気が無ければ、不安にはなりませんからね。
共通点探しゲーム
これは3人組になって、共通点をなるべくたくさん探すゲームでした。
共通点を探すというのは、絆を結ぶのにめちゃくちゃ効果的な鉄板の作業です。
人の他者に対する評価は、身体的魅力、類似性、近接性の3要素で決まると、対人魅力の研究では言われています。
身体的魅力は一旦置いておいておくとして、この共通点探しゲームは類似性を分かりやすく高めてくれるものでした。
VRCのプレイヤーはよく、Unityが〜とかblenderが〜とかの話をしますが、それもこの類似性を高めるための行動です。
一般人にしても中々通じない話をし合うことで、ぼくたち仲間だよね〜と確認しているわけですね。
こんな風に、無意識に類似性を強調する行動をとりたくなるくらいに、類似性は強力な繋がりとなります。
その点において、共通点探しゲームは絆の形成に役立っていたのではないでしょうか。
そして、これは余談ですが、近接性についてはノアに入った時点でかなり担保されていました。
近接性は一言で言うと「どれだけ簡単に会えるか」というものなので、毎日行けば会えるノアのクラスメイトはかなり近接性が高い状態でした。
また、もう1つ別の観点から見てみると、ゲームとしてそれを行うことにも意味がありました。
「共通点を探す会話をしてください」だと、「こんなこと言っても大丈夫かな?」と言い淀むこともあるでしょう。
でも「なるべく多く探すゲームです」と言うと、どれだけしょーもなくても1つ見つけられれば、それはプラスの行いになります。
そのため、発言のハードルが下がっていたはずです。
「共通点探し」の要素にも「ゲーム」の要素にも、それぞれメリットが隠れていたということですね。
ここからは蛇足かもですが、このゲームをもう少し改良するならどうするかな?ってことを考えてみます。
ぼくがまず思いついたのは、「クラスの中でその3人だけに共通するものを見つけたら10点」みたいなルールを付け加えるというものです。
類似性を高めるには共通点の数はもちろん、その深さもとても重要です。
「3人とも音楽が好きです」よりも、「3人とも昔バンドをしていて、全員がベーシストでした」となった方が、仲が深まりそうなのは分かりますよね。
そして、それを探すためには自己開示が必要なので、そこも狙っています。
「ぼく昔バンドやってて、ベーシストだったんだよね」と話して、それがその人だけだったとしても、類似性によってではなく自己開示によって仲が深まります。
そうすれば、共通点が見つからない時間も絆をふかめるための時間になって、効果が高まるのではないでしょうか。
以上!!
先生陣、もしこれ見てたら検討してみてくれると嬉しいです()
即興劇
次は、即興劇の授業。
これもその名の通り、即興で物語を演じて遊ぶというものでした。
この授業を聞いて最初に思い浮かぶのはやはり、サイコドラマという心理療法。
ヤコブ・モレノという精神科医が創始したものです。
モレノは自発性・創造性の理論というものを提唱しています。
それは簡潔に言ってしまえば、「その人の自発性・創造性は、即興の演技をすることであらわになる!」というもの。
頭がガチガチで考えが変えられない人、不安が高くて行動できない人、主体性のない人。
そういう人は、即興劇を行うことで自発性・創造性の発露が促進されるというわけです。
実際、精神科に通うレベルの思考の固さや身動きが取れないほどの不安を持つ人々にサイコドラマを行い、治療的効果があった例がいくつもあります。
それらを見ていると、思った以上に強力な効果があったようで感心しました。
では今回のノアの授業に話を戻して……
ノアには、コミュニケーションを取りたいけれど怖くてなかなか話せない人、つまり警戒心が(無駄に)高くて一歩が踏み出せず、小さな体験が積めない人が多いはずです。
それはまさに、サイコドラマの対象として最適でしょう。
実際、即興劇をしてみると普段とは違う遊び心を出しているクラスメイトも何人かいたし、全員が劇という媒体を通して繋がっている感覚もしました。
自発性・創造性が高まっていた証拠だと思います。
また、笑いが起きるという点も重要で、情動を同じ場で共有することは絆の結びつきにも大きなメリットをもたらします。
詳しい解説は省きますが、身体的反応を伴う情動を共有すると、脳神経のレベルで共鳴が見られるという研究もあるくらいです。
というわけで、即興劇はコミュニケーションの場に飛び込むための自発性・創造性の向上と、笑いの共有による絆の結びつきという2つの役割を果たしていたといえると思います。
こちらもまたまた蛇足ですが、ぼくなりの改善案、というかサイコドラマのやり方にもう少し近づける方法を考えてみました。
それは、「コミュニケーションに苦手な人がクラスに馴染むまでの物語を劇にする」というもの。
実際に苦手とするものをそのまま演じた方が、得られる効果は大きくなります。
サイコドラマでは、最も苦手とする場面を演じることもよくありますしね。
とはいえ、書いてて思ったけれど、これは心理的な侵襲性が高まって怖い面もあります。
うん。やっぱりやめた方がいいかもしれない。(手のひらドリル)
学生時代にイジメなどの被害にあった方がもしいたら、トラウマを刺激してかなりの負担を強いることになるのでよくないですね。
サイコドラマを行う際には、専門職者が必ず場にいる必要がありますし、そこが担保できないならハイリスクになっちゃいそう。
忘れてください。
ここの文消そうかとも考えたけれど、もし知らずにトラウマの再現場面を劇にするといけないなと思うので置いておきます。
トラウマ発作が起きることは非常に稀ですが、万一起こると本人は本当にしんどいことになるので、運営陣は即興劇のこういったリスクも一応知っておいた方がいいかもです!
(すでに知っていたらごめんなさい…)
そうなるとやっぱり架空の物語ベースは安心なのか…。すごいな……。
スパイ当てゲーム
そして最後がスパイ当てゲーム。
これは学園生活の最後の方にやりました。
各々が表示される質問に回答して、それを見ながらスパイを当てるゲーム。
スパイには質問が表示されないので、上手く話を合わせないといけません。
このゲームには、学園側のメッセージが隠されていました。
それは、「お互いを知らないとスパイは決して当てられない。このゲームを楽しめたということは、君たちすでに仲深まってるよね」というもの。
授業後にこのメッセージを聞いて、すごくなるほど〜って気分になりました。
授業中のぼくは呑気に「スパイはだれだー!」と楽しんでいて、気がつかなかった()
学園生活も終わりに近付くと、みんなそれぞれ頭の中で「学園生活で得たもの」を何となく考えることでしょう。
するとどうしても、「〇〇さん達はすごく仲良くなってるのに、自分はまだ全然だ……」みたいな気分になる人もいたと思います。
ぼくもそれでした。
しかし、確かに仲は少しずつ深まってはいたんだなと、メッセージを聞いて再認識できました。
こんな風に物事の捉え方を変えることは、心理学ではリフレーミングと呼ばれます。
その名の通り、枠付けを変えるというものです。
ポジティブに捉えろという意味ではありません。
その違いの説明は難しいんですが、イメージ的には「ネガティブをポジティブに変える」じゃなくて、「ネガティブなものにわずかに潜むポジティブに気付く」みたいな感じ。
ぼくはクラスの人気者ではないし、会話に入る時はちょっと身構えるし、みんなのこともまだ1%くらいしか知りません。
それは変わらない事実です。
でも、同じ3組の人なら、アバターを見れば名前が言えるし、声を聞いたら誰だか分かります。
その人が学園でどんな風に振る舞う人なのかも知っています。
それに、ぼくがこんな駄文を公開しても、バカにしたり見下したりはしないだろうなという信頼もしています。
我々人間は、他の生き物と比べるとはるかに複雑化された自我を持った生物です。
そんな複雑な生物の集団に対して、あっけらかんとこんな信頼を持つことはとても難しいことでしょう。
それができているだけでも、大きすぎる収穫というものです。
たとえほんの少しであっても、仲が深められたこと、そして仲を深めるまでの過程を体験できたことは、すごく貴重だったと思います。
それは上述した小さな学習の積み重ねになり、過剰に働いている他者への警戒レベルを下げてくれるはず。
という風に、人と比べて辛くなっていた思考が上手くリフレーミングされるメッセージでした。
なんかこの項目はただの感想の割合が大きくなっちゃってますね。
なので少しだけ考察っぽいことを話します。
神経伝達物質の観点でみると、人間の幸福にはBeの幸福とDoの幸福がある、とよく言われます。
Doの幸福とは、何かをすることで得る幸福のこと。
美味しいものを食べたり、大会で優勝したりした時に感じるものです。
主に、ドーパミンが分泌されることによって生じます。
Beの幸福とは、すでにある何かによって自然と湧き出る幸福のこと。
平穏な毎日や、仲の良い友達などの存在による安心感のようなものです。
主に、オキシトシンやセロトニンなどが分泌されることによって生じます。
コミュニケーションをしている時の楽しさはDoの幸福、そしてそれによって作られた人間関係によって生じる安心感はBeの幸福です。
人は往々にしてDoの幸福を追い求め、そこにあるBeの幸福にに気付かず生きています。(ドーパミンは欲求を刺激し、依存を招く役割があるので当然)
つまり、コミュニケーションを取ろうと奮闘しすぎて、すでに手にしている人間関係を無視したり、低く見積もったりするということですね。
Doは行動によって生じますが、Beは気付き一つで作動してくれます。
そして、上述のリフレーミングはBeに気付くことそのものです。
この授業では、そこを上手く伝えているなと思いました。
口で言う前に、ゲームの形式でその根拠を示すのはなかなか策士ですね。
校外学習の授業
では次が校外学習についてです。
ちょっと疲れてきたので、校外学習は全4種を2つにまとめて考察します!
内容はしっかり考えた上で、この2つはそれぞれ同じ要素があるなと思ってまとめてるので、サボりではないです(詭弁)
・写真撮影とVRアート
・カソウ舞踏団とパーティクルライブ
という感じでわけますね。
ではいきます!
写真撮影とVRアート
これもまたまたその名の通りです。
綺麗なワールドに行って写真を撮る、VRアートを観に行く、という校外学習でした。
ここで重要となるのは、それらは体験の共有だという点。
この重要性は、別に解説しなくても分かるんじゃないですかね。
体験は情動を生むので、これすなわち情動の共有です。
情動の共有が大切なのは、上のどこかで書いた通り。
同じ3組のさぎりさんがnoteに書いていましたが、アートを見て「おぉー」と呟くだけでも意味があるというのは、本当にその通りだと思います。
というわけで、ここではまた別の視点から。
この2つの授業では、美しい自然やアートのワールドを巡ることになる、という点もポジティブに作用していたと思います。
自然やアートなどに感嘆する時の「おぉー」っとなるあの感覚を、心理学の用語ではAwe体験と呼び、それは脳の島皮質という部分を活性化させることが分かっています。
その島皮質は、情動による身体反応を読み取って感情を湧き上がらせる働きをする部位です。
つまり分かりやすく言うと、
自然やアートによる「おぉー」は、その他の情動よりも「いま感動してる」と自覚しやすく、自覚している分その場にいる人と共有しやすい。
ということです。
さぎりさんもnoteの中で(何度も引き合いに出してごめんなさい)、あんまり意見言わない自分でも思わず声が漏れたと言っていました。
これはそういうメカニズムが働いていたんじゃないかな〜と個人的には思います!
カソウ舞踏団とパーティクルライブ
そして次が、カソウ舞踏団のパフォーマンスやパーティクルライブを見る授業についてです。
この2つにも、上の項目で説明した良い要素は両方入っています。(情動の共有とAwe体験のことです)
その上で、それらのメリットを強化する要素が、カソウ舞踏団やパーティクルライブにはありました。
まず、この2つの授業が上の項目の2つと明らかに違うのは、作品が目の前の人によって作られるという点。
完成された作品を見るのと、その場で作られる(演じられる)作品を見るのとでは、言うまでもなく臨場感が違います。
まさに今、目の前にいるこの人が自分の情動を動かしている、という感覚はAwe体験をさらに促進し、加速させることでしょう。
数々の研究では、Awe体験を促進する重要な要素として、「自然」、「カリスマ」、「アート」、「マインドフルネス」などが挙げられます。
この授業では、「アート」に加えてさらに「カリスマ」の要素も追加されていた。
というところでしょう。
また、作者の思いもダイレクトに伝わってきますから、情動の揺さぶりも大きなものとなります。
人はミラーニューロンというものを通して他者の想いに共感したり、感動することができます。
そしてそのミラーニューロンは、人と接する際に強く活性化されます。
人が演じる形の芸術(アート)は、ミラーニューロンの活性化によって感受性バフがかかった状態で味わえる、みたいな感じ!
実際、カソウ舞踏団の際にはyoikamiさんの人生を賭けている感じや、それについていくkouaさんの想いが、パーティクルライブでは煉獄丸さんやじゃぱぁさんの作品への思い入れが、すごく伝わってきました。
さらに言えば、自分達の掛け声もその作品に取り込まれるような感覚もあり、より没入感が高まったのではないでしょうか。
みんなの感想を見ていても、写真撮影やVRアートの時よりも感情ベースの感想が多くなっていることが分かります。
特にVRCでは演者と普通に話せてしまうので、その距離の近さもさらなる魅力になっていますね。(これは対人魅力の近接性の要素)
以上!!!
校外授業に関する考察はこれで終わりです。
あとは最後に、宿題の存在もわりと大きかったよなぁということを書いて終わりにします。
宿題の効果について
やっと最後の項目です。
長々と読んでくれて、ありがとうございました。
最後はサクッとまとめますね。
では。
スクールノアでは全体を通して、授業後にその感想をツイートするという宿題がありました。
強制ではないものの、わりとみんなやっていたという印象があります。
この宿題の効果としてまず思い浮かぶのは、「レシーバーの練習として感想を言う習慣がつく」というものです。
これはみんな首肯してくれるんじゃないかな。
でもそれと同等に、もしくはそれ以上に効果があったんじゃないかなと個人的に思っているのは、帰属意識の高まりという点についてです。
帰属意識とは、ある集団(ここではノアのクラス)に自分が所属している、という感覚です。
この宿題は強制ではなかったため、感想を書くのはあくまでも能動的な行為だったはず。
とすれば、それは能動的にノアに参加する意志の表れだったのではないかなと、思っています。
意志の表れ、とか書くと大仰ですが、クラスメイトに話しかけるのが苦手な人でも、感想ツイートならしっかり思いを書ける、みたいなのはあったでしょう。
そういう「自ら参加している感」は、ノアというコミュニティが与えてくれる恩恵(ここまで長々書いたやつ)を、受け取る助けになっていたのではないでしょうか。
効果が底上げされる、みたいなイメージです。
こじつけかも知れないけれど、ぼくはそんなことを考えながら感想ツイートをしていました。
というわけで!
長かった考察(?)文もここまで!
自分でもなぜこんなに頑張って文を書いたのか、よく分かりません。
ノアに感謝している表れなのか、久々に文章を書いたのでハイになっただけなのか。
原因不明です。
ただ、以前ならこんな文章、公開するのは恥ずかしくてできませんでした。
というより、「どうせ誰も見てくれない」と思って書くことすらしてなかったでしょう。
もし書いたとしても、「文章が下手くそなのバレて小馬鹿にされそう」とか思ってきっとお蔵入りにしてました。
でも今回は6期生の何人かが「読みたい」って言ってくれたから書けたし、小馬鹿にしたりしない人が読んでくれるという信頼があったから、こうして公開できています。
考察!と銘打ってみましたが、これはぼくの自己開示の一種のような気もしてます。
と、まあ、自分語りはこの辺りにして……
ここまで読んできてくれた方、本当にありがとうございました!
そして、ササッと流し見てここまでスクロールしてきた人も、少しは興味持ってくれたってことが嬉しいので、ありがとうございます!(嫌味とかじゃなくほんとに)
そして何よりノアの関係者の方々や、クラスメイトのみんな、3週間ありがとうございました!!
もしこの文章読んで何か感じてくれたなら、また感想教えてください。
それを口実にまたお話ししましょう。
これからもよろしくね!!
じゃあまたVRCで!