全体領域と境界について

「壮麗なるものには隠然として、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められ、夜光のような輝きを放っている。」

森敦『意味の変容』

 
 畏き白蛇の神に思いを馳せてみる。その蛇神を壮麗たらしめているものは何であろうか。それは鈍色に光る鱗の流れであり、二股に分かれた細く赤い舌を啜る囁きである。そして、とりわけ、その恐ろしき牙である。
 いまここに、蛇神が牙を抜かれたとしたら、それは自身の邪悪、怪異、頽廃を失ったこととなる。このとき、それは壮麗さ、畏さの反対概念であるところの邪悪、怪異、頽廃を失っているのであるから、そこには壮麗さ、畏さが内的に有しているところの崇高、美麗、厳然のみが残っているはずである。
 しかし、ここに至って、牙を抜かれた蛇神に壮麗さ、畏さは見る影もない。食い殺すことのない蛇神に畏れを抱くものは誰もいない。
 すなわち、「壮麗なるもの」はその反対概念であるところの「邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したもの」を包含する全体概念であると言える。


「任意の点を中心とし、任意の半径をもって円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は2つの領域に分かたれる。境界はこの2つの領域のいずれかに属さねばならぬ。」
「内部+外部+境界で全体概念をなすことは言うまでもない。しかし、内部はそれが境界に属せざる領域だから、無辺際の領域として、これも全体概念をなす。」


 内部は境界に属さないその内側のことをいう。このとき、内部は境界に接しないが故に無限の広がりを有し、したがって、内部のみをもってしても全体概念をなすと言える。
 すなわち、「崇高なもの、美麗なもの、厳然たるもの」のみをもってして、「壮麗なるもの」となし、同時に、境界に接した外部であるところの「邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したもの」をも包含して「壮麗なるもの」となす。

 ここで、人の生死について考えてみると、幽明境を境界として、これに属せざる内部を生、これに接する外部を死と置くことができる。翻って、同じく幽明境を境界として、これに接する内部を死、これに属せざる外部を生と置くこともできる。
 これをもって意味の変容となし、このとき、任意の点を選択することで生の中に死をも実現できる。

はずである…。


 仮にこの意味の変容に成功したならば、例えば、誕生害悪論者の戦いに決着がつくであろう。すなわち、存在せず害悪がない状態が最上の善であるかがはっきりと分かることとなる。
 しかし、二次元上の内部外部をもってして境界を定め、任意の点を選択することには自ずから限界がある。現に我々は、存在−非存在については任意に選択することができたとしても、その実存のために境界の外部を選択することはできないでいる。境界の外部を選択するには死ぬよりほかない。
 すなわち、この境界設定においては、我々は常にその内部のみしか全体概念として認識することはできず、任意の点を選択することは、外部においては当然、内部であっても困難である。


 過ちは、円で境界を設定したこと、無邪気に任意の点を自由に選択できるとしたことにある。

「任意の点を中心とし、任意の半径をもって円周を描く。」

私はこれに修正を加えたい。

「実存を点とし、これを中心として、任意の半径をもって多次元に展開した円を描く。」

 実存を点、認識をそこから広がる多次元に展開した円の領域とする。その上で、実存たる点は認識によって展開された超球面上の一点を選択し、そこが新たな点となる。多次元の円の展開と一点の選択の無限の連続により、実存は超球面上をなぞる線となると同時に、常にその中心に存在する。これにより、実存の拘束性を維持しつつ任意の点を選択することが可能となる。
 このとき、認識が展開する領域が及ばぬ次元を外部となす。すなわち、「外部」とは、領域の外側ではなく、その裏側を指す。そして、その裏側をも含んだ全ての次元を「全体領域」と呼ぶ。
 この全体領域においては、点をもって実存となし、半径をもって認識となすところ、認識しうるあらゆる次元の点を選択しうるが、その裏側には触れ得ぬものである。いくら意味を変容しようとしてみたところで、実存の糸に首を繋がれたまま認識の檻の中で雁字搦めに首を締めることとなる。
 首を締めることでひょっとしたらその境界の裏側へと飛び立つことが出来るかもしれないが。

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