2023年度下半期の恋愛を振り返る

0.プロローグ

<いつ結婚するの>

 タヒチの空からの問いかけに、Mは答えることができないでいる。

1.Mは原理を発見した

 功利主義は、恋愛の論理の主流に位置づけられてはならぬ。

 愛し合う2人の平等が倫理とされ、しかし2人が不平等な資質を持つことが互いを補完し惹きつけ合うという恋愛の矛盾。これを乗り越えるために、「2人の最大幸福」に着目した「相性」がことさらに強調されてきた。2人の価値観や趣味が一致し、共通点があるなら、その2人にとって「相性」は良くなるという考えである。さらにこの論理は、そうした「相性」の良い組み合わせの蓄積によって、組み合わせの総数であるところの社会も繫栄していくという「最大多数の最大幸福」へと拡張され、恋愛は功利主義的な観点から論じられるようになった。

 しかしつまるところ、人は1人で生まれ1人で死にゆくのであり、「相性」としてのサドとマゾや心理学、かすがいとしての子ども、あるいは子孫繁栄という生物学的説明等、2人以上を最小単位とする数多の論理は、2人の平等を謳う一方で2人は不平等さに惹かれ合う、という恋愛の矛盾から目を背けるための方便にすぎない。そもそも2人以上を恋愛の最小単位とすることによって、自分でどうにもできない領域が作り出される。すると、恋愛を主体的に行う一方であるはずの自分は、恋愛に対して責任を部分的にでも放棄することが許されることになる。この結果、恋愛を行う人の中に、相手を省みないで欲望を貫き通す態度や、逆に相手からの見返りを求めて優しくしたり気を引いたりする態度が現れる。不倫や浮気は言うに及ばず、互いに依存関係に陥った2人が堕落していくとき、その2人はそれぞれが自分にさえ責任を持てていないのである。自分という1人を単位として恋愛を考えてみることでこそ、自分が相手に対してどのようにあるべきかという問題に真正面から対峙することができるのだ。したがって、功利主義的な恋愛は、自らの責任を放棄した、未熟な恋愛であり、恋愛の主流に位置付けられることは避けなければならない。

 ところで、Mはこのような崇高な真理をぽつんとワンルームの中で考えてきた。呼ぶ人もおらず、呼べる状態にも非ず、涙で乾くことを知らぬ枕君を除き、この小さな世界の住人は、咳をしても気絶しても1人Mのみである。バリウム患者のようにぐるぐると寝台の上で回りながら練り上げた折角の論理体系も、こうなっては全く使うアテがない。

 Mはマッチングアプリから距離を置き、極北へ行くなどして比較的恋愛と無縁な半年を送ってきた。一方で、周囲の動向による相対的な影響を受けた半年でもあった。これについて、Mは先日私に次のように話してくれたのである。

2.Mは幼馴染に裏切られた

 恋愛は他人に左右されるものではないとしても、やはり周囲が結婚したりすると焦りが生じる。君に前言ったように、私の妹は少し前に結婚したが、少なからず焦りはあった。自分の中で、兄弟姉妹、幼馴染、職場の同僚というのはメルクマールになっている。この半年、幼馴染、職場の同僚の双方で私は2度刺されたのだ。

 幼馴染については、S君、囚人番号417君、火山君の3人が腐れ縁のように中学時代を中心に交友しており、特に火山君にあってはともに上京した仲でもあるから半年に一度くらい会っていた。この間火山君に会ったとき、全くの突然に「結婚することになった」と言われた。彼は粗暴な奴だったから、私は血痕がどうしたと尋ねると、結婚相談所でひと夏のうちにさくっと相手を決めたのだという。
「じゃあ、血痕相談所というのはそんなに決まるのかね」
「その代わり本当に忙しかったよ…君はアプリでやっているが、あれは本気じゃないだろう」
本気であった。
「君も結婚相談所を使った方がいいとは思うが」
成功者に言われては、ぐうの音も出ない。

 火山君は結婚を人生の大切なステップと捉え、条件に合う人を探し、スマートにゴールまで持っていったものと思われる。火山君は恋愛をあまりしてこなかった方だとは思っている。だが、私やS君、囚人番号417君に殴る蹴るの暴行を繰り返すのとよく火事を起こすのを除き、火山君は真面目で賢く責任感もあり、ついでに標高も高かったから、パートナーを見つけるには事欠かないと思っていた。とはいうものの、私は内心焦りを覚えた。
 ついこの間、血痕死期のお誘いが来た。
 なお、S君や囚人番号417君は特段のそういった話がなく、心のオアシスとなっているが、彼らは私と異なりそれぞれの趣味等を謳歌している。意味もなくYouTubeの「あなたへのおすすめ」を押下している私とは天地の差がある。

 ところでM自身、普段何をしているのかと気になって、分析してみたことがある。平日の3分の1余りは大体労働していた。平日の3分の1と休日の3分の1超は寝ていた。平日の残る3分の1弱と休日の3分の2弱について、1日2局の三麻と、ジム週2日と勉強週3日と飲み会週1日に加え、1時間の移動と飯風呂買い物を除けば、Mは大体バリウムを飲み、「あなたへのおすすめ」を2倍速で見ているのである。懊悩と煩悩のミルフィーユのような生活状況にあって、これに魅力を感じるパートナーがどこにいるというのか。

 Mは話を続けた。

3.Mは同僚たちに裏切られた

 職場の同僚について、今は私は大阪に赴任しているが、入社当初、同じ部署の同僚は私を含めて4人いた。私(M)、ギャルのGさん、話し声の大きいAさん、話を大きくするBさんである。男女2名ずつの部署配置は例年より多く、コロナという難局にあっても同期で力を合わせながら、また助け合いながら次第に部署の中心戦力へ成長していった。もちろん、入社同期とはいえ、浪人かつ入院の私が最年長である。

 コロナの中、ギャルのGさんが元カレと別れるなどし、私はいろいろな相談に乗っていた。そうすると、ギャルは他の彼氏を作り、そのまま結婚してしまった。私は、元カレの相談に乗ることが確定演出ではないということを学んだ。私は少しだけ焦りを覚えた。

 昨年、私は大阪赴任を命じられた。4人体制の終焉である。大阪に行くと、岡崎体育似の独身の先輩、Oさんがいた。大阪で話を聞くところによると、Oさんは大阪で彼女を見つけたらしい。こりゃ良かったと思いながら私はオジサンたちと年末の梅田や福島を飲み歩いていると、Oさんは私に何らの相談をすることもなく結婚してしまった。私は、相談に乗らないことが確定演出ではないということを学んだ。そもそも演出していないから何もないに決まっているが。困ったことに、Oさんの結婚の関係で多分私の大阪赴任が1年延びた。大阪では彼女を作らないでおこうと思っていた私にとって、これは婚期が1年延びたことを意味した。大阪で彼女を見つけるという選択肢を含め、多少ライフプランニングの練り直しが必要となった。要するに、私はさらに焦りだした。

 焦りながらも私はオジサンたちと〆張鶴や酔鯨、秋鹿、磯自慢、紀土、田酒といった美味しい日本酒、ビールや紹興酒などを飲み歩き、主に17時以降の信頼関係を構築していた。
 するとこの度3月に至り、AさんとBさんが入籍した旨の一報が届いた。私は、私は、、

4.Mは自分に裏切られた

 ハァ? ウラ。

 私はすべてを投げ出し、ちいかわになった。なんか小さくてかわいそうなやつ。

 それで君はどうするのかね。私が聞くと、mは首を横に振った。「相性」ではなく1人を恋愛の基礎に置くべきだという主張を展開したM自身が、自分を見失い、ただオロオロと焦っている。

「まあ、自分について考えることも大切だが、相手のことを考えるとともに、相手から学んでこそ、君の歪んだプライドとエゴイズムを脱却できるんじゃないかね? 君の発見した原理は間違っている。」
「ヤハ。」
「相性は単なる足し算や掛け算ではないのだよ。」
「プルャ。」
「大体お前そんなに可愛くないし」
「…。」
「そもそもこの下半期の恋愛、まとめてみたらほかの人が結婚したりして焦ったというだけで、お前動いて無くないか?」
「厳しいお言葉」
「で、来年度はどうすんの」
「頑張ります」
「根性論や精神論ではなく具体的には」
「結婚相談所への入会を検討します」
「岸田」
「秋くらいには結婚相談所へ入会します」
「それは思い付きで言ってるだけで解決策の提示を目的化してる」
「フ。」

5.エピローグ

<我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか>

 タヒチの空からの問いかけに、mはまたも答えることができないでいる。


6.筆者の感想など

 本編は終わりですが、たまに作者の考えていることなどが知りたいという奇特な方がいるので、もし興味があれば以下を。
 今回の話のネタとしては2.3.あたりであるが、登場人物は私を除き、Mやmも含めて架空、仮名のものである。なお、毎度注意しているのだが、なるべく男女の恋愛というものを前提にしないように、パートナーであったり2人であったりという無性別な表現を使用するようにしている。
 4.の自己の分裂みたいなのをどう描くかということで、Mと私が話をするという構成にしてみた。一方、自己の喪失を描くために、Mとmを対比させた。書き分けが明確にできているわけではないが、一般に日常を生きる私に対し、恋愛の側面について理論武装したのがM、それが剥がれたのがmのイメージである。
 蛇足だが、私はちいかわのうさぎが好きである。

 表現技法上のテーマとして、いくつかの対比、並立関係を多用した。謳歌と押下といったダジャレレベルのものもあるが、Mとm、声の大きい/話を大きくするAさんBさんと小さくてかわいそうなmといった対比である。また、これは職業病であるのだが、本作全体に死を意識した表現をちりばめた。血痕死期、バリウム患者、2度刺された(カイジからの援用)などである。

 そして、これらの表現技法の結晶をプロローグとエピローグに込めた。「いつ結婚するの」というのは私が半年間問いかけられたテーマであり、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というのはその結果問いかけられることとなったテーマであり、そしてこれらはいずれも結局答えることのできなかったテーマである。特に後者については、1人を単位とした理論を構築したMにとって、「我々」という2人以上の視点からの問いかけに「原理的に」答えられないという皮肉を表現したかった。そして、お気づきの方がどれだけいるか分からないが、この2つの問いは、いずれもゴーギャンの有名な絵画の題名から借用している。問いかけを行うのは世間一般でもよかったのだが、この趣旨からタヒチからの問いかけということにしている。一方、問いに答えるべき人物について、前者は大文字のM、後者は理論武装が剥がされ小文字となったmであるところ、これに対応してタヒチの一部が半角化している。こうすることによって、ネット表現のタヒ=死を思い起こさせるつくりとした。
 ゴーギャンを通した対比と死のモチーフがどこまで伝わったかは未知数であるし、伝わりにくいと思っている。作者としては、わかりにくい程度に何らかの構造を作った方が書きやすい、というのが本音である。いずれにせよ楽しんでいただければ幸いである。いいねの「押下」をお待ちしています。

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