先生と豚⑧
夜、誰もいない銀行は不気味だった。非常灯の薄明かりが余計にそれを助長し、普段見えそうもないものが目の前に現れて自分をじっと見つめているような気さえした。
ごくり、と唾を飲む音さえ響いて聞こえる。紅林は臆病者ではないし、夜の学校で肝試しをしてもあんまり驚かない方だった。しかし今夜は訳が違う。
頭のなかに失敗したとき、自分がどうなるかという想像がひとり歩きをして紅林を不安の渦に陥れる。警備員に見つかり、警察に通報され命からがら逃げきれたと思ったら、自分の顔が新聞やテレビで報道されて指名手配犯の仲間入りになっていて近所のおばさんが肩から下だけテレビに映り、そんなことをする子には見えませんでしたよ、と少し弾んだ声で報道陣に語るのだろうか――それは勘弁してくれ、と紅林は心中で呟く。
時計に目をやる。
――あと八分。
意外と時間がかかっている。
急がなければ。
十月も終わろうかという季節なのに紅林の手は汗ばんでいた。額や鼻の頭の上にも汗がうっすら浮かんでいるのが分かった。
落ち着け、と心中で自分に言い聞かせる。
金庫に向かう順路の途中にはいくつか分かれ道が存在し、銀行員たちのオフィスに繋がっていた。金庫があるのはそれらを通り越した銀行の一番奥、分厚い壁に囲まれた独房のようなところにある。紅林は汗を拭いながらそこを目指した。
できるだけ地図は取り出さなくて済むように頭に叩き込んできたが自分の記憶が合っているか確かめるため監視カメラの死角に入り、二回ほど広げた。
監視カメラに映ることは計算済みだったが行員として入った紅林が地図を広げたら不審がられるだろう。いつ受付の警備員がカメラを見ているかわからない。紅林は慎重になる。
オフィスを通りすぎるのはかえって有難い、と紅林は思う。警備員に監視カメラで見られていても紅林が金庫へ向かっていると気づくのには時間がかかるはずだ。
地図を確認しながら、早足で金庫に辿り着いたとき柿崎に指定された制限時間いっぱいだった。
危なかった、と紅林は少しばかり息を弾ませて思う。大した動きをした訳ではなかったが緊張のせいか体が強張って必要以上に体力を消耗している。
ふうと深く息をつき、紅林は辺りを見回した。
金庫はそこだけ切り取られたような薄暗い空間のなかに存在していた。その空間の手前、側面には行員が預金を運ぶための大型のエレベーターが設けられている。扉の上部に緑色のランプが点灯していることからこんな夜更けでも使用できるのだと知れた。
懐中電灯で隅々を照らしてみるが協力者の姿はない。
(くそ……)
これで自分ひとりで全てをこなさなくてはならなくなった。
(しゃあない……)
紅林は再び深く息をつく。
次は、と紅林は考える。とにかく柿崎から伝えられた作戦を忠実にこなさなければならない。
ズボンのポケットからメモ用紙を取り出す。くしゃくしゃに丸められたそれを丁寧に広げ、次いで時計を一瞥した。
(時間だ)
紅林は飛びつくように金庫の隠された分厚い扉に近づく。監視カメラの視線は無視し、端に設置されたパネルを見る。パスワードを八桁入力すると扉が開く仕組みになっており、その下には数字とアルファベットがずらりと並ぶ。
紅林はメモ用紙を見た。
(3、A、J……)
ボタンと書かれた文字とを交互に見ながら確実に、しかし手早く入力していった。
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