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「文化人類学」気づきをくれる学問

「文化人類学」という学問分野の存在をはじめて認識したのは、たしか大学3年くらいのことだったと思う。学部時代に古代ギリシアの古典文学を専攻し、自分の中で「異文化」に対する興味が高まっていた頃。人文学という学問分野が人間という存在そのものを探究する壮大な試みであるということにようやく気付き始めていた、そんな頃だった。

政治・経済・宗教・芸術といった人類のあらゆる文化活動をその研究対象として包括する「懐の深さ」と、フィールドに立ち、自らの五感をもって、時には研究対象に埋没しながらデータを収集する「泥臭さ」。こんな学問があるのかというあの衝撃が、こうして文章にしているとふつふつと体の中に蘇ってくる。

実際に研究活動ができたのは修士の2年、自分のフィールドであるギリシャで過ごしたのはたった3か月だったけれど、あの時期の経験は自分にとって代え難い財産であり、大学院へ進学してまで文化人類学を学び、研究できたことを、本当に幸運に思う。

教員として働く今も、どうにかしてあの時のような衝動を感じたいと、探究のテーマを探しながら働いているけれども、なかなかこれというものもないので、まずは本来の業務を全うすることに全力を尽くしている。

なぜ不意にこんな記事を書きたくなったのかというと、最近読んだ『文化人類学の思考法』(編:松村圭一郎ほか/世界思想社/2019)という本がとてもよくできていて、文化人類学という学問分野が持っている豊かな「世界の見方」「物事の捉え方」を、改めて確認させてもらえたからである。「異文化」という自身との差異を通じて、「異文化と異なる自分たち自身」に気づく。あわただしい日常の中で、忘れがちな思考活動を促してくれる。そういう刺激を自分が求めていることも気づけた。しばらくはこの本を精読して、文化人類学の魅力に浸りたいと思う次第である。

文化人類学は遠くの「彼ら」を知るためだけの学問ではない。彼らと私たちとの比較をとおして、自分たちがいったいどんなことを「あたりまえ」として生きているのか、私たちが生きるこの世界のあり方をとらえなおすための学問なのだ。
(『文化人類学の思考法』序論「比較から世界をみる」より)


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