名前を知っているだけのもののことを、なぜ「さすが」と言えるのか
自分でもすごく狭量だと思うのだけど、通ぶるやつのことがとても苦手だ。「通ぶるやつ」の定義というのはとても曖昧なので、いくつか、最近あったことを挙げながら、通ぶるやつをこき下ろしたいと思う。
現在は日中に使える時間が増えたので、これまで観てみようかな~とか読んでみようかな~と思っていたコンテンツを消化している。
私は京極夏彦の百鬼夜行シリーズを『魍魎の匣』までしか読んでいなかったのだが、知り合いに最近『鉄鼠の檻』を勧められたので、未読だった間の巻の『狂骨の夢』を読んでいた。『狂骨』を読んでいて気がついたのだが、『姑獲鳥の夏』の内容は覚えていたのだけど、『魍魎の匣』の内容はほとんど覚えていなかったので承前の登場人物の会話がふわふわしてしまっていた。見返すと、これまで分厚いと思っていた『魍魎』も『狂骨』と比べれば大した厚さではない(感覚の麻痺)ので、また再読すればいいか……と思っていたのだが。
読書をしている私に家族が「なによんでるの?」と聞いてきた。「京極夏彦の『狂骨の夢』だよ」と答えると「おお!」という。読んだことがあるのかと思って話を広げようとすると、読んだことはないのだという。
その「おお!」がなんだったのか、私にはわからなかった。このシリーズ自体、家族は読んでいないはずだ。読んでもいないものに対するその「おお!」という感情の表明が、いわゆる「通ぶり」の目覚めだと私は思う。
別の例を挙げたい。数年前から趣味で落語を聞きに行っているのだが、あまりにも面白いので友人を誘って行くことがある。先日、落語界でも人気な方の公演を友人と一緒に聞きに行った。友人は、公演後「名人だね~」という感想をよこしてきた。私はその「名人」という単語に私はひっかかってしまった。
「名人」という言葉はそもそも、どういう意味の言葉なんだろうか。最近、コトバンクで「精選版 日本国語大辞典」を引くことができると知ったので調べてみる。言語系のやつはすぐ日本国語大辞典に頼りたがるのだ。
① 一芸一道をきわめた人。技芸にすぐれて名を知られた人。評判の高い人。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
※吾妻鏡‐文治二年(1186)四月八日「彼既天下名仁也。適参向」 〔韓愈‐柳子厚墓誌銘〕
② 江戸時代、囲碁または将棋の最高位者に与えられた称号。段位は九段であった。現在は選手権の一つとなっているが、囲碁・将棋とも選手権保持者は最高の地位に位されている。
※仮名草子・仁勢物語(1639‐40頃)上「をかし、男有けり。名人の碁打へ石直されに行きけり」
以上が名人の項目の引用である。このシチュエーションで使われる名人の意味は①すなわち「一芸一道をきわめた人。技芸にすぐれて名を知られた人。評判の高い人。」の方で間違いないだろう。
説明のように「名人」は世間が決めるものであり、個人の感想が束になった結果として「あの人は名人だ」と評され、上り詰めて行くものである。個人が抱ける感想の範囲というのはその対象が好きか嫌いか、どんな部分が良いと感じたかという部分に収まる部分にしかないと私は考えている。主観での感想が集まって、いい評価が集まる部分・悪い評価が集まる部分・賛否両論に分かれる部分……そういう寄り集まりの結果として、「名人」が生まれるのだと思う。
そんなことを言っていると、一生名人というものが生まれないかもしれないじゃないか。個人が誰かに対して「名人!」という感想を抱いてはいけないのか!という気持ちになってくるのでさらに考える。
個人が「名人」を規定することもある程度は可能である。ある特定の演者の公演を何度も何度も聞くことでその当人のサンプルを蓄積し、また同様の濃度でそのほかの演者の公演を楽しむことで様々なサンプルを集める。ある程度サンプルが集まると、そのジャンルにだんだんと精通していくことができるので、ぼんやりと大きなくくりのなかで「この人は名人らしいなにかかもしれない」という感想を初めて抱けるようになるのだ。そのため、なにがしかの公演を一回偶然鑑賞したというそれだけで「名人!」という判断を下すことは不可能である。
人のことをこき下ろしてばかりいるのも良くないので、自分の例を挙げたい。先日、アガサクリスティーの『アクロイド殺し』を読んだ。仕掛けが見事であるという触れ込みもあり、これまで読んだいくつかのミステリの中で秀作として挙げられていたこともあり、ワクワクしながら読んでいたのだ。読後、私は非常に大きな衝撃を受けた。それは、『アクロイド殺し』の結末にではなく、『アクロイド殺し』の結末に驚けなかったことに対してである。
考えてみれば当然のことで、『アクロイド殺し』が発表されたのは1926年のこと。当時から何度も何度も焼き直されこねくり回されいろいろな形の創作として触れることがあったタイプの話形なのだ。「『アクロイド殺し』に衝撃を受けることができなかった衝撃」を受けたとき、私は自分が「アガサクリスティー」という看板を、これ以上なく信頼してしまっていたことに気がついた。私がクリスティーの何を知っているのだろうか。私が知っているのは、私が読んだことのある一部のクリスティーの作品が寄り添ってくれていただけで、アガサクリスティーという作家のことを何ひとつ知らないままに尊敬するという自分の嫌う行動を無意識のうちにやってしまっていただけだったのだ。
こういう「古典」と誰ともなく呼ばれているものに、私は弱い傾向がある。世間にも同様に古いものだからいいものだろう、という思い込みめいた空気がうっすらと漂っている。いわゆる『創られた伝統』が権威を振りかざしていることや、マナー講師がさも古くからある重大なことのように新しい風習を喧伝することなどとつながっている考え方である。古く感じられるものは伝統的であるので、力を持ってもいいという論理が共通認識としてまかり通っているのだ。
たとえば、兼好法師のことを挙げたい。
それまでは吉田兼好と教わっていたのに、高校に入ったとたんに吉田は俗名で兼好は出家した後の名前だから兼好法師と今度から書きなさい!と教えられた、あの兼好法師である。
兼好法師の言葉はなんといってもしょっちゅうしょっちゅう、関係のない文脈で引用されている。「なんと、兼好もこういうことを言っていたのだ……。」という文章が登場すると、我々は「なんと!あの兼好法師が言っていたことならば正しいに違いない!」というつもりになってしまう。
しかし、よくよく考えてほしい。兼好法師はわたしのいったい何なのだ?『徒然草』に関する知識をわたしはどれだけ持っているのだ?いつの作品か言えるのか?
兼好法師が私のことを知らないのと同じくらい、私も兼好法師のことは全く知らないのだ。どんな仕事をしていたのか、どんな暮らしをしていて、どんな考え方をしていたのかも知らない男の言葉をどこまで信奉すれば気が済むのだろうか。
現在でも似たようなことがあって、あの有名人が!あの文化人が!タレントが!……という文脈で流言が広がることがある。
なにも兼好法師がインチキだと言っているわけではなく、知りもしないものをただ古いから、名前を知っているからといってあがめることが問題だと言いたいのだ。しかし、知っている単語が出ると、ついつい知っていることを表明するために「おお!」なり「名人!」なり「古典!」と「通ぶった」評価をするための反応や言葉を使ってしまいがちである。
わたしはみっともないので、その、ついつい出てしまう癖を完全に(完全に、というのは無理にしてもある程度)封じ込めたいと思っている。この「名前を知っているから」となにかをあがめてしまうことをやめるためにはどうしたらいいのか。
考えた末に導き出した唯一の結論は、実際に名前を知っているものについては一次資料にあたる必要があるということだ。物語があれば、その物語を読む。言葉があれば、その言葉の使われ方をできるだけ集める。誰か知りたい人がいるのであれば、その人についてできるだけ情報を集めることしかできないのだ。
このことを意識し始めてから、わたしはとても不自由で不自由で、そしてとても自由になった。名前だけ知っていてうわべだけ知っていたなにがしかを積極的に調べて読んでみるということをするようになったのだ。私は本当に何も知らない。何も知らないから、余計なことは言わずに、いろいろなことを知っていくことができる。
もっともっと色々なことを知ることができたら、私の狭量な部分も直っていくのかもしれない。日々、精進である。
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