技術についての覚書

忘れないうちに、忘れてもいいように記しておく。
つい最近、noteに書いてた、自分で。

考え、は流れ。覚えておくより、浮かぶことそのものが大事

noteに書いてたけど公開はしてなかった。

技術は、練習したら、身につけたら、そのことを忘れる
絵を描いてると、最初の二年くらいは上手く描く、をいかに外そうとしても描いてるとき、いえ描く前からもう上手い絵を描こうとしてしまっていて、それはつまり頭の前側に意識が置かれている状態で、

ようやく最近、描いている自分をふと感覚してみると頭は静かになってるようで、
色を選ぶときにまだそれが働くときが多いけれど、頭の前側に意識が置かれて描いていたときはそこでやめずにそのまま頭を静かにして続きを描いていく、という方法で満足いくまで描くことにした。

上手く描けたとき、後でまたそれを再現しようとするとき、技術を意識する。
でも、例えば、はじめて靴紐を自分で結んでみたときのままでずっといることを思ってみれば、落とし込むという作業がどれだけ重要かわかる。
落とし込む作業は意識的にする、いやきっとできることではなくて、それは身体の領分だ。こないだ友達とやってるバンドでバイオリンを演奏してるんだけど、素人すぎて嫌になる時があるけれど、弾けないところを1時間くらい練習してて、結局うまくいかずにその日は終えたのだけど、次の日起きた午前中から引きたくなってたから弾いてみたら、あっけないほどその箇所が弾けた。睡眠って大事なんだなぁ、とそのとき初めて実感した。これまでもそんなことは沢山あったのだろうが。

覚えた技術につかまって、それをやるとそこに自我が固着することになるのだろう、でも
そのときの「わたし」大きな自分、からだ、がそれをしたいとは限らない。
そのときの方法を発見する、その時の方法が技術を使ってるかもしれないし使っていないかもしれない、とにかくからだに自我が一致するように、

反復も、全く同じはありえない。一回バットを振ってしまったらその経験は無くせない、反復は同じことの繰り返しだけど、再現はできない。同じように、一回しか振ってないのに2回振った後の一振りの再現もできない。
忘れることと身につけることは、おそらくセットになってるんじゃなかろうか。
絵にしても、今でも三年前に描き始めた頃の絵はもう描けないな、と思う。それはその時の技術が今よりもよっぽど拙かったとしても、そのときの自分の全部で描こうとしたものほど、その想いは強い。
同時に、いま似たような絵を描いても、以前描いたものはどんなに上手い絵に見えても、やっぱり持ったり目にすると頭の前側につよく集中が起こってしまう、あの頃は今みたいに身体の感応で描くことはできなかった。そういう意味では全く違う絵になっている。

絵に関しては、僕自身に興味のルートが数本あって、一見全く違うしその時どきでどのルートに乗りたいかが変わるけれど、それぞれに勝手に響き合うから、一本にしばらく固定していても、別のルートに久しぶりに乗ったときももう以前とは絵が変わっている。ただ、「僕自身が興味があるルート」であることが重要で、外側はそのルートの入り口にはしても、知識や技術としてそれを仕入れてしまうと、不思議なことに他のルートが響かない。それでは本当の無駄足、道草になってしまうので、誰かが欲してるではなく(評価とかの話)あくまで自分が興味を惹かれている、ということが欠かせない。


いいなと思ったら応援しよう!