思いがけないボーナスをもらうには
先週の今日、という言い方は変だ、先週の日曜日、出張喫茶でヤマイロゲストハウスにいて、すでにそれまで会ったことなかった人たちに偶然出会ったり、とても久しぶりの人に会えて、そもそもヤマイロゲストハウスが見ていて飽きない、昔の家らしい仄暗さがいい。こないだ遊びに行ったウーテさん家もそうだった。蛍光灯じゃないところだ!今、気づいた。これは忘れないでおこう。そんなこんなで、呼んでもらえてほんと良かったなぁ、と思っていたところ。
何年ぶりだろう、隣の市でカフェを営んでいるHさん夫婦が、久しぶりに、わざわざ珈琲を飲みに足を運んでくれた。
奥さんはブレンド、旦那さんは深煎り。最近はずっとペーパーで淹れているのだけど、ふとネルで淹れたくなり、そのほうが時間はかかるのだけど、どうせ暇なので、じっくりと身体の感応を捉えようとしながら淹れた。
他にお客さんも来てくれたので、少し話をするにとどまっていたが、さて会計を、というときになってこれからの予定の話になった。
去年までは、雪が積もる冬の間は店を閉めて、場所を変えてオープンしていたコーヒースタンドが今年は出来なくなってしまった。誰かのつまらない嫉妬。
意外にも(僕には、意外だった)そのことがHさんはかなりこたえたらしく、
もう珈琲をやるのやめちゃおうかなって思ってたんです
でも、今日の、この深煎りを飲んで、わ!まさに今飲みたいと思っていた味はこれだった!とびっくりした。
そしたら、なんかやる気出てきたんです。この一杯で魔法がかかったみたいだ
今日は興奮してねれないかもしれません(冗談めかして)
と、大変に嬉しい言葉をかけてくれた。
その日出したのは、パプアニューギニアのMUDMAN(泥男)の血を引く人たちが育てたコーヒー豆を深煎りにしたものだった。
Hさんがかけてくれた言葉が照れくさくてその話をして「マッドマンの魔法ですね」とごまかしたけど、感応の働きによるものだったのだと僕は思う。
感応の働きは、僕個人の意志とはあまり関係なくて、僕にできることはいくつも現れては消えてゆく道筋を、それがどこに向かっているのかはわからない、ぼんやりとこっちはこう、あっちはああ、みたいのはあるようだ、その瞬間を感覚という選択によって、道筋と言ったけど歩くというより川に流される感じ、受動的に働きかける。
「受動的に働きかける」
今書いて、言葉としては矛盾してるけど、まさにこんな感じだ。
それを、珈琲の抽出という形でやっている。Yちゃんは多分それを
「神藤さんは、珈琲を淹れるとき、左脳と右脳を入れ替えてる」
と言ったのだろう。
僕はそーゆー風にはわからないし、感応を捉える、ということも自覚的にはまだまだ始めたばかり。抽出でやってることといえば、お湯をさして膨らむコーヒーの粉の、見えない内側がどんな風に動いているかを、目で見えないから音や触感や泡や、なんとない感じで探る、つまり想像すること。できることはそれぐらい。
でも今までにも、行った先にティラミスがあれば必ず食べる、それくらいティラミスが好きだという人に
「人生で食べたどれよりも美味しいティラミスです!」
と言ってもらったり、
転勤族で日本中を動いている人から
「日本で一番神藤さんのスコーンは、美味しい」
と言われたり。
自慢じゃない。僕が作るものは、広範に好まれるものではないと、謙遜でもなく、思っている。なんとなれば、自分が好きな味、好きな感じのものをやってるだけだから。だから、こんな言葉を頂戴することだってそうそうない、でも数えるくらいの、そういう言葉が、僕を支えてくれている。
ただ自分の好みや欲求を、丁寧に実現していくことをする。
それがぴたりと自身にハマるほど、つまり言葉にすればワガママになると、不思議なことに他人にそれが響くらしい。ただ、この「自身」にハマる、というのがなかなか曲者だな、と思う。いや曲者なのは、自身から離れてあれこれと欲望する僕、という自分。
自分が自身に合うように、欲求を丁寧に形、言葉にしていくことが大事。
Hさんとのやりとりでいえば、ネルが頭によぎったとき、いつもペーパーで淹れてるから、と言ってその機を逃さずにいられたことが功を奏したのだろう。もちろん、その選択がどういう作用を起こすのか、その時の僕には知る由もないわけで。結果を先に思い描いて、そこに向かうというのは架空の地図を描いて、それを持って実際の地面を歩いて目的地に向かうようなものなのだろう。
僕にできることといえば、今、に注目するほかない。すると、時々こんなボーナスみたいなことが起こる、だんだんそれが当たり前になっていく。
今書いた法則みたいなのも忘れてしまうこと。そして、ただただ、今、に注目してゆくことだけに向かう。