M君との対話 No.9 ー 土地、身体、切断と接続、

それでここは僕の《ふるさと》ではあるんですけど、それをどう感じているのかは、やぁ、どうなんだろう、僕は、あの、僕も自分が土地に根ざしている感覚がないんですよ、だから実際は根無草みたいな感じで、僕は《解体日誌》とか《手紙》を読んで、もしかしたら共通している部分なのかもっていうのもあるんですけど、Mさんはその家を子どもの頃に《ふるさと》のように感じて、多少誇りのように思っていたということですよね、地面や景色と結びついているような感じっていうか、僕はなんかそれが薄いんですよね、いまだに自分の土地はどこなのか探してるのかも、いや、探しにも行ってなくてどっか遠くにそうゆうところがあるのかもって思っちゃう自分がいる感じで、だからこそ自分の場所を持っていることへの憧れがあると思うんですよね、それって、僕のこの体はやっぱりここの土地で生まれた体だなってのが最近あるんですよね、僕が生まれた頃にはもう社会がけっこうどこでもフラットな感じになりつつあったから、そうゆう意味では濃厚に、例えば僕と新潟の人との身体的な感性の違いっていうものは昔に比べたらけっこう薄いと思うんですよ、昔だったら飯田でも町中と山の炭焼きをして暮らしていた人たちとは絶対に身体的な違いがあったはずで、つまり文化の違いが身体のレベルでかなり濃くあったと思うんですね、それが今はもう薄まってるから、だから近さを感じられないことはそもそも僕個人の問題ではなくて、けっこう現代人的な病いみたいなことでもあるのかなって気はするけどね、あとはやっぱりどこに行ってもその土地を自分の空間にしていく人ってのがいるわけですよね、土地を手に入れて、土地との結びつきを自ら構築していくことができる人が、それは畑をやるとか、庭をやるとかってことでもそうだし、



 だから僕はひとつ後ろめたさがあるんですよ、それをやれてないっていうか、40年経ってもそうゆうことをスタートしていない自分てのがあって、だから畑やったりとか、家を建ててそこに住むってことに対する憧れがあります、僕の奥さんはそれを自然にやってるんで、ほんとちっちゃいことなんですけど、なんかあるもので、日々の暮らしの中で、なんか、器の置くところの配置を変えてみたりだとか、カーテンをあそこに付けてみたりとか、洗濯の干し竿がこうゆうふうになっていたからそれを少し変えてみただとか、そうゆう毎日の暮らしやすさみたいなことを日々やることでも土地との結びつきみたいなものが自然と生まれたりするのかなぁって思ったりして、だからなんかMくんの展示の仕方っていうのは僕が絵を描く行為よりも、僕の奥さんとか、畑をやって手を入れている人たちだとか、そうゆう日々の暮らしの中でのブリコラージュのようなもので充足している人たちとの親和性みたいなものを僕は見ていたんですけど、だけどMくんはそれを暮らしの中ではできていないって言うから、それは僕もけっこう似たところで、なんか誰か別の人のところにいるような感じというか、そうゆうところにも居心地の悪さがあったりして、



 それこそ僕は田んぼを始めて2年経つけど、それだってほったらかしだし、なんかここじゃないのかもみたいなことも思うんだけど、それは本当にそうなのかもしれないし、逆に自分が手を掛けてないからそう思うってこともあるかもしれないですよね、だからもしかしたら、今ふと思ったんですけど、Mくんが解体を自分の手でやることによって解体への抵抗感とか、倫理としての冒涜みたいなものを感じたってのも、もしかしたら解体をする作業によってそのことへの結びつきが生まれてたからなのかもしれないし、だって結びつきを切断しようとしたってことは、始めにそこに結びつきがなかったら切断ってことはあり得ないですよね、それでその切断によってまた別の結びつきができていたのかもしれないし、だから僕もMくんとそう遠くもないのかもしれなくて、そうゆう違和感は実はめちゃめちゃあるんですよ、だから啓榕社も移動できるように設計してみて、そう、だからこそその後ろめたさみたいな感覚が生まれたのかもしれないんだけどね、僕はどこでもできるようにってことで軽さを獲得したわけですよ、それを2012年以降に考え始めて、実際に始めたのが2015年で、それで2020年にコロナになって、まぁ飲食で言えばキッチンカーが出たりだとか、固定のところに人が集まれなくなって逆に社会が移動でもできる方法を考え始めた時に、僕は逆に自分の場所をほしがるようになったんですよ、だけど今は人の場所を借りてやっているっていうね、そこでは僕の空間を生みだすってことは難しいわけですよ、必ず僕でない人が置いたものや作った空間が重層的にそこにあるから、だからその都度自分にとっての空間みたいなものを、居心地みたいなものをいちいち構築する必要もあったりするので、まぁこれは今ぽろっと出た言葉ではあるけど、



 だから僕は、そう、コロナのおかげでさっき言った本来の快適さに人を誘導することができたってのがあって、真夏に店やってるでしょ、それで目の前に公園あるでしょ、僕はみんなあそこ行けよってずっと思ってたもん、すぐ目の前の公園にすごく気持ちいい空間があるのになぜ店でコーヒー飲んでんだろうって、コーヒー持って外行けばいいのにって、むしろ僕がそれをしたかったところもあって、でもコロナじゃなかったら外に行ってくださいって言ったって絶対に行かないじゃない、誰も、だけどコロナによってそれがみんなその時の前提としてできたってことがうれしかった、それによって僕には発見がいっぱいあって、公園の芝生にいる時ってどこに座るのかって自分の感覚で決めるんですよ、みんな、どこが気持ちいいかって、例えばその人との距離感とか、この人とはもっと近くいたいとか、遠くいたいとか、向かい合いたくないとかあるんですけど、そうゆうものを無意識のうちにみんな感得してるんですよ、それでぽつぽつと点のようにそれぞれの場所が生まれていって、そこに空間が発生するじゃないですか、それは自然に道ができていくみたいに、歩いているうちに獣道とか人の道ができるみたいに、僕はそれを見ていて気づいたんですよ、店の中ってもうそれが決められちゃってるんですよね、だからここで今僕が居心地が悪くなって急に寝そべったりするじゃないですか、でもそれって違和感じゃないですか、それがあそこの芝生だと自然にできるんですよ、もちろんここに置かれた椅子や机によって生まれる親密さとか効果もあるので一概には言えないんだけど、そうゆうことが発見できたりだとか、



 あとは自分の場所をほしかったのにずっとそれに目を背けていた側面もあったんだけど、そろそろやらざるを得なくなってきたみたいなこともあったりとか、コロナはけっこういいことしかなかったかもしれないです、まぁ経済的には厳しくなったのはあるんですけど、結局いいわるいは自分が判断してることなので、その自分の場所だって飯田の中かもしれないし、外かもしれないし、結局それってやんないとわかんないし、だけどやってないからってのもあるんですよね、もうそれが保留されたままずーっとあるから、だから体もやっぱ歪むよなって思ってますよね、心の歪みと体の歪みってたぶんひとつだから、心の歪みが体の歪みに繋がっていると言うか、それが一緒で、だから僕はこの問題を解決するのが一番手っ取り早い整体になるよなって思ってるんですよね、やっぱり歪みを作りだしているのは自分だから、でも本当にどうしたらいいかなってずっと考えてますよね、でもMくんが言った通りで考えてるだけじゃだめですよね、堂々巡りになって、行動がなにかないと、行動ってものが、動きがやっぱり、なんなのかなぁって、変わっていく、変わりたいなぁってのはたぶん思っているんですよ、僕は、それこそここにも書いてあったんですよ、人を変えることはできないって、Mくんがどこかに書いていて、覚えているかわからないけれど父親との話の中にそれが出てきて、のらりくらりとやっている父親に対して早くやってほしいって気持ちがあるけど、それは結局自分の問題であり、人は人を変えることはできないって書いてあって、本当に僕もそうだなと思うんですけど、人を変えるより自分が変わる方が早い、そして自分を変えるためには自分を変えようとするよりも環境を変える方が早いわけですよね、今までの常識とはぜんぜん違うところにぽんって飛んじゃうとか、そこで暮らすってことは今まで自分の持ってた常識とかを変えざるを得ないから、それはここにいながらにして変えるよりも絶対的に早いわけですよね、それに間違いない方向に変わるわけですよね、それができないと死んじゃうから、であれば環境を変える方が早い、ってのを僕はわかっていながら動いてないって言う、このね、それが自分へのずれや歪みに繋がっていくって言うね、だからちっちゃいところから始めればいいやっていうね、でもまぁ、体を変えることで動きやすくなったりもするんですけどね、体を整えると動きやすくなるからね、

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