M君との対話 No.8 ー サイズの話の続き、アートの目的

あの、家を解体していて、最初の目論みとしては構造だけが残って、そこをひとつの作品の完成としてってことだったんですよね、でもそこにも自分の中で不自然さを感じていて、なんか、そこでまたちょっと苦悩しているとこがありましたよね、それで例えば家が放置されて、そうすると朽ちていくじゃないですか、何十年、何百年かすると、家自体の形が消えていくっていうか、それもきっとやってる最中に想像したのかなって思ったんですけど、それと言うのも、例えば自分の家を作るって時に考えるサイズの問題とも深く関わってくるんですけど、あるいは家の構造のそのものについてなんですけど、今は壊れるものとしてみんな家を建ててないんですよね、絶対に、みんな地震が来るかもとか、30年くらいで朽ちるとかって言われてるから考えてるかもしれないけど、それは外からの情報なわけですよね、だけど基礎をしっかり作って、柱とか構造をしっかり組んで、もう断熱材とかもがっちりして建てるのが今の普通の家で、それを一年、二年で壊して別のところに持ってくなんて誰も考えたりはしないわけですよね、最低何十年間かのスパンでそこに建ち続けていることを前提に家を建てているんですよね、でも例えば家ってものが一年でほぐして別のところに持ってくって考えが当たり前だった場合ですよ、そもそもそれも含めての家であるっていうふうに考えた場合に、壊すことへの倫理観て働くのかなぁって、だからいつからそうなったのかなって僕は思ってるんですよ、それも今残っている家っていうのは残ることができる質のものが残っているわけですよね、例えばこないだアニメの平家物語を見てたんですよ、その時に最初の方の場面で市が立っていて、露店なのか普通の民家なのかわからないんですけど、それはほんとに人の身長よりも少し高いくらいの高さで、簡素に木組をして、入口にただ簾がかかっているだけみたいな、それで屋根に藁を葺いてあって、もう一日あれば解体できちゃうようなもので、と言うことはですよ、その頃の家は100年なんて絶対に保たないわけですよ、そうすると、これはMくんが思った解体への倫理的な抵抗感への否定ではなくて、僕が思っている疑問なんですけど、家そのものがもしもそうゆうふうに簡素に作っては解体し、農地だったり、狩りだったりとか、そうゆうものに合わせて移動していくことが常とするような生活観の中で生まれているものだったら、それが壊れることも含めての家だったのかなぁって最近思ってて、けっこう今は壊すことができないってことがみんなの重荷になっていると思っているんですよ、家そのもののサイズが果たしてほんとにその人たちに合っているのかとか、だって今ってだいたいの家には風呂があるじゃないですか、昔からしたらそれって王族の暮らしですよね、ひとりひとりに個室があるとか、なんか不思議だなって思うんですよ、今僕は奥さんと二人で台所と、和室がふたつ、便所、風呂っていう暮らしをしていて、一番狭かった時に僕は6畳のワンルームに生活していて、そこに二人で暮らすこともおそらくできたって考えると、なんか、僕は家そのものの形がもたらしているものなのかもなって、壊すことの難しさも、倫理観てものにも、だから果たしてそれが僕たちが背負うべきものなのかっていうのは考えたりするんですよね、

 それでちょっと話が飛ぶように聞こえるかもしれないんですけど、僕は啓榕社を始める時に焙煎小屋を自分で庭に建てて、道具を揃えて、場所は自分の店を持つのではなくて、既存の店をその定休日にお借りしてだとか、イベントに出店してやるって形をとることで、20万円でこの啓榕社を始めたんですよ、かつ2011年の震災後だったんでここから離れた場合でもできる、あるいは電気がなくなった場合でも続けることができる方法を設計することで、要は移動式ってのが一番簡素にできる形なのでお店をコンパクトにまとめたんですよね、それなら20万円でできるんですよ、20万だったら例えば一ヶ月がんばって仕事をするとか、半年くらいバイトをすれば余裕で貯まるくらいの金額なんですよね、かたやカフェ開業にすると自己資金が150万円で借金500万円とか普通にあるんですよ、だから普通にみんな諦めちゃうんですよ、でも僕はお金がなくてもできる方法はあるって考えて、だから僕は啓榕社そのものをひとつの作品として捉えているんですよ、それは社会的な側面から見た時にこれが作品になるだろうって考えで始めたんですよね、だからメニューだったり、コーヒーチケットだったりとか、焙煎小屋とかも含めて作品になるような形に実は落とし込んでたりもしてるんですけど、そうゆう意味ではアートとして構成することもできるのかなぁって思うこともあったんですよね、システムそれ自体に創造性があるようなね、それで僕自身はけっこうアートというものを社会に対するアンチテーゼであったりとか、社会的な問題を提起するものとして扱うってことに実は狭さをすごく感じる人間ではあるんだけど、もちろんアートにはその役割もあるし、けれど本来それは結果としてそうなるものなんですよね、なぜならば創造するってことが、なにかを作るってことが、さっき言った自然的な欲求から生まれるものであればそれを止める必要はないわけで、それが結果として売れるとか、結果として社会的問題に対するなんらかのテーゼになるとかは、それはつまり社会そのものが自然からずれてるからそうなるんですよね、社会的仕組みが自然に生まれたものとなんのずれもなければ、なにかを創造したところでそれはアンチテーゼにはなり得ないはずなんですよね、だから結果としてアートはそうゆう問題提起になりうる、それが最近は目的化されているってことは僕はけっこう感じていて、

 なのでこうゆうコミュニケーションも、例えばさっき言った伝わるとか伝わらないとかも結果としてなんですよ、言葉を発する時って僕たちは多分それを欲求して発しますよね、だから本来言葉っていうのは言語の意味だけでなく、響きだったり、動きだったり、要は歌や踊りってことですよね、そうゆうものも含めていたはずのものが結果として伝わる、伝わらないってことがあっても、今はそれ自体が道具や目的になってしまって、言葉が矮小化しているっていうか、僕はまさに今その矮小化した方法で言葉をしゃべっているわけだけれども、なんかそうゆうのに狭さを感じるんですよね、そうであれば考えるべきことはそこではないって思っていて、だからやっぱり最初に戻って、問いの立て方が重要だって言うか、それは本当に問うべき問いなのかって、そうゆうことが今回の《手紙》を読んで僕が考えた一番大きなことだったのかもしれないなぁ、まぁ、作品を作るってことは今言った自然的な欲求のことで、それが例えば売れるとか評価されるってことは社会的な俎上で生まれることなんじゃないかなぁって考えると、それらはどこか別々になってくるし、そうすると考えるべきことはどこなのかってのが見えてくるのかなぁって、だからMくんが家を壊そうとしたことも、記録を取り続けたことも、それをまたまとめようとしていることも、僕はある意味で自然の欲求から逸れていることと感じているのかもしれないけれど、そうではなくて、自然の欲求から生まれてるんだけれども、方法がもしかしたらずれてたりとか、言葉の選択がそっちの方に引っ張ってる可能性もあるし、それはたぶん、もともと芸術の制作として始めたというところに齟齬があったりするのかなぁとか、でもやり方はきっとあるんだろうなぁとも思うし、まぁそれは僕にはわからないし、自分でもなに言ってるのかだんだんわからなくなってきてるけど、

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