これでいいのか、どちらでもないか
「これでいいんだ」と思うことを、自己肯定と捉えるか低い志と捉えるか。
社会通念上正しいと思われる振る舞いは自信を背にしており、その自信は決して羞恥の欠落に因るものではない、と気付いたのはいつだろうか。
視座が異なる他人に自分の観念を持ち出すことはない。そこに介在する隙間がない。
いつでも意味のない相対評価に捉われている。
厚かましく無遠慮であれば、もっと楽に過ごせるとずっと思っていた。
正しくあるべき姿をそこに求めてしまったのが悪かった。
当たり前にできていなければならないことができない事実から向き合うのも、そこから逃げる場所を作るのも、どちらにせよ、無い袖は振れないのである。在るように在ることはできないことに大層悲しんで、諦めた。
消耗していく日々の中、なんとか拾い取れた自己肯定感を盾にしないと息もできないときがある。
とても良いとは言えないその一瞬を欠落している部分に押し込める。
そうするとなんだか幾分かはマシになったような感じがする。
しかしそれも時間が経つと忘れていく。押し込んだ欠片はそのまま持っていられるが、だいたい同じ形をした空白が別の場所にできている。
空白の総数はたいして変わらない。しかし、数は変わらずとも、体積が増えることはある。
最悪とまでは言えない程度の悪い状態は重なり続け、瞬きの間をとうに過ぎる。瞬間を積み重ねる回数と時間は長く続く。日がな抱えていたものは日々の慣習になっていく。帰結する場所がいつも同じなのがいけない。
どのルートを選んでも辿り着く場所を変えられない。
そんなふうに過ごすといつか歪みが生まれる。
大体の事柄において、どいつもこいつもどうでもいいのである。
損得勘定の話だろうか、先に出した相対評価の話だろうか、「選ばないでいられる」という選択ができることへの劣等感だろうか、あげつらおうと思えばいくらでも理由づけはできそうな歪みだった。
正しくあるべき姿があったとして、その形が相対評価に起因する限り、現状に納得するにはきっと遠い。そして納得できていないということは、以降に期待なり希望なりがあると言い換えられるだろう。これでいい、と思っていないということだろう。
これこそ歪みだ。ずっと「これでいいんだ」と思っているはずだった。
「これでいいわけがない」なんて対外的なポーズでペルソナばかり増やしている。