語り部としての自己認識
大人になって社会に出て、それぞれ異なる環境で見てきた景色を近しい目線で話をできる貴重な方々がいる。
移ろい、形を変える現在と、あまり趣味趣向も変わらない私たちの話の矛先は、ついに互いの根幹について手を伸ばすところまで行き着いた。
誰よりも足を止めているのは私だ。
背中を押されて始めたことはなんでもいいから文章を書け、だった。
「Just do it.」
NIKEかあ…エアフォースワン好きだしな……と思った。
記事を書くと、ついつい、文章が、長くなる。
だいたい原稿用紙4枚から5枚前後になるが無駄ばかりのため、でっかく削る。
考えを書きながらまとめる癖があるからだ。喋るより文章にするほうが思考速度を上回る、そのことに触れる記事も書いた。
喋るのが苦手であることがわかっていたので、許可を得て会話を録音させてもらい、改めてみた。
ひどすぎた。
ひどすぎて、とにかく、なんだこれ、と思った。
自己評価の低さどうこうではない。何について話しているのかがわからない。
主語がない。
これまでこんな話し方で「社会」をやっていたなんて、話にならない。
ただ、それ以上の感想がなかった。
今は手書きで文章をしたためることはほぼない。
だいたい推敲がしやすく、また編集ができる形がほとんどだ。
何かについて書くときには毎度「これは何の話をしているのか」を確認しては直している。
すべて前述のように思いつきで書いているから、主題が逸れて枝葉のように分かれていく。
それを推敲のできない会話でやっている。
ある程度「今回はこの話をしています」という軸があればいい。
話して腑に落ちることもあるが、それは対話のときなので相手ありきである。
見識の狭さに気付き、また自己解釈の強化にもなる、対話。
それがなかった場合、本当に何の話をしているのかがさっぱりわからない。しかもうだうだしている。
まったく由々しき事態である。
叩く文字くらいは美しくありたいが、その道程は遠いように思う。ひとまず、今回の気付きは大きい。大事にしたい。
ちなみに上記「雪国」の入りである一節には主語がない。なのに風景も言いたいことも伝わる。
これが文豪。