仕事を選ぶとは
わたしは、28歳からコンピュータの仕事に入った。別にコンピュータに興味があったわけでもないし、ましてや好きだったわけでもない。
食べるための仕事をいろいろさがしたが、沖縄では中途で採用してくれるところはなく、食べるためにコンピュータ会社で働き始めた。
しかし、日本では日産の次に、工場の自動化とPCでのコントロールのシステムを動かし、満足した。寝ていても、寝言ではプログラムを読み上げ、両手はキーボードを叩いていたというから、もともと模型や機械を組み立てるのが好きだったのが、はまったのだろう。それとわたしとペアで、わたしにいろいろ教えながら仕事をした友人が元エプソンの設計者で、ソフトにもハードにも詳しかったので、彼に助けられたと言って良い。
いろいろ会社を変わりながら、42年、この仕事を続けできた。
できるだけ新しく、便利でなシステムを、と考えていた。良いデータベースが無い40年前、自分たちで新しいインデックスファイルを開発した。そのおかげで、ハードディスクの小さい当時のPCで、 10 万点の書籍と全雑誌の管理ができ、丸善全店舗他多くの書店に納品させてもらった。
その後、Btrieve、Oracle、SQL、cloudと変わりながら、できるだけ新しく便利なシステムを、という思いは変わってない。
CCCの本部システム、ASPシステムでの書店システムの提供、南京の新華書店からの提案依頼(これは、ASPサーバーが中国国外ということで、政府から認められなかった)、シンガポールの書店への納品等は、楽しい記憶である。
新しいオモチャを作るような楽しみがあるのだろうと思う。
しかし、最近考えることがある。
ロンドンで書店店長をしたこと、沖縄でコンピュータ会社以外に仕事がなかったこと、その二つの偶然で、書店向けコンピュータシステムの開発販売が今のわたしの生活を支えている、ということになった。
どこにも必然性はなく、全く偶然のかさなりである。それだけわたしが自分の人生に計画をもって臨んでいなかったといえる。あるいは食べるためならなんでも仕事は構わなかったともいえる。実際、一時的にロンドンのカフェテリアでランチを作る仕事をしたし、切手のオークションで売れる切手を競り落とし日本に送る仕事もした。
コンピュータよりも、カメラと絵と詩は古くからの趣味、つまり楽しみである。本当はその道に進みたかった。美大志望だったが、美大なら学費は出さないという父に妥協したのだ。
そして、最近、心の奥底からささやく声が聞こえてくるのだ。食べるのはコンピュータである、しかし、写真と絵と詩に集中できる時がきたら、それもいいーーーーあと何年生きているかわからないが、そんなことを考えている。