かつて純粋に「表現」を楽しんでいた私へ
2020年6月1日。
2020年があと半年って、マジですか???
やば。
全世界の殆どの人が今日思ってるであろう
セリフを今、私、代表して言っちゃったかも。
他国語は話せないので日本語ですが。
突然に平穏だった日常生活が止まって、生活が一変して、当たり前が変わった。でも時間だけは無情にも過ぎて、きっとみんなまだ心は3月で止まってるんじゃないだろうか。
そんな世界が停滞して落ち込んでしまったいま
私個人は、
ずっとやってみたかった「書く」行為に
挑戦をしてみたいと思う。
誰かが私の文章を読んで元気になってくれれば〜
なんておこがましいことは考えておらず
自分のために自分がやりたいことをやってみる。
それがいつか、何かに繋がるかもしれないから。
世界が落ち込んだ時に、一緒に落ち込む共感性は、今必要ないと思うから。
記念すべき第1回目の今日は
"私は何故「書く」行為をするのか"
考えて過去を振り返ってわかったことを記します。(本当に長くなる予感しかない)
何かを「表現すること」が好きだった
思えば小学生の頃、(唐突な昔話、始まる)
生徒会主催のイベントへほぼ毎年のように自主的に参加し、何かを披露していた。
小学1年生の頃は「スイカの名産地」という曲
を友達とちょっとした振り付けを考えて歌った。
小学3年生の頃も何かを歌った。(覚えてないんか)小学校6年生の頃は「のだめカンタービレ」の寸劇を自分で脚本して友達数人にも出演してもらい発表した。(当時上野樹里演じるのだめの真似が十八番だった、あとできたのは「にしおかすみこ」。幅広い。)
全校生徒の前で何かをすることに躊躇無かった。
「寒い事やってんな」「つまんねえよ」と
誰かに思われる可能性を考えることが微塵もなく
私はその時、ただ一生懸命に純粋に
「表現すること」を楽しんでいたんだと思う。
中学では吹奏楽部に入り、
(これは絶対の絶対に、運動部に入りたくない故の選択だったのだけど)
チームで一曲を表現する喜びを知った。
高校では放送部に所属した。大会に向けて
題材を考え、原稿を書き、それを読む練習に明け暮れた。時々部活内で制作するTVドラマで演じたり、ラジオドキュメントのナレーションをさせてもらった。
放送部に入ったのも、当時仲良くなった友達が興味を持っていたのと、先輩が美人だったからという理由だったけれど
「表現する」ことができる場所をなんとなく
自分が意図せず、選択していたのかもしれない。
それに気づかなかった私は
大学進学で、当時の学力でも行けそうな文学部を選択した。
「寒い事やってんな」と思う側になった
大学生になって、本当は演劇だとかバンドとか
何かを表現するものに興味があったけれど
「寒い事やってんな」って思われるのが嫌で
辞めてしまった。
時代を少し戻って高校時代。(さっきの章で言うの忘れてた)
進学した高校はマンモス校だったから、いろんなジャンルの人が通っていたように思う。人の多様性を知り、自分とは違う価値観に耳を傾けることができればよかったけれど、自分を否定されることを恐れた私は、そこで保守的な人間になった。
「寒い事やってんな」と思う側の存在を知り、そっち側の人間のフリをして生きるようになった。
大学生活ではバイトばっかりしていたけれど、心のどこかで「私の人生、これでいいの?」と問いかけてくる声が聞こえた気がする。
就活迷走「表現者になりたい」ってどうすればいいんだろう?
バイト3割・学業2割・遊び5割の大学生活4年目
私も就職活動を当たり前のように始めた。
みんなあんなに遊んでいたのに、当然のように就職活動を始めて、当然のように働きたい企業があって将来を考えていて、すごく圧倒された。
私は一般的な就活対策を一通りして「自己分析」もみっちりやってそうして「表現者になりたい」
という自分の思いに気づくことになった。
自分は「表現すること」が好きだったんだ。
苦しくても「表現」している人に憧れがあった。そうやって生きていくことの楽しさを私は今までの経験から、少し知っている。
そんな風に思ったけれど自分は、何の表現ができるのか?それに、そうやって生きていける人は、ごく一部の限られた人だと分かっていた。
そうして自分の将来も腹を括って決められない
いちばん寒い人間になってしまった。
寒いと言ってる奴がいちばん寒い!
(『ごめんね青春!』第9話か最終話 )
どっちに進めばいいかわからなくなって、自分のことしか考えられなかった私は、静岡の実家に帰って毎日泣いた。
そんな時期にふと訪れた三島市にかつてあった
大岡誠ことば館(わたしの大好きな場所でした)で
アサダワタルさんが何かの本で
(本日、2回目の記憶喪失)
「表現者になりたい」と私のように悩む相談者に
「どんな仕事でも自分にしかできない"表現"がある」と回答してる文章を見つけた。
彼自身に興味を持った私は、著作である
『コミュニティ難民のススメ』(木楽舎、2014)を手に取った。
著作では、アサダワタルさんの経歴だけでなく、自身と同じように決まったコミュニティ所属せず、名前が明確に表せない複数の仕事を手がけるような人を「コミュニティ難民」と称し、そんな人を紹介していた。
いろんなことが繋がって掛け合わせて仕事が生まれていて、自分の知らない世界で名前の無い職業があることを知った。(これもまた結び、、)
その中でも、
(鈴木一郎太さんの発言↓)
本当にやりたいことはもっと抽象的な何かであって、そこに向かうために今の判断基準で選べる表現や規約を自分に課して、"これはやっとくべきだ"という直感のもとで進めるしかない(p229)
という鈴木一郎太さんの発言に私は惹かれた。
(本当にこの投稿、思った以上に長くなってしまったので鈴木一郎太さんの詳細は割愛します。惹かれておきながら、無礼な態度をお許しください)
そうして私は"これはやっとくべきだ"とその時
思った、アパレルでバイトを始めて就職を決めた。
人に褒められることってそんなにないから
元々接客が好きだった私には、
アパレルの仕事は楽しく思えた。
人の顔や名前を覚えるのも苦ではなかったので、自然とお客様と会話ができ、顧客様が増えた。
お客様の衣服に対する悩みを聞いて課題解決をして喜んで貰えたこと、自分を信頼して買って貰えた服をまた着て、再来店してもらえたこと。
接客で感じるやりがいはたくさんあった。
私ができる最大限の接客をすることがいつしか「表現する」ことの喜びと近しいものになった。
でも
新しくお店に届く新作のアイテムを
コーディネートするのが本当に苦痛だった。
苦手とかじゃなくてマジでわからねえという現象。目の前のお客様の課題を解決するための衣服は提案ができるのだけど、まっさらな状態で
ただ可愛いと思ってコーディネートをする
アイディアが思いつかなくて、レイアウトが苦痛に感じた。
そんな時 (本日の投稿の終わりが見えてきました!)
かつて戦士だった友人から
「私、あなたの描く文章好きだよ」
と言ってもらえたことを思い出した。
いやずっと前から言ってもらえててそれを脳内で反芻していた気がするけど
「書く行為」をすることだって怖かったから
できなかった。
もっと上手に文章を書く人はたくさんいて
さらに、もっと知識がある人はたくさんいて
さらに、もっと広い視野で物事を考える人はいて
浅はかな私が誰かを傷つけるかもしれないのに
言葉を紡ぐことをしていいのだろうか?
そんな風に考えて勇気が出ないでいた。
でも、
人から褒められることってそんなにないから
「何かを表現したい」という思いを実行するための「表現」方法として「書いて言葉を紡いでいく」ことに24歳になってようやく始めて見ることにした。それが誰かを幸せにしたり笑顔にできたら本当に最高だし、本当はそうしていきたい。
でも今は、自分自身が楽しんで
言葉を書いて紡いでいきたいと思っている。
そうして「キナリ杯」という作家の岸田奈美さん主催の素敵すぎるイベントに投稿してみた。これもかつて戦士であった友人の勧め。いつも後押ししてくれてありがとう。
この文章同様篦棒に長くなってしまったし、読み返したら一文も長すぎたけれど。
でもリアルタイムの自分の思考を絶対に忘れたくないと思ったから、記すことができて自己満足している。人の記憶ってどんどん変わってしまうし、大事なことも忘れてしまうからね。
(国領とかちなみにいま住んでないけど)
明日も毎日エッセイを書くチャレンジをしてみます。明日からもっともっと短くて、暇だなって時に気軽に読めるようなそんな内容を目指して。
おわり
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