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アイデンティティ方向音痴だった話

私はアイデンティティが定まらない。現在も、である。

多くの人間は「自分の故郷は〇〇だ」「私は〇〇出身だ」、などという個人のアイデンティティを持っていると思う。
私は最近になってようやく自分のアイデンティティを持つことができた。それは20代にしては未発達で他人と比べると赤子のようなまだまだ小さなものだと思う。

このnoteは私のアイデンティティと向き合った覚書のようなものである。

多分数年後には羞恥心で頭を抱えた私がこの記事を削除しようとしていることだろう。しかし、今の私はアイデンティティが定まらないどこかの誰かがこれを読んでこんな迷子でも元気に生きているんだなと思ってもらえればいいと思っている。

私にとっての出生地

私は転勤族の家庭で両親の地元ではなく転勤先であるC県に生まれた。とは言ってもC県で過ごした記憶は全く無い、2歳を目前に引っ越したからである。

両親からラーメン屋でラーメンを待ちきれずに号泣してご飯を分けてもらったことやクーラーが壊れておどろおどろしい格安旅館で素泊まりして一晩グズったことなどは何度も聞かされている。

しかし、私がどんな風景を見てどんな空気を私が感じていたのかは全く思い出せないのである

今でも生まれた土地なのに少しの記憶も無いのはその土地に申し訳ないな、と出生地を書類に書く度に感じる。でも私にとっての出生地はそんな存在であることもまた確かである。

幼少期に長く住んだ場所

B県は約10年間住むことができたが正直言ってほとんどの記憶がスッポリと抜け落ちている

B県から出る最後の2年間いじめられたことがあったらしい。細かいエピソードの記憶が無いのでおそらく長年思い出すことを避けた結果、楽しい記憶も辛かった記憶も脳が必要ない記憶として処理してしまったのだと思う。

地図とか風景、空気だけはすぐ思い出せることが唯一の救いだ。

断片的に覚えているエピソードは下着を便器に捨てられたことと教師が短気すぎてよく暴力をふるっていたこと、あと沖縄の血を引いていることを理由に穢らわしいとクラスでいじめられていたことだけである。

私よ、もっとましなエピソードは無いのか。

そもそも当時の私は沖縄の人という意識はなく、物心ついた時からB県で育った私もみんなと同じB県民だと思い込んでいた。

それでも沖縄県民は汚いって言われたのは誠に遺憾、沖縄県民と当時自分のことを沖縄県民だと思っていなかった私に謝ってね。うん、イマジナリーいじめっ子が謝罪したので特別に許す。

(子供というのは無知であるが、そのくせ知らない世界のものを悪意無く排除しようとしてしまう厄介な生き物だ。彼らが知り得る世界の外から来た私はただ排除されるしか無く、彼らもそうすることしか知らなかったのだろうと思う。だからこそ私たち大人ができるだけ多く知識や知恵を与えて彼らの生きる世界を広げてやりたいものである。)

両親の話やアルバムを見る限りは学校生活を除いてB県での生活は楽しかったようである。仲のいい習い事の先生や近所のお友達、同郷の転勤族家族との交流、正直言って私が思い出せるのは語られるエピソードの1割くらいだ。

話を聞く限りとても素敵な人たちに会えたのに思い出せないのはもったいないし申し訳ないけど、この忘却も私を構成する要素の一つなんだと今は思う。

両親の地元

そしてやっと両親の地元である沖縄県に引っ越したのは小学校生活も折り返しに入る頃だ。

優しくて頼れる親戚や優しい沖縄の人に囲まれてのびのびと今に至るのだが、ここでもアイデンティティ問題は発生する。ローカルな話題についていけないのである。

方言やローカルな話題は里帰りするたびに巨大な壁となり私を阻んでいた。引っ越してその土地で生活するなら当たり前に克服せねばならない問題なのである。

当時の私はB県の方言を完全に封印し、見様見真似で沖縄の話し方を真似してみたり、従姉妹に引っ付いて沖縄でメジャーな遊び方を学んだり、教室ではクラスメイトの流行に追いつくために話を一生懸命聞いたりした。

それでもついていけないのは幼稚園や低学年の時の話題である。

別に今思うとそこまで気にする必要はなかったのだが、当時はそれらが話題に上がる度に自分は皆と違う存在であることを突き付けられたようで少し寂しかったことを覚えている。

私はどこの人間なのか

この頃から私はB県の人でもなければ沖縄の人でもない、じゃあ私はどこの人間なのだと考えるようになった。考えれば考えるほど周りとの隔たりを心のどこかで感じていた。
(本来なら別に気にする必要は無くても子供の狭い世界だとなかなか気になってしまうものなのだ。)

他にもいろいろと周囲には迷惑をかけまくったのだが、それはいつか別の機会に書き留めたいと思う。

留学

そんな10代を過ごし、大学に入学した私はカナダに1年留学した。

正直入学後から2年次までは留学するなら韓国がいいと思っていた。韓国の言語や食、文化を学ぶのが好きな学生だったため、なぜ急に方向転換したのかと周囲に問われることも多かった。

理由はシンプルである。カナダはさまざまな人種、バックグラウンドを持つ人々が住む多民族社会である。
そんな社会のあり方にアイデンティティ方向音痴の私は救いを求めたかったのだと思う。

私のホストファミリーは中華系のルーツを持つマレーシアから来た移民と、カナダ人だけど母国語は完全にドイツ語のドイツ系カナダ人のパートナーだった。

毎日中華風だけどほのかに東南アジアを感じる料理を食べたり、

(キッチンに置いていたインスタントわかめスープにパクチーと唐辛子、あと鶏肉が追加されて驚いたこともある。美味しすぎておかわりした。)

知り合いのベトナム人やシンガポール人を呼んで料理パーティーをしたり、

(ベトナム人の友人の指導の元、私は生春雨巻き職人になった。確実に腕は落ちている。)

家族ぐるみで交流のある家族からイタリアの家庭料理を習ったり、

(クリスマスに一日中クッキー作った。あれは重労働。でもジンジャークッキーは最強に美味しかった。)

語学学校では日本人でもいろんな土地の人がいて標準語と関西弁と中国語とベトナム語が飛び交うロビーは心地よく、面白い空間だったと思う。

(銀魂のTシャツが印象的な中国人の友人から習った中国語が訛り過ぎて北京っ子に全く伝わらなかった。中国は私が思ってるよりも数倍広い。)

“普通”は絶対的なのか?

そんな日々を過ごして私は気づいたのである、

「アイデンティティって別に一つの

土地に縛られなくてもよくないか?」と。

この国では故郷に愛着を持つ人が多い、だから故郷のない人は”かわいそう”な人だし、出身地が皆にあるのは当たり前という認識を持ってしまいがちだ。

私もずっとその価値観が普通だと思っていた。でも私みたいな人間がいる限りそれは絶対ではないのだ。

故郷では無くルーツを探す

そんな私は最近、カナダで出会ったホストファミリーに倣って家族のルーツを調べたり関係がありそうな歴史を調べたりしている。

沖縄という土地柄なのか戦火で資料が失われていることも多い。そんな中でルーツを遡って調べるのは難しいが、それなりに楽しんで取り組んでいる。

興味深かったのは両親のルーツが同じ小さな離島だったことだ。そしておそらくどちらも中国に縁がある家系かもしれないのである。

いやはや、事実は小説より奇なりとは言うが、こんなこともあるものなのかと驚くばかりだ。

私のアイデンティティ

C県生まれ、B県で約半生を過ごすが記憶を殆ど持たない、沖縄と中華圏がルーツのアイデンティティ迷子の私のアイデンティティ探しの話はまだまだ続くと思う、多分。

また何かあったら追記するかもしれない。


おまけのしょうもない話

ちなみに爺ちゃんたちが中々やんちゃで調べてみると親戚が想像以上に多かったことに頭を抱えた。やんちゃするならせめて避妊してくれ、子孫が困るぞ。

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