生涯現役、68歳最高 二度目の人生※さあスタート

☆🍀第一章☆🍀

☆☆ 小学生時代☆☆

私は1951年3月生まれ68歳で、山梨の片田舎で生まれました、兄弟は兄と私の二人兄弟で二つ違いです。小さい頃は近所に5、6人位小学校1年せいから5年生位居て毎日暗くなるまで皆で鬼ごっこや石蹴り一個じよといっ

て地面に小さい穴お堀り*(蛤の形の穴を地面に堀一個徐二個徐と10ッコ取れたらその子の勝ち、と言った遊び)や縄跳び*(男の子はチャンバラ、チャンバラは立ち回り、メンコは丸い、厚手段ボールにキャラクターの絵が

書かれていた物を地面に代わる代わる打ち付けて風で捲れたれたら、勝ちと言った様な遊び)をしながら日が暮れるまで遊んでいました。そんな子供時代、私は兄の側にくっついて離れない様な内弁慶な子供時代保育園は行かず小学校に入学しました。

学校に行く途中に神社の参道に一礼してから学校に行き学校の門の前まで行くと教室に入るのが嫌で大泣き💦😭💦兄は相当困ったと思いますが(笑)、そして帰る時には朝とは違い喜んで帰った事、又神社の入口の所まで何時も

エスと言う名前の犬を飼っていたのでそのエスがかなり離れていた場所の神社まで何時も迎えに来ていた事を思い出します、とても良い思いでです。小学校の時の夢は路線バスの車掌さんになりたかった。あの帽子と制服に憧れていた、もう一つは美容師です。髪の毛をいじるのが大好きで6年生のころ近所の家のおばあちゃんの髪の毛を綺麗に結い上げては遊んでもらった事も良い思い出です、その後夢は叶った❔❔❔

1960年代と2019年年代の違い

学校生活☆☆

机は木製、椅子も木製、暖房器具はたるまストーブと言って薪をたき木にし燃やして、暖めた、学校給食がはじまったばかりの頃

給食の時間になるとすとーぶにやかんのお湯を掛けストーブの上を綺麗にし子っぺパンをやき食べた

今は

お掃除は雑巾ごけがけバケツにみずをくみ雑巾を搾って拭いた、そのあと米糠のはいった袋でからぶきでみがきをかけるといった当時の様子です
洋服は

お父ちゃんとの思い出

、村山六ヶ村堰の出来事;今と昔;農家だった我が家、60年前小学生の頃は田んぼの水の取り合いが有ったと聞きました、おとうちゃんと暗い夜道を手を繋いで歩く、楽しいような怖いよう不思議な感じでした、今では全てが

自動化しIT化し便利になった事が当たり前の日常だと思います、皆さんにはきっと想像する事は出来ないと思います。他にも沢山の思い出はあります。が一番印象的でハラハラドキドキの思い出です如何してその様に皆が頑張ったのかは六ヶ村堰疏水名鑑に書いてあります

三分一湧水の様な二又に別れた川に成っていた、川俣川渓谷から流れている大きな川の水を田んぼに流さないと田植えの準備が出来ないため夜中に水を取りに行く、見つかれば大喧嘩に成ったのではないかと思います。

それだけ水が農業用水や生活用水の確保が大変だった事だと思いした、緊張感の中水を流す役目をているおとうちゃんに付いて行き懐中電灯を持ち川の水を塞き止め水を流すその様子をみていた、懐中電灯をけせ!!と

お父ちゃんの声その時の様子は;こうです。蓙(ござ)稲藁で畳の目の様に編んだ畳1畳位の大きさのもので水をさえぎり田んぼに水引いた(水を流した)、水の威力と凄さをと怖さを感じました、

今回この自叙伝を書こうと思った時色々と思いを巡らせ調べ先人たちがこの村山六ヶ村堰を後生に残す想いと、それを受け継いで又次の世代に残そうとしている故郷の皆様の想いを感じ改めて素晴らしい遺産なのだと感じまた。

幼い頃の思い出がこんな風に人の生活に係る事は知らずにいました、この地に生まれ育ったことに幸せを感じます

疏水百選六ヶ村堰

六ヶ村堰疏水名鑑より引用

歴史は古く約千年前 に、開削された 八ヶ岳南麓には、湧水ヶ所が点在しており、先人たちは水系ごとに苦労して農地に水を導き、稲作が出来るようにしました。その中には、『八右衛門、鳥の小池』などのように伝説が語り継

がれている湧水もあり、この地で人々が生きていくために、水が如何に大切であったか知る事とができます。近年は、清らかな農業用水、冷涼気候や観光地など自然と立地条件を活かし、地域の特色のある野菜や果樹、花

卉など高品質化に取り組む農家も見られるようになってきています。
 八ヶ岳川俣川東沢から開削し取水した先人たちは、この八ヶ岳南麓に広がる広大な農地を残してくれました。地元では村山六ヶ村堰の疏水を守るた

め、農業用水の新たな活用方法として水力発電という自然エネルギーに取組み、『水と緑と太陽の恵み』を次世代の人々へ伝える施設を整備して地域の活性化に努めています。六ヶ村堰疏水名鑑に書かれておりました。

☆🍀第二章☆🍀

☆☆中学生時代へ続く☆☆

今では考えられない時代55年前、昔を知り今を令和を生きる
(西暦1964年昭和39年)東京オリンピック開催される一番印象的だったのはバレーボールニチボウ貝塚大松監督率いる女子チーム      キャプテンは河西さんでした決勝戦は確か現在のロシア当時はソビエト連邦キャップテン 

リスカル凄い試合でしたその影響もあり中学に入学したらクラブ活動でバレーボールに入りたかったのですがスクールバスに乗れないので部活はできませんでした、そんなわけで友達ともあまり遊びに行くことも無かったかも知れません、
いざ思い出そうとしても何も出てこない恐らくスクールバスで帰っていたので今のようにコンビニがる訳でわないし学校が終わればバスで帰り家に帰っても家の手伝いや御飯の支度で遊んでいる暇がなかったと思う、

その当時何処の家でもそうだった、献立と言えばおほうとう(農家ですから季節の野菜や味噌は手作りなので、家にあるもので作り、ほうとうも母に教わり、小麦粉でぬるま湯を入れ捏ねて寝かしてのし棒でのし(うすく伸ばすことお蕎ご飯麦の様に)と言った毎日、そんな中学で2年、3年生になり友

達が出来先生の家に遊びに行ったり楽しい日々もありました、又3年生になると進路についてどうするのか考えなければいけない時期でもあります。    しかし私は将来の夢ははっきり決めてました。


それは和裁か美容師になり将来は自分の店を持つと、しかし、父は高校位は出ないと駄目だからと言われ、仕方なく高校へ行くことのしたが、もう皆進路は決まっていて高校へ行こうにも選択肢は無かった、それに勉強も余り好きでは無かったのですしを着たりして、でも組合立の高校の入学試験を受けて入った。中学校で見た夢は現実に成ったかは???

日常的のお手伝いは

夕方畑や田んぼから帰って来る両親は乳牛を7、8頭飼っていたので大変でした。子供心にこんな仕事はいやだと思っていた。牛の餌はサイロと言ってトウモロコシの茎をコンクリートで出来た(北海道の牧場にある筒状のも) にカッター(まるでキリンの様な形をした)物を詰め、その中に人が4.5人、入り青い草、牧草などがない時期冬の時期に食べさせる為、牛の保存食と言

ったものを皆で踏み固め冬の間に封を切り食べるさせる。そのサイロに詰めたトウモロコシは発行するので、甘酸っぱい匂いがしましたが牛は美味しそうに食べるのですが、鼻を衝くツーンとした匂い、音を立て食べる姿を見ると良かったね~~!!。その姿を見ると可愛いいなと思う瞬間です

牛を飼う、喜びと悲しみと感謝

お父ちゃん、とお母ちゃんの自慢は牛乳の品評会があり何時も金賞頂きとても嬉しそうでした、父ちゃん母ちゃん凄いなあと思っていました。生き物を飼うと言う事は傍から見ているよりすっと大変な作業です。

朝は5時に起きて餌をあげ搾乳、昼も餌,水やり、夜は又餌,水やり搾乳そして寝る前には様子を見に行く、といった一連の作業です、大変な作業が続き365日休みなしです。喜びも悲しみもあります、それは子牛が生まれてすぐにミルクを母親からはあげられないので私はお父ちゃん達が搾ったミルクをボールに入れて自分の指を3本立てて吸わせてあげると喜んで飲んでくれます。その時は子牛の可愛さは飼った人でないと中々分からなと思います。

子牛はとても可愛い顔をしています鼻はまるい楕円形の形をし目はつぶらな瞳でとてもかわいい鳴き声は少し高めで ンッモォー!~~っと(^:^)

悲し時出来事

悲しいこと共に暮らした牛も病気になり売れなければならない時はとても悲しい売られて行く牛も分かるようで中々トラックに乗らないし無理やり乗せると涙を流し悲しそうに泣きます。そんな時は私たち家族も泣きながらお別れします。子牛も同じととです他の家に行く時、その時はとても悲しいですずーっと一緒にいたいし家で大きくしたい牧場で飛び回り大きくなって帰って来てと思いますが、売らなければならない時。それを見ていて皆で泣いたことも何度もあります、乳牛も家で生活を共にする家族と一緒です皆感謝の気持ちで見送ります。(!:!).ねでも仕方がないと言い聞かせながら

自家製チーズを作り

自家製チーズ作りはお母さん牛が子牛を生んで牛乳の脂肪がありすぎて牛乳を出に出来ないのを家の台所で大きな鍋に一杯の牛乳を入れそれを沸騰させ寸前に火を止めて酢を入れるとまとまり水分、と脂肪に分離しますので、それを越し食べると市販のチーズとは別物水分を重しを置いて絞ると豆腐の様なカッテージチーズができあがります。牛からの年に何回かの贈り物です ありがたく皆で頂きました、ご近所様にもお裾分け。

牛を飼う、喜びと悲しみと感謝

又悲しみは牛が病気になり売らなければ成らないとです、そんな時は牛も分かるので中々トラックに乗らなかったり目から涙をこぼしたます。それを見ていて皆で泣いたことも何度もあります、乳牛も家で生活を共にする家族と一緒です皆感謝の気持ちで見送ります。(!:!).

そんな中学で2年、3年生になり友達が出来先生の家に遊びに行ったり楽しい日々もありました、又3年生になると進路についてどうするのか考えなければいけない時期でもあります。しかし私は将来どうしたかいと言う事は

小学生の時から変わらなかった夢
それ和裁か美容師になり将来は自分の店を持つと、しかし、父は高校位は出ないと駄目だからと言われ、仕方なく高校へ行くことのしたが、もう皆進路は決まっていて高校へ行こうにも選択肢は無かった、それに勉強も余り好きでは無かったけど組合立の高校の入学試験を受けて入った。夢は現実に成ったかは???

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☆🍀第三☆🍀

高校生時代へ

一番楽しかった高校時代大きい高校では無かったけれど沢山の良い友達や先生たちこの高校に入学してよかった山梨県だけでは無く、長野県、岡谷、 諏訪 信濃境 川上村(南佐久郡)素晴らしい友達との出会い
長坂高校ほ1学年3組で中学校より生徒数はずくなかったがクラスの皆がとてもなかがよかった。先輩も凄く面倒見が良く高校に来てよかったと思ったことを思い出します。クラブ活動はバレーボールに入部毎日練習に明け暮れた日々。

夏休みにはが合宿がありました一年の時は皆は学校で寝泊まりしましたが 私は泊まる事は父の許可が降りず出来ませんでした、2年生になった時からは 晴れて夏休みの合宿に参加でき練習し食事のの準備など皆で行い先輩に頑張って貰いました、勉強もまあまあでした。

時には??悪い事も
友達と 前の日に口約束し風邪で休み友達がお見舞いに来た事も有りましたが、今で言うサボりです。そんなに簡単に先生は騙せない、その時の友達は電車通学で電車に先生が乗っていてバレてしまい次の日私の父は学校に呼び出される事になり先生と親にこっぴどく叱られこともありました(*^▽^)/★*☆♪
そんなにな学生生活も卒業の時期を迎えました。

色々就職も考えました小学校で夢見た美容師や和裁の先生、母の影響で和裁の先生もと考えましたが全部地元から離れ甲府に行かないと成れなかったのでそれも父が心配で近くの会社で良いじゃないかと地元の会社のバルブの会社に就職

就職か進学か勿論県外に出たりすることはできませんし家から通う事が出来る企業に就職をしましたキッ@北沢@@@です。と云う固まりを赤く焼きプレス機でプレスしたのであつかったことを覚えていますその時であった当時の係長に少し体調を崩し他部署に移動するか辞めるか迷い相談に行ったとき、僕に任せて任せて下さいと言って下さった時はとても嬉しかったです

そこからから生産管理の仕事をし外注さんの納品、出庫の仕事をしましたそこから仕事の大切さを勉強をさせて頂きました。製造、工作、仕上げまた製品にして出荷に間に合わせる。などそこから外注さんとの打ち合わせ納品や部材を出荷する間に合わないとどの位の人に迷惑がかかるか仕事の責任を学ぶ事が出来たことは現在の仕事に通じるものが沢山ありました。

今現在も会社がさらに大きくなっていること嬉しく思います。

そして私の人生の分岐点であります。結婚・・・結婚はお見合い結婚でした

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5月に紹介して頂きお見合いをし11月に結婚しました結婚生活は(こんな人生が待っているなんて想像も付きませんでした)

主人は温厚な真面目な性格で正直者な人で独りっ子口下手は人です仏壇店を経営していたのですが、新婚旅行から帰ってきたら仏壇店の経営が大変な事に借金が有りま義理の父と再婚相が作った借金が1000万近く(;_;)/~~~有りました可愛がられ育った私の父が!!怒らない訳がありません、父に話嫁ぎ先から嫁入り道具を持ち帰り田舎の事で近所の噂に成らないように神奈川に兄がいて独身だったのでそこでアパートを一軒借り荷物を置きそのまま4ヶ月別居をしていた私、田舎の父と母は呼び寄せるのに新しく家を買ってくれた凄い父と母です。その時のことを考えると父と母には心配を掛けてればかりで何の恩返しも出来ずに二人とも亡くなってしまいました、今改めて思う親の深い愛情を感じました。
其から私達は某山梨の新居引っ越し一男一女を設けました主人は某有名食品名メーカに勤め73歳迄努めてくれました。

その後第二の人生の恥稀です波乱万丈人生

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