東京五輪開会式とすぎやまこういちの話
だらけです。
2021年7月23日に東京オリンピック2020の開会式が行われました。私は当日夜も仕事だったので、その様子は後から確認しました。開会式での選手入場の際に、(日本の)ゲーム音楽がメドレー形式で流れました。自分にとってとても耳なじみがあり、よく知っている曲が流れてくることに嬉しくなりました。それはツイッターにいる多くのゲームファンや、ゲームクリエイターの人たちにとっても同じだったようです。特にビデオゲーム黎明期からか関わってきた人たちにとって、それまである意味「虐げられてきた」ゲームが、オリンピックのような晴れ舞台で披露される日が来ることに大きな感動があったようでした。あの曲も知ってる!この曲も知っている!とさながらイントロクイズのように次に来る曲を心待ちにしながら見る選手入場は非常に楽しかったのだと思います。
(世界的な・世間的な)知名度にはやや疑問点が残りつつも、場を盛り上げる曲に枚挙がないゲーム音楽というジャンルは、ある意味では良い選択だったのかもしれません。ここで使用された曲も壮大で盛り上がるような曲が多く使われていたと記憶しています。
本題に入ります。
入場曲で用いられたゲーム音楽メドレーでは、すぎやまこういち氏が手掛けた「ドラゴンクエスト」シリーズの曲が使われました。実は私は「ドラクエ」には縁がなく、シリーズタイトルや派生作を含めても数タイトルしか遊んだことがありません。そんな私でさえもドラクエの「ロトのテーマ」などはイントロを聴けばすぐにわかるほど、すぎやまこういち氏の曲はゲーム音楽の歴史のど真ん中にあります。ドラクエファンのみならず、ビデオゲームファン、ビデオゲームクリエイターなどゲームに関わる人たち全てに影響を与えた人だといっても過言ではないでしょう。プロアマ問わずコンサートで演奏されることも多く、日本国内にも、海外にも十分な知名度がある作曲家です。
「各国選手入場をゲーム音楽のメドレーで行う」というコンセプトで作られたのならば、すぎやまこういち氏の曲が使われるのは当然のことだと容易に想像ができます。しかしながら、今回のようにオリンピックで氏の楽曲を使用するのは、別の点で大きな問題があると私は考えます。そしてそれは、私がゲーム音楽ファンという立場だからこそ、私から声を挙げるべき問題だと思いました。
「保守論壇」という立場
「ドラクエの作曲家」という顔がよく知られているすぎやま氏ですが、一方で彼は熱心な「保守派」とされています。(長らく「保守派」と表現されていますが、もっと的確に言えば「愛国者」だと言えるのではないでしょうか。当然この「愛国者」ではいわゆる「ネトウヨ」の意味合いを含む使われ方です)保守論壇の政治家・思想家とも交流があり、自身で政治家の応援歌を手掛けたこともいくつかあります。
作曲家としての活動と同時に、政治的な活動も行う。これはごく普通のことでしょう。社会に生きている以上、みなそれぞれ思想を持ち、価値観があり、それに基づいて生きてゆき行動してゆきます。
問題なのは、すぎやま氏の思想やそれに基づく発言についてです。
LGBTへの差別意識
すぎやま氏と彼の思想に近しい人たちとの交流は、インターネットを探せば山ほど出てきます。彼らとの交流の中ですぎやま氏の発言を集めると、多くの差別的な発言が散見されます。そしてそういったものは多くインターネット上で記事にされています。
動画でご覧になりたい方は、こちらのツイートを参考にしてください。
記事内で度々登場する杉田水脈という人についてはこちらをご覧ください。
「生産性がない」でよく知られた杉田水脈氏と懇意にしその思想に大きく同調するすぎやま氏。そして今回、彼の楽曲がオリンピックの開会式で使用されてしまいました。
五輪憲章に反するのでは
今回のすぎやま氏の起用について、既に海外メディアから批判記事が作られています。
これより前に、五輪開会式に関係する人で、チームメンバーの小山田圭吾氏、総合演出担当の小林賢太郎氏がそれぞれ辞任・解任とされています。その際に組織委員会の橋本会長が述べていたのは、五輪憲章の根本原則でした。
五輪憲章はこちらからも確認できます。
五輪憲章の「オリンピズムの根本原則」より引用
第2項
「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役だてることである。」
第4項
「スポーツをすることは人権の1つである。すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。オリンピック精神においては、友情、連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる。」
第6項
「このオリンピック憲章の定める権利および自由は、人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」
第7項
「オリンピック・ムーブメントの一員となるには、オリンピック憲章の順守およびIOCによる承認が必要である。」
小山田圭吾氏の辞任を受けた後の会見で、橋本会長はこう述べています。
「人権や人間の尊厳を踏みにじるオリンピック・パラリンピックなど存在しない、してはいけないのだということを組織委員会として再確認し、開会式を迎えたいと思います。」
小山田圭吾氏の辞任は、彼が過去に行った凄惨ないじめ行為及びそれを面白がる発言や価値観に対して非難の声が多くあがったことがきっかけでした。小林賢太郎氏が解任された理由は、過去の演目でホロコーストを用いたものがありそこでの表現が問題であるとJOCが判断したからでした。小林氏はその後東日本大震災への支援に力を入れる活動などもしてきましたが、それでもJOCは相応しくないと判断した形になります。
小林氏が解任されるならば、LGBTという性的指向の人を揶揄し誤解を生む発言を繰り返し、またそれを推進する意見に同調し続けるすぎやま氏も当然解任されてもおかしくない立場ではないでしょうか。もし小林氏の劇が好きな人たちに「なんで小林賢太郎は解任されたのに、すぎやまこういちの曲は披露されて、あなたたちだけヘラヘラ笑っていられるの!?」と問い詰められたら、私は返す言葉がありません。当然すぎやま氏も同等の処分が必要な人だと考えているからです。
ゲーム音楽ファンだからこそ
今回の開会式でゲーム音楽が用いられたことは、とても嬉しいものでした。と同時に残念な気持ちも小さくありません。今回の五輪開催に至るまでは、多くの問題がありました。そしてそれらの問題の多くはいまだ解決をみることが出来ずむしろ悪化しているものばかりと言えるでしょう。増加し続けるコロナウィルス感染者と、目の前に迫った医療体制の逼迫。今苦しんでいる人を置いてけぼりにしながら、オリンピックに関わる人たちに優先される検査体制や医療体制。森元会長の辞任に繋がった女性蔑視発言と丸川五輪担当大臣が繰り返す無責任な態度。あらゆる人の命や生活、人権が蔑ろにされたまま「もう決まったことだから」という理由で開催されるオリンピック。
この先に東京2020オリンピックを振り返る際に、どうしてもこれらの問題は改めて突き付けられます。私は、大好きなゲーム音楽が使われるオリンピックならば、もっと胸を張って誇れる素敵なオリンピックであってほしかったと大きくため息をつきました。そしてそのため息の中には、すぎやま氏の様々な問題発言も含まれています。
すぎやま氏は、ゲーム音楽の歴史の上で欠かすことは出来ないほど、大きな影響のある人であり、多くの素晴らしい楽曲を生み出してきた人だ。けれども、LGBTへの差別意識など彼の持つ価値観はオリンピックにはふさわしくないものだ。
私がゲーム音楽ファンであるからこそ、ファンの立場からこう表明する責任があると思いました。
ゲーム音楽ファンの方々、そして開会式の演出で大きな感動をもらった方々に、改めて問い直します。「LGBTへの差別を助長する発言を繰り返したり、その思想に同意をするすぎやまこういち氏は、オリンピック開会式に関わることが許される人なのでしょうか?」
(以下追記)
有名無実になりかねない
すぎやま氏の話題からは少し逸れますが、多くのゲームファン・ゲームクリエイターが件のメドレーの話題について触れています。その多くは「ゲーム音楽がオリンピックに使われることで、認められたことが誇らしい」という趣旨の投稿です。
確かに国際的な場で披露されるということは、クリエイターにとってとても誇らしいことなのかもしれませんし、それを愛するファンとしても嬉しい限りだとは思います。しかしながら、大事なのはその取り上げられた中身だと思います。誰が取り上げたのか、どのような経緯で取り上げたのか、どのような意図があるのか、採用を決定した人や団体はどのような価値観なのか、これまでどのような活動をしてきたのか。「オリンピック」という大きな看板こそ掲げてもらえましたが、今回のオリンピックは後世に誇れるようなオリンピックなのでしょうか。
欲しかったのは名誉だけだったのでしょうか。本当に「社会に認められた」というならば、なぜ”認めた”為政者側は補償も支援もしないのでしょうか。「オリンピック」という肩書に興奮して、その中身を確認するのを忘れていないでしょうか。
差別のない世界のオリンピックでゲーム音楽が流れて、なんの憂いもなく、オリンピックを楽しめる日が来ることを、心の底から願っています。
たくさんのゲーム音楽演奏会に参加して、たくさんレポートを書いてゆく予定です。