【10月10日&10月25日世界宣教祈祷課題:🇪🇬エジプト🇪🇬】
少し長いが、エジブトの採石場で働いていた少年の人生にまつわる美しい証しを紹介したい。(音声はこちらをどうぞ:7月26日に既にFB掲載している記事の転載となります)
上エジプトに住む20代半ばの青年バヘルは、この10年間、怒りと絶望の中に生きてきた。当時13歳だった彼は、地元の石切り場で働いていた。夏の39度の暑さの中、彼は石を切って運んでいた。少年にはあまりにも過酷な仕事だったが、この職に就いてわずか1週間だったとき、日中の炎天下は、少年に一瞬の立ちくらみを生じさせ、石の切断機が彼の足に当たり、それは骨まで達っした。
次の瞬間、今度は地面に倒れたバヘルの腕を切断機が襲った。バヘルが目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。脚を65針も縫い、片腕はなくなっていた。たった1日の間に、バヘルは身体障害者となってしまったのだ。バヘルの労働力が失われたため、家族を養うための収入を得ることはバヘルの兄一人に集中したが、到底彼一人で負い切れるものではなかった。しかもバヘルは、仕事をできないばかりか、今では障害を負う身となってしまったのだ。
バヘルは、退院した当時の心境を振り返る。
「病院を退院して、障害者として家に帰って初めて、私は自分の身に降りかかった災難の大きさを実感しました。私は人生を呪い、あきらめました。自分を憎み、神を憎み、責めたのです。『なぜ私にこんな仕打ちをするのですか?私は何も悪いことはしていない!家族の家計を助けたかっただけなのに!なぜこんな私を選んでこれほどの苦しみを与えるのですか?周りのみんなは、私を哀れな目で見ます。私は一生、このままなのでしょうか?』」
ところが6年後、バヘルの家族を新たな災難が襲った。今度は兄が労災に遭ったのだ。しかも兄の方は致命的だった。バヘルの兄は、採石場で、むき出しになった電源コードに感電した。本来なら、すぐに医師の手当てを受けさせなければならないが、現場の上役は、バヘルの兄にそのまま仕事を続けさせたのだ。
バヘルはその時の詳細を昨日のことのように語る。
「彼らは、仕事を早く終わらせたくて、兄を現場から離れさせなかったのです。兄は痛みに耐えきれず、心拍も早くなり、ついに息もすることもできなくなりました。肺は細かい粉塵で満たされいたのです。私たちは兄を救おうと、一番近い医療センターに急ぎました。しかし、緊急事態に対応できる設備は整っていなかったのです。医師は聴診器で診察しましたが、十分な処置ができず、兄はすでに帰らぬ人となっていました」
バヘル自身は、自分の事故で、すでに信仰の危機に陥っていたが、兄を失ったことは、それに追い討ちをかけ、引導を渡す決定的な出来事となってしまった。
「私の心は引き裂かれ、生きる希望を完全に失いました。心の傷と怒りで、私は、神と教会に、完全に背を向けたのです」当時の苦々しい思いをバヘルはそのように回想する。
イエスに従うという決断が、しばしば人生の選択肢を奪ってしまうエジプトのような場所で、バヘルと彼の家族たちも、多くの信者を苦しめる終わりのない悪循環の犠牲者たちの一人だった。
バヘルの家族は、キリスト者が、劣等な二級市民のような扱いを受ける地域に住む、エジプトのキリスト教一家だった。そのため、人生の選択肢がほとんどなく、採石場のような危険で低賃金の仕事に就くよりほかにない。こうした家庭には学費を払う余裕がなく、子どもたちは、高収入の仕事に就くために必要な教育を受けることができない。エジプトでは、多くのキリスト者が、信仰的出自のために、人生の悪循環を脱することができないでいる。
バヘルの家庭では、父親は末期的な病いで働けず、母親は糖尿を患っていた。家族が学費を払えないため、バヘルの教育は小学校4年生で終わった。兄とともに、彼は家族の面倒をみるために、学校を中退した。バヘルの家族が住んでいた厳格なイスラム地域社会では、女子が教育を受けたり仕事をすることが許されていなかったため、彼の4人の姉妹は学校に通うことも働くこともできなかった。
「他の同級生が学校に行っているのに、自分は行けないというのは惨めでした。両親は教育の重要性を理解していたかもしれませんが、生きていくために働かざるを得なかった。それ以外の選択肢はなかったのです」バヘルは悲しげに漏らした。
バヘルや彼の兄のような若いエジプトの少年や男性にとって、採石場はよく言えば緩やかな衰退、悪く言えば避けられない死の罠を意味する。労働者たちは、安全面と衛生面でひどい労働環境を強いられるが、労働の対価としては低い賃金しか得られない。また、労働者の権利は法的に保護されておらず、健康保険にも加入していない。
バヘルの村の子どもや若者のほとんどは、自分たちが採石場で働き、身体が動かなくなるまで石を積んで、ダメになっていくことをよく知っている。彼らの父たちも祖父たちも、そうやって体がきかなくなって死んでいった。村では皆がそれを目の当たりにして育ってきた。
「私たちの共同体の若者たちは、常に強いプレッシャーにさらされています。他に仕事がないので、採石場で働かざるを得ません。私もいずれは兄の仕事に自分も就かなければならない、そう考えただけ怖ろしくなったものです。毎年、不健康で危険な労働のために、何人もの死傷者が出ていました。仕事が終わって採石場を離れるたび、プレッシャーから解放されて、生まれ変わったような気持ちになりました」
バヘルが言うように、安全対策のない古くて整備不良の機械が原因で、採石場で働く労働者が手足を失うことはよくあることだ。「私たちが常に直面しているもうひとつの危険は、掘削機や石切り機による粉塵です。切り石の粉塵を吸い込むと、深刻な肺障害や眼病を引き起こすのです」
バヘルは涙を流しながら説明した。
兄が亡くなった後、障害者のバヘルは、一家の稼ぎ手とならざるを得なかった。肉体労働ができない彼は、ロバが引く荷車を買うなど、他の方法を探した。 「砂利や砂、その他の軽い建築資材を荷車で運ぶようになりました。しかし、誰も障害者の私を雇おうとはせず、断られることばかりでした」
絶望がバヘルと彼の家族を飲み込みそうになったとき、神は、オープン・ドアーズの地元の同労者の一人を通じて、バヘルの家族に憐れみ深く介入された。エジプト社会で迫害され、疎外されているキリスト者の共同体に重荷を感じているその同労者は、霊的、社会的、財政的支援を提供するために手を差し伸べている。彼らが援助をしている共同体のひとつが、偶然にもバヘルの地域の採石場の労働者たちだったのだ。
オープン・ドアーズの同労団体のスタッフであるファディは、バヘル一家が住む山間の村で初めてバヘルと会ったときのことを覚えている。その時のバヘルは、惨めで不安そうだったと彼は振り返る。「バヘルの家は家具もあまりなく、暗かったです。彼の心は神への恨みと憎しみでいっぱいでした。私が部屋に入ると、はじめバヘルは、私と話そうとしませんでした。ところが突然、彼は怒りを爆発させて言いました。『神がいるだって?どこに神がいるというんだ!あんたが言うように、神は善いお方で、すべてを支配していると言うのなら、なぜ神は俺を見捨てたんだ!あの石切場の事故の時、神はいったいどこにいたんだよ!なぜ神は、こんなひどい苦痛を与え、障害者となるようにと俺を選んだんだ?』」
ファディの返答は優しく、しかし真理に満ちていた。
「神は私たちの天の父であり、父は決して子どもを見捨たりはしない。私たちは、誰ひとりとして、偶然に生まれた者はいない。この地球上の誰もが、神によって創造され、成し遂げなければならい目的を持って生まれてきたんだよ」
しかし、バヘルの悪態はやまなかった。「神は何も支配なんかしちゃいない。でなけりゃ俺たちは神の手の中にある操り人形だ。俺を見れば、あんただってはっきりわかるだろう?」
ファディは再びバヘルを励ました。
「本当にひどい話だ。君の怒りや、憂鬱な気持ちはわかるよ。でも、どうか希望を失わないでほしい。神は、私たちが悩む時、決して遠く離れているわけではない。神は、決して君を見捨てない。神はすべての被造物に対して、完全な主権を持っておられるよ」
その日以来、このパートナー団体は、バヘルと彼の家族とともに歩み、ともに過ごし、祈り、羊を飼育する小規模支援など、実際的、感情的、霊的な支援を提供してきた。ファディが訪問を続けるにつれ、バヘルは彼とミニストリー全体に対する信頼を次第に深めていった。そして何と、やがてバヘルの心の傷は癒やされ、ミニストリーの弟子訓練グループに登録するまでに信仰を回復していったのだ。
小規模支援は非常にうまくいっており、バヘルは、家族を養うことができるようになった。彼は、このプロジェクトがなければ、自分も家族も貧困に喘ぐか、もっとひどい状態になっていただろうし、彼の心もまだ、苦々しさと痛みに苛まれていただろうと言う。ファディとの出会い以降、バヘルと彼の家族の生活は劇的に変化したのだ。
「私たちは神を非難することから、神を賛美することに焦点を移し、今では定期的に家族とともに教会に行っています。ミニストリーから提供された小規模支援に助けられています。もしファディが私を支援してくれなかったら、私は変わらなかったでしょう。あなたは私に、もう一度立ち上がる勇気を与え、神との関係を回復する手助けをしてくれました」
バヘルは、字を読めないが、弟子たちのグループは、そんなバヘルでも、神の御言葉を生活の一部にできる方法を教えてくれた。
「オーディオ・バイブルのおかげで、毎日神の言葉を聞き、神との親密な関係を経験することができます。イエスが私のすべてだからです」
バヘルは、迫害されている多くのキリスト者の一人であり、オープン・ドアーズは、小規模支援や弟子訓練を通して共に歩んでいる。昨年、エジプトだけでも、オープン・ドアーズは採石労働者のための120のイニシアチブを含む969のプロジェクトを支援した。またパートナー団体は、弟子訓練プログラムを通して約27万人の人々に奉仕している。そのうちの約1,000人がバヘルのような採石労働者だ。
聖書は言う。
"あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。ヨハネ13:34,35
劇的な癒しの証があってもなくても、福音の凄まじい力を証しするのは、信者の変えられた人生だ。
バヘルは悲惨な事故を経験したが、実はその事故こそは、人を通して表される神の愛がいかなるものなのかを浮き彫りにさせる媒介なのだ。
神の手となり足となり、バヘルのように神への失望に苛む子どもたちに、神の愛を実践的に運ぶファディや支援団体の働きの何と尊いことだろう。
キリストは、ご自分で全ておできになるが、あえて私たちのような器を使うのだ。それは我々が互いに愛し合う姿を通して、真実なるものを世に問う神のご計画による。
「神は愛なり」全ての善きものは、この方から出て、この方によってなり、この方に帰する。主の栄光を高らかに褒め讃えよう。
それにしても、21世紀とは思えない劣悪な環境で労働する子どもたちが世界にはたくさんいるのかと思うと心が痛む。
そのような子どもたちや、困難にある信者たちに、世界中で、物心霊の面で、尊い働きをするオープン・ドアーズのため祈ろう。
エジプトで、2級市民のような扱いを受けるキリスト者たちを覚え、社会悪の根絶とともに、福音宣教の前進のために祈っていただきたい。
(イスラム86.7%, コプト教会11.6%, プロテスタント0.9%, カトリック0.4%, その他)
※登場人物は仮名であり、写真は該当するようなエジプトの砕石場の写真ですが、本件と関わりはありません。シェアはご自由にどうぞ。
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