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【5月11日ワールドミッションレポート:🇨🇳中国「足のなえた者も獲物をかすめる(7)」】

長きに渡って、自分を捧げ尽くして人々や孤児たちに福音を伝え続けたジョージ亡き後、妻のグレースには宣教地から引き上げ本国に戻るという選択肢があったにも関わらず、彼女はそれを拒み、夫の働きを引き継ぐために温州市に戻った。彼女はそこで20年以上も仕え続けたのだ。

先月、口で咥えた筆で絵を描くことで知られる星野富弘氏が天に召された。もともと中学校の体育の教員だった彼もまた、授業中の不慮の事故により若くして障害を負ってしまった。彼の場合は、ジョージよりもひどく、首から下の運動機能が全く失われてしまったのだ。しかし、それにもかかわらず、その生涯を通して、星野氏ほど、福音の力をあれほど鮮明に人々に表した者が他にあるだろうか。星野氏は、その不自由なありのままの身体を人生のキャンバスに置き換え、福音の麗しさを描き切ったのではないだろうか。足りない者、欠けのある者、不完全な者を用いてご自身の完全性を表すことを、どうやら神はご自分の主義としておられるようだ。


使徒パウロは言った。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(2コリント12:9)」

使徒パウロの聞かれない祈り、すなわち癒されなかったパウロの肉体のとげにこそ、神の恵みは十全に溢れたのである。

ジョージ・ストットや星野富弘氏を見れば、この言葉は本当に真実だと深くうなずける。私たちもまた、欠けのある器として自らを主に差し出そう。自分に何ができるのかできないのか、私たちの能力はまったく問題ではない。ありのままの自分のすべてを神に差し出すとき、そこに神の完全な恵みは現れるのだ。


最終回「足のなえた者も獲物をかすめる(8)」に続く

(プロテスタント6.4%,カトリック1.6%,無宗教44.4%,儒教28.5%,仏教12.5%,イスラム1.9%,他)

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