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保育セミナー「うたげと初心」2024〜西野博之さん✖️青山誠〜「子ども讃歌〜子どもの隣にいるおとなが今できること」

新しい保育セミナー「うたげと初心」。11/16(土)に、オリンピックセンターにて開催します。
新しい保育セミナー「うたげと初心」。今年度は対面で開催します!

登壇者は・・・
西野博之さん(フリースペースたまりば)、岩田恵子さん(玉川大学)、西井宏之さん(白梅幼稚園)、溝口義朗さん(ウッディキッズ)、石上雄一朗(社会福祉法人東香会)、青山誠(社会福祉法人東香会)

子ども讃歌〜子どもの隣にいるおとなが今できること


3つある講座のうちの1講座目。
フリースペースたまりばの西野博之さんと、私、青山誠が語り合います。
テーマは、「子ども讃歌〜子どもの隣にいるおとなが今できること」。

西野博之さん(フリースペースたまりば)

映画「ゆめぱの時間」に流れていた時空。ヒリヒリするような子ども像

いわゆる、大人から受け取りやすい、大人の方で作られた「物語」の中の子どもはない。感動消費のための子どもではない。

映画『ゆめパの時間』を見て印象的だったのは、そこに登場する子どもたちが抵抗感というか、どこかヒリヒリするような、確かな手応えをもっていたことでした。

保育の世界では、ときに「子ども」は輝かしい、キラキラとしたものとして映されたり、語られたりすることがあります。

そうした一面がないとは言わないのですが、あまりにも容易に、おとなのほうで作られた「物語」「ストーリー」「ドラマ」に回収されすぎてはいないでしょうか。

それは気をつけていないと、自分が見たい子どもだけを見る、ことにもつながりかねません。

西野さんはもうずっと前から、おとなの見たいものだけを見ることなく、おとな用の(おとなにとって都合のいい)子どもではなく、目の前のその子、その人に出会っていくことを大事にされていると感じます。

それはたとえば『居場所のちから:生きてるだけですごいんだ』から、新刊『マンガでわかる! 学校に行かない子どもが見ている世界』まで、西野さんにずっと変わらないスタンスです。

たとえば、それは子どもたちの居場所「たまりば」を木造アパートを借りてオープンしたときのエピソードからも伝わってきます。

木造アパートの一室を借りて、さあ、これからここで新しい居場所をつくろうと意気込んでいたのに、やってきた子どもたちは天井裏にあがり、そこを自分たちで掃除して、「ここがわたしたちの居場所よ」と言ったとのこと。

その出来事にであった驚きを西野さんは以下のように書いています。

 後頭部をハンマーで直撃されたようなショックが、そのとき全身をおそった。みんなの居場所になるように部屋まで借りたことで、感謝され支持されていると思っていた「いいおとな」 であるはずのぼくも、彼らにとっては、それまでに出会った教師や親となんら代わりのない、 世間のおとなの一人でしかなかったのだ。当時の社会状況のなかで、自分が生きていることに すら自信がもてない状況に追いこまれていた子どもたちを前にして、ぼくがやったことは、彼らによかれと思って「学校」の外にもう一つ別のソフトな「学校」を用意しようとしていただ けなのではないか。学校に行けずに苦しんでいた彼らに、「大丈夫、君のそのまんまでOKだ よ」と言うのではなく、「変わらなければいけない、いろいろなことを身につけたり、挑戦したりしなければいけない」というメッセージを送りつづけていたのではないか。それを見すかしたかのように、彼らは屋根裏を「占拠」して、自分たちを守ろうとした。そんなふうにぼく には感じとれたのだった。
 このときから「たまりば」の基本方針が決まった。カリキュラムやプログラムを一方的につ くって与えるという関係はやめにしよう。

『居場所のちから:生きてるだけですごいんだ』(教育史料出版会)

子どもの側に圧倒的に立ち続ける

西野さんはそれから様々な困難(たとえば、せっかく見つけた一軒家に引っ越そうと思ったのに、周辺住人の反対運動にあって諦めざるをえなかったことなど)に見舞われながらも、決して諦めることなく、子どもの側に立ち続けていきます。

それはもう、ひとつの覚悟とでも言っていいもののように感じます。おとながのぞむ「解決」を急がず、とにかく一緒にいる、関わり続けるという姿勢が映像や本を読んでも伝わってきます。

「問題行動」にはしっている子どもたち に一生懸命語りかけ、叱ったり助言したりすることがある。でも、「やめとけよ」と言われたことをやってしまう子は、たくさんいるものだ。失敗してからでないと、学べないこともある。ぼくたちの出番は、むしろそこからなのだ。その 失敗をおかしてしまった子どもたちと、かかわりつづける腹を決めること。その覚悟とおとな の立ち位置が問われているのだと思う。

前掲書

それは子どもに関わる者にとっては、時には、とても重たく、もどかしく、もやもやした状態に自分をとどめ置くということでもあります。

これは保育にも言えますが、「実践や臨床というものは、曖昧さに耐えることである」と言われても、実際にやってみると本当に身体的に「きつい」です。そんな簡単なことではありません。

でもそれを一貫してやっていく。導いたり、答えを提示したり、そうしたことよりも、居場所としてあり続ける、共につくりつづける、そうすればその子なりにきっと自分で自分の「次」をつくっていけるのではないか、そこに寄り添おう。

それはすなわち、子ども一人ひとりを信じること。
きっと、だいじょうぶ。

そんなふうなメッセージが西野さんの活動や言葉からは伝わってきます。
そして、それは保育が「教育」の文脈に回収されようとする今、私たち保育者がいちばん忘れがちなことではないでしょうか。

誰もが安心していられる居場所をつくりあげようとするとき、そこには、「治療」や「教育」といった目線からも、一定の距離がおかれていることが必要である。治療という言葉を使うときには、「悪いところを治してあげる」というイメージが想定される。そして、それを施す側と施される側が明確に分けられてしまうのだ。治し治される関係性は、わたしたちが追い求めてきた場のイメージのなかにはない。
 また、「教育」という言葉も『広辞苑』で調べると、「他者が意図的に働きかけて望ましい姿 に変え、価値を実現する活動」という解説が書かれている。こちらもわたしたちが求める「居場所」のあり方とはずれている。誰か他人に気に入られようとか、世間に合わせようとするの ではなく、ありのままの自分を大事にできる。そういうことが、居場所をつくるときの重要な要素である。「望ましい姿に変えてやろう」 という磁力が強く働いているところには、ほっと安心して過ごす場など広がらないのだ

前掲書

きっと、だいじょうぶ。

でもそれはどんなふうに可能なのでしょうか。
混迷する時代の中で、西野さんはどのように子どものほうを向こうと考えているのでしょうか。

きっと困難な時代にあって、西野さんの話を聞けば「きっと、だいじょうぶ!」と思えるようになると思います。

西野さんの講演(90分)のあとに、私も保育の目線から対話してみたい(西野さんと、青山の対談を30分)と思います。
みなさまぜひ!

保育セミナーうたげと初心は、通し参加、各講座ごとのお申し込み、どちらも可能です!
詳細、お申し込みはこちら!


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