ルオー、マティエールの沈黙
汐留にルオー展を見に行く。
絵画はまったく詳しくないのだけれど、ルオーは大学の頃から機会があれば直に見に行っていた。当時から読みふけっていたドストエフスキーの世界観とも共振するような魅力を感じていた。
ルオーの初期作品から順番に並べられているものを見ていく。モチーフは早くから発見されているが、手法としてはあるときから生真面目に先達をトレースすることをやめ、自分の絵画の言語を見つけていく。それはセザンヌの影響なのか、絵付けがきっかけだったのか。いずれにしても、芸術家が自分を発見する、その飛躍に心打たれる。
今回の展示では、ルオーの作品を高解像度で拡大して映し出す展示もあった。マティエールを微分したような映像が大きく、ゆっくりと映し出されていく。微分しなければ見えてこない色たちのひしめき合い、重なり合いがまざまざとあらわれていく。
今回は数点しかなかったが一際異彩を放つ作品群があった。
「ミゼレーレ」と題された銅版画の作品群だ。
戦争をモチーフにして、長い年月をかけて制作されたとのこと。
以前この「ミゼレーレ」を中心とした展示もあり、それもたしかどこかに見に行った記憶がある。
今回、きらびやかで重層的、かつ厚みのあるマティエール、粘っこさも感じられるマティエールたちと並んでみると、「ミゼレーレ」は圧倒的な沈黙を思わせるものがあった。
白と黒だけであらわされているがふしぎと抑制的ではない。沈黙が抑制的ではないのと同じだ。沈黙の、「不在の存在感」とでもいうべきものは、通常むしろ圧倒的である。
このようなことがなぜ起こりうるのだろうか。饒舌と沈黙を同時に、おそらくかなり強い意志のもとに遂行するということ。
他の作品群との関係で言えば、なにか錘のような存在感をそこに感じてしまう。そこになんらかの関係性が潜んでいることをどうしても感じてしまう。
沈黙がことばの母胎であるかのような、まるで不在を請け負うことで、その他の作品たちのマティエールを支えているかのような印象を受ける。
「ミゼレーレ」だけを見れば、その主題はむしろ饒舌である。
むしろ主題化されて語られすぎてきたのではないだろうか。
今回の展示には「かたち、色、ハーモニー」という副題がついていたが、画家はまさにそれらを通して、考え、語るのである。
画家自身がことばで考えられるようなところから出発したとしても、「かたち、色、ハーモニー」は次第に画家を絵画で語ることへと連れ出していく。
晩年へ向かうにつれて、ルオーの作品は「かがやき」に満ちあふれていく。そこに「ミゼレーレ」の錘はもう感じられない。沈黙とことばというような二元論ではない世界へいったということなのだろうか。そのかがやきは私にはどこか非人間的なものに思えて、いつもすこしおそろしい。