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ののはな文京保育園の運動会から考える、「保育のサービス化」問題を超えて

晴れたはいいけれど暑すぎる気候になった本日、ののはな文京保育園の運動会でした。ついた頃にはもう、大人競技の「綱引き」が佳境を迎えていました。

ののはな文京保育園の運動会は、子どもも大人も楽しむ運動会。
保育園の行事を、大人が一方的に子どもを見る、評価するような機会ととらえず、みんなで一緒にごちゃごちゃ楽しもう!と捉えて取り組んでいます。

園の行事って、子どもが「何ができるようになったか」を確かめる機会となりがち。確かに「何かができるようになった」というのも成長の一つでしょう。でもそれは成長に伴う一つの出来事であって、目的でありませんし、子どもの方に一方的に課せられる目標ではないはずです。

たった1日の運動会。でもそれまでに子どもは園の保育者と一緒にたくさんのことを試行錯誤したり、心を動かしたりしてその日を迎えます。本番は確かに一度きりですが、子どもの日々も心も繋がりの中にあります。

それを本番にだけきた大人が、いいとか悪いとか、なんでできないの!とか、去年の方が良かったとか。はっきりいって失礼です。

もちろん保育者側には、子どもの日々と心がいかに繋がっているのか、その途中にどんな出来事があって、その中で子どもたち一人一人が、あるいは子ども同士の集団がどのように現れてきたのかを丁寧に伝える必要があります。

本当に分かち合いたいのは、その時ばかりの成果ではなくて、子どもたちが今どのように生きているか、だと思うからです。

それでも、いい、悪いを置いておいて、どうしても大人には「願い」という名前の一方的な要求や、期待というものが生まれがちです。子どもの気持ちになって・・・と言われても、大人は大人のままでは子どもの気持ちになかなかなれません。

それなら子どもと同じように、全力で体を動かしてみたら?
思いっきり走って汗をかいたり、大声を出したり。そうしたら子どもの体感に近づけるかもしれない。
そんなわけで、ののはな文京保育園の運動会には、大人(だけ)の競技がわりと多めに入っています。

大人の綱引きでは、総勢100人を超える大人がチームに分かれて、大きな掛け声のもと、思いっきり綱を引っ張りあっていました。その中心では、園長の野崎さんが大きな声を出して、競技を盛り上げていました。

勝っては両手をあげて歓声をあげて、負けてはお互いの顔を見て笑い合う。
再戦に際しては、保護者から保護者へ掛け声が飛んでいました。

そこには「サービス」の影はありませんでした。
各自治体の保育行政により、保育サービスという言葉が頻繁に、無造作に使われるようになって久しいのですが、行政の文脈での「保育サービス」はあっても、本来保育はサービスではありません。人はサービスでは育ちません。

サービスは方向性を伴います。誰かが提供し、誰かが受けるのです。
でも人が育つという時に、必ず、誰かとの関係性の中で育ち合います。その育ち合いの場は、この日のののはな文京保育園の綱引きのように、豊かな「ごちゃごちゃ」です。
それは、誰かが誰かのニーズに対して一方的に提供したものではありません。

親たちのそんな奮闘を、子どもたちが少し遠巻きに、呆然と見つめていました。
いつもの表情と違う、パパやママ。いや、パパや、ママという家庭での役割名ではない、その人。

あんな表情(かお)、初めて見たよ。

子どもたちが言語化できるなら、そんなふうにつぶやくかもしれません。

子どもたち一人ひとりは、すでに夢中で、その人自身を生きています。
子どもの思いに近づく、というのは、大人の私たちも、自分を夢中に生きることなのかもしれません。そしてそれはそんなに難しいことでももなく、時々こんなふうにみんなで遊ぶことから、ひらけてくるのかもしれません。

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