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私たちのナラティブツリー03
意気揚々とナラティブツリーについて語ってきましたが、ときどき、ナラティブツリーこそが悪いんじゃないか、と思うことがあります。
言葉にする、それをだれかに分けていく、共有していく、それが確かにケアになっているなと感じることもあります。
でも反対に、それこそが呪いになっているんじゃないかと思うこともあります。どういうことか。
言葉にすることで、ぼんやりしていたものがくっきりとしていきます。そして、ナラティブのタイトル通り、それは単なる保育記録や計画の言葉とちがって、自分の「こらだ」(からだとこころがないまぜになったもの)からあふれてくるものです。
だからこそ、言葉にしてしまうと、自家中毒というか、自分の「こらだ」がありありとあらわれてきてしまう。つまり自分について、つい考えすぎてしまうわけです。
だからナラティブを通して、私たちは私たち自身に呪いをかけつづけているんじゃないか、そんなに自分の「こらだ」のことって考えないほうがいいんじゃないの、もしかして。そんなふうに感じるときもあります。
ここは、どのくらいがケアになっていて、どこからどういくと呪いになってしまうのか、まだ私にもつかみきれていません。そこにゆらぎもあるような(ケアになったり呪いになったり)気もしますし、もしかしたらケアだから呪いであり、呪いだからケアなのかもしれないと感じることもあります。
いつかわすれたけれど、もうばっさりやめちゃったほうがいいのかもしれない。メンバーの重たさを見て、そう考えたこともあります。
でもナラティブツリーは、それ以外の、保育における共有や稽古の側面もあり、そんなに簡単に諦めきれない部分もあり、またじゃあそれ以外のやりかたを思いつかないほどに、私たちの日常ともうぴったりくっついてしまっています。
開園から5年たち、4000個ものナラティブがあがってきています。もうそれは私たちの身であり、時間でもあるのです。でもだからといって、自慢げに意気揚々とやっているわけではなく、どうしたもんかねぇと思いながらやっています。
それで、やはりこれは「濃すぎて自家中毒」なわけだから、それにたいしてなにか考えたほうがいいと思って、ひとつアイデアを考えましたがそれはまた次回。
ナラティブツリーについて、私、青山が語ります。今回のケアなの、呪いなの、いや両方?のあたりも。まだ見えてきていませんが、いま感じていることをなるべく率直に語れたらと思います。4月19日の夜、オンラインです。どなたもどうぞ。参加費無料です。
通年の、上町しぜんの国保育園園内勉強会も、今年のテーマは「ナラティブツリー」です。こちら、外部からの参加者も30人くらいいらっしゃいます。ご興味あればぜひぜひ。