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保育セミナー「うたげと初心」に寄せて〜初心への近くて遠い道

11月11日、12日に開催される新しい保育セミナー「うたげと初心」。
全編、1か月の見逃し配信付き!
ライブビューイング会場もあります!!

新しい保育セミナーを企画しました。その名も「うたげと初心」。
それに寄せる形で、今考えていることのあれこれや、保育について書き記したいと思います。

2回目は、「初心」への近くて遠い道。

ゲーテは「何者かになるってことは何かを捨てるってことだけど、だーれもそれを理解してくれないのよ」というようなことを言ってました。うろ覚えですが。

育つって、「何かを獲得していく」みたいなイメージがあるかもしれないけれど、おとなになるって何かを捨てることで、何かを選ぶことでもあるかもしれないのです。

捨てるってことで、せいせいするってこともありうるのだと思います。
自分が頑張らなくてもいいことを、頑張らないと決めるとか。
苦手なことを堂々と回避してやったとか。

その捨てる/選ぶ、を後から振り返ったときに、悲しいのかどうなのか、それはもうその人それぞれの情緒的な問題になるかもしれません。一般化して語れないその人のストーリーと言ってもいい。

で、そのような育ちっていうのは、
結果的に「育ってしまう」のであって、いいとか悪いとかではない。

それに対して「初心」というのは、育ちへの処方箋みたいなものです。

保育者は「育ち」によって、なんらかの変容をこうむります。
その変容を「チャラにしようよ」、と投げかけてくるのが「初心」だと思うのです。

初心は、たとえばこんなふうに投げかけてきます。

いままであなたが育ててきたすべてをチャラにしても、
保育の最初の日々で感じた心の動きに立ち戻りませんか?

いままで自分が積み上げてきたものは、大変な努力や我慢や、ときには強いられた日々のなかから獲得したものかもしれない。
もしかしたら、あなたは大切ななにかを捨てて、それを手にいれたのかもしれない。

それ、すべてチャラにして。
無にして。
無駄にして。
最初の日々に感じた心の動きを取り戻しませんか。

初心ってこんなふうに酷なことを言ってきます。
積み上げたから、えらい。とかはぜんぜん言わない。
むしろ初心は、「いま、このとき、さあ飛び込め」と言ってきます。

実はもうすべてが満たされていて、そろっていて、
最初の感覚をただ信じればいい。ただ、それを生きればいい、と。

ただし、ひとは、いつでも生きてばかりはいられないのです。
生きることと、生き続けることはちがう。
ひとは、ありきたりな日常をぐだぐだと生き続け、生き続けるための方便として、育っていかなくちゃやってられない。昨日より今日、と念じなければこの日々を生き続けることさえ苦しいときだってあります。

でも、初心は苛烈です。
さあ、いま、生きよ。
そんなふうに言ってきます。

だから初心を忘れるな、なんて嘘です。忘れてなけりゃあ、生き続けていられない。それは惰性とか慢心とかいうのとはまるでちがうように思います。

初心なんて、たまに、出会いに行くくらいでいいのだと私は思います。
でもたまにはどんなに苛烈でも、出会いにいかなくちゃいけない。すべてをチャラにしてでも。

初心への道は近すぎて遠い。
本当はすでにあるものを認めることのほうがむずかしいときもあります。
まだ自分は獲得していないだけなんだと思っていたほうが、生き続ける勇気が湧くときもあります。

でもそれは、初心はすでに私たちのなかにあります。そしていつでも子どものほうへ、子どものほうへ、と私たちを誘います。
なぜなら、子どもこそ、今ここで、初心を生きているひとたちだからです。

みなさま、ぜひ。


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